人間は要するに儲かるように行動するという仮定をおいて、数式でモデルを作り、経済事象をシミュレートする。そういう流儀の経済学が流行ったことがある。社会問題ネタ、目次へ
そんなバカな、と思いながらも当時主流だったことから真面目に批判した。彼らの代表的な主張であるところの「経済政策は無意味である」というのをひっくり返す。前提がおかしい、などというわかりやすいものではない。同じ前提から、彼らが認めがたい結論を引き出すのである。引き出された結論は
「経済政策は無意味ではない。あまりにも強力で実行される必要がないのだ」。
経済政策、要するに国債を発行して公共事業を実施し需要を増やして景気を刺激する、こと、こんなことをやると大変なことになるので、「経済政策という手があるぞ」と気がついた途端、みなさん寄ってたかって経済政策がいらないように民間需要を創出する、という結論に達したのである。大学3回生を控えた春休みであった。
経済人仮説を本当に貫徹するなら、そこまで予測して行動するハズである。その後の発見を含めて、分かりやすく説明すると、こんなふうになる。
もし、公共投資の資金調達のために国債というものが出るとすると、買ったほうが得である。というのは国債返還の原資は将来の税金であり、国債を買っておかないとそのとき支払う税金からの返還を受けられないからである。これは損を招く。特に今のように金利が予想経済成長率を超えており、自ら投資して得られるリターンより国債を買ったほうが利子率で割り引いた現在価値が現金よりも国債が高くなるので明白である。
ということは、合理的な経済人は生活水準を生存レベルギリギリまで切り下げて、国債を購入することになる。
このとき措いた仮定は「国債の供給はきわめて弾力的で需要と一致する」である。当時のノートがないので具体的には書けないが、元々は数式を入れたりしてそれっぽく仕上げたものである。彼らの論理の中で、これは問題とならない。皆さんひたすら国債を買うために食うや食わずの生活を続けることに何の矛盾もない。しかし、ここまでくると著しく直感に反する。ところが経済人は別の選択肢を持たないわけでもない。国債を発行するもともとの必要性を失くしてしまうのだ。国債の需要が減れば値段が下がって金利が上がる。しかし需要をゼロにすれば金利もゼロになる。かくして経済人は、政府が国債を出さないといけないほど需要喚起が必要であると分かった時点で、自ら消費を拡大して景気を良くしたほうがマシである(消費する分生活水準は上がる)、という判断をする。結果消費は増える。
結論は心情的に納得しがいたと思う。確かに論理の飛躍はある。ただし前提は崩していないのでこれに反駁しようとすると経済人仮説を修正しなければならない。例えば寿命も金銭以外への欲望もある人間として作り直さなければならない。多分「時間」を金銭に換算して理論を作り直すことになろう。私も当時は時間なくして存在を成り立たせようというところに無理があるとハイデッガー学徒らしいことを考えた。ところがモノを受け取るときの時間による価値の差異を考えると経済学全体への影響が大きい。時間軸のある3次元を2次元に投影すると無差別曲線は交差する。つまりミクロ経済学の大前提が成り立たなくなる。元々は机上の空論にゆらぎを与えるために作った机上の空論で、言ってみれば背理法で経済人仮説の問題点を証明しようとする試みであった。ところが、この期に及んで現実味を帯びてきた。経済人は存在したのだ。銀行を含めて機関投資家、である。そして国債の発行額は事実上市場が消化できる上限(と思われるもの)に張り付くようになったため、発行額の弾力性についての仮定も満たされてしまった。この結果、人は国債に投資せざるを得なくなるという現象がおぼろげながら見えてきた。ただし理由は僕のモデルとは異なっている。
日本人は国家が吐き出し続ける国債を消化しなければならない。自分の儲けが減るのは十も承知で、金利を下げるために目一杯買い続けなければならない。機関投資家は今まで買った国債が暴落して自分が倒れるからである。国民は将来の税率がとてつもなく上がって困るからである。基軸通貨国ではないので国内で消化しないと、将来の納税が国外に流出するからである。
今までの財政赤字は国民に対するツケであるとともに国民自身のツケである。それをしのぐためには消費や投資(事業会社への貸付を含む)を押さえて国債を買い続けなければならない。でないと経済が維持できない、ひょっとしたら日本はそこまで来てしまった。問題はさらに悪い。国債はすでに雪だるま式に膨らむ借換債が制御不能なレベルに達している。利子率が経済成長率を超えているのだから仕方ない。まだ絶対額が「無理すれば税収の範囲で返せる」レベルならばよいが、そんな牧歌的な範囲にとどまっていない。ここまでくると、機関投資家は損を先送りするために国債を買い続けるしか選択肢がない。
すると、民間の投資意欲が生じても、銀行は融資できない。できるかもしれないがその量は限られる。少なくとも景気の回復を民間主導で行えるほどの資金を供給することができない。つまり、政府がいかに景気刺激策を講じても、民間が追随できないのだ。つまり現在の需要不足は今の枠組みでは脱出不可能なのだ。
となると、海外からの投資に頼るしかなくなる。さあどうやって海外からの投資を呼び込む?税制優遇でもするか?
(僕にしては珍しく、通貨と貨幣の差を無視している。投資を「流れ込む」のイメージで捉えている。つまりそれくらい危機感を持っているということだ。で、国家が資本の育成に注力して、結局企業のグローバル化にともない、利益は国外に逃げていくという構造が加わると、現在の枠組みではどうしようもない。今、考えられているのは国際課税くらいしかない。大義名分として地球温暖化が使われる。そのうち答えを出します。もしできたら拍手くらいはしてくれ。)くそう、見えていたのに。。。僕は責任を感じるべきだろうか。
がんばれ小沢!多少悪いことしても僕は気にしない。人にはない才を持ったものはのし上がる責任がある。最後に社会に貢献できるなら、過程は不問に付していい。
僕には出来なかった。その代わり感覚を麻痺させるという代償を払わずに済んでいるが。