究極の国語

 国語の問題は、突き詰めれば一つしかない。
「次の文章を、書き換えよ。」
 確かに全文書き換えよ、というのは出たことはないだろうし、どういう観点から書き換えるのか、というのはバリエーションがあるのでここまで突き放した言い方が実際に使われることはない。主人公の心の動きから、とか、しょーがくせいにもわかるように、とか、英語に訳しやすいように、とバリエーションはつけてくれる。
 そうであっても、本質が「書き換えろ」であることには違いない。これが自由自在に出来れば、間違いは殆どなくなる。あ、一つの回答を許可してくれれば間違えることはない「筆者の論は詰めが甘いので書き直すに値しません。」
 さすがにそのものずばり、こう書いたことはないが、近いものは一度あった。大学入試の数学で「川がまっすぐ流れている」というのが問題文にあった。「まっすぐ」に「両岸が平行」というニュアンスはあるが、数学の問題として平行であると保証されたわけではない。仕方なく、平行であったときと、そうでないときについて場合分けをして解答した。かけた時間もむなしく、落とされた。受けたのが法学部というのがまずかった。法律的には依頼人の立場を斟酌して、たとえ要望がなくとも「平行」と主張するのが正しい。適性検査とすればなかなかである。

 閑話休題。かなり粗っぽい意見だと思うが、内省してみると確かに国語の問題って「書き換え」のバリエーションだなあ、と感じてもらえると思う。漢字の読み書きも「書き換え」には違いないし、と考えてくれるとうれしい。
 ところがここで哲学的と言ってもいい矛盾が生ずるのだ。問題文に書き換えの余地があるとすれば、それは問題文が不完全だということだ。不完全な問題文を元に解答を出せというのか!である。しかしここまでなら許容範囲である。世の中に完全なものはないというだけのことだ。
 ところが「問題を解け」ということは、その不完全なものを書き換えてより完全なものにせよ、ということである。ぶっちゃけた話、問題文の作者よりも解答者が文章が上手いことを前提としていることになる。普通そんなことありえんだろ、である。
 そこで、問題作成者がギャップを埋めることになる。「文中から○字で抜き出せ」「傍線の部分で筆者がそう考えた根拠を次の4つから一つ選べ」。そう、これで見慣れた、普通の問題になる。

 ここで問題作成者は問題文の作者の主張を自分の解釈に基づいて分かりやすく分割しているわけだ。つまり「書き換えなさい」の手間を半分(以上)行ってくれている。そこでトータルではプロの文筆家も書けなかったものを書かせるという問題が成立する。これは物語文には素直に当てはまらないかもしれない。文章表現とかあるからね。しかし、表現技法の表すものを、すくなくとも分かりやすい形で書き直させることに違いはないわけだ。

 しかしながら、ガイドがついていてさえも、問題を解くというのは学生/受験生にとって心理的な負担が大きい。多分無意識的には彼らも気がついている。「(部分的にとはいえ)プロの文筆家を超える文章力をオレに期待するのか」!できるわけがない。物証もある。少なくとも作者はこの問題を解けば満点だ。が、俺はいくつか間違えるのが常なんだから。その自信をどうやってつけろというのだ。

 この壁を越えるにはいくつかの方法がある。せっせと惚れた女にラブレターを書き続けるなんてのもそうだよ。書いてるときは思っているだろう。あいつを世界一好きなのは俺だ、だからそれを世界一文章に書けるのも俺だ。そう、あなたは今、世界一の文章を書けると確信している。多分不本意な結果に終わると思うが、その経験は小さくないよ。
 他の方法として、私がやったのは毎日新聞のコラムを写し続けること。これは主張を文章にするときのコツや構成を体で覚える練習でもあったが、写しているうちに「この程度しか詰めれないのかよ、もっとしっかり結論出せよ」という気になったのも事実。このとき、当方はたいていの人よりも文章を上手くまとめられるのではないかという気になった。
 さて、そうやって鍛えた筆力がどうかは・・・読んでくれた人の判断にお任せします。なお、ハルヒモドキは私の文章を読んで谷崎潤一郎そっくりだと気持ち悪がりました。すすめられて谷崎の文章読本を読んで、納得しました。文章に対する美意識がおんなじだ。

 ところが、いくら小学生とはいえ、うちのガキが習ってきたのは「文章題のとき方」だった。読み方のテクニックである。これである程度点数が取れるのは否定しない。しかし、あらかじめ想定された以外の問題には対処できない。対処できない問題を「クセがある」などというとったが、ちゃうでぇ、あんたの読み方に(正確には問題の解き方)にクセがあるんやって。相手は説明文なのに「感情を表す言葉」にマルをつけて、あとは制限時間までひらめくのを待っていても解けるわけないだろう。

 文章のプロであるはずの筆者の文章を書き換える、これはやってもいいんだ。できるんだ。これを教えるのは無理かなあ、つかんでもらうしかないかなあと思っていたが、実にすばらしい題材を見つけた。うちのガキが持って帰った試験問題である。
・筆者は、聴衆のいる講演をベースに文章を書いたので、文体、特に文尾が不統一。
・分かりやすいように、同じことをいくつかの視点から述べているため、冗長なところがある。
 ようするに、「その場の雰囲気/共通理解」を前提としているので、勢いで言ってしまうところがあり、かつ、聴衆の記憶というあいまいなものに頼って論理を展開する必要に迫られたのだろうか、行きつ戻りつで説明しているために、そのまま文章にしてしまうと粗が目立つのである。これは筆者でさえも異論はなかろう。
 じゃあ、これを立派な文章に直してごらん。その過程で、どこが分かりにくいか、どうすればすっきするか、を考えながら。これは読解力向上の施策として実にいいと思うがな。ついでにどうすれば文章として恥ずかしくないかが分かると記述力の向上にもつながる。
 まあ、これをガキに期待するのは無理だから僕がやってみる。あとで読んでごらん。絶対得るものあるから。内容も面白いし当方は二次創作意欲を掻き立てられた。試験は本来手書きだけど、ワープロの使用は大目に見てくれ。

 しかしこれは縦書きでないと決まらないなあ、よし一太郎の新版が出たら着手しよう。その頃には当然、入試、終わってるなあ。まあ仕方がないといえよう。

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