人格形成期に携帯電話を持たせることは悪影響が大きい。せめて18歳までは携帯電話を禁止すべきではなかろうか。社会問題ネタ、目次へ
便利である一方、人を思いやる力がなくなったり、計画性がなくなったりするのだ。ここでいう計画性とは、単にスケジュールの線引きをしたりすることではなく、これから行うことをシミュレーションする能力である。これがないと必要なものを準備できないので、実際に取り組む段になってあたふたすることになり、多くの場合失敗する。つまりこういうことだ。所在の分からない相手と即座に連絡を取り合えるということが甘えを生むのだ。その時になったら携帯電話で連絡を取ればいいと、勝手に動く。従来であれば子どもは迷子になるのを恐れて親の位置を確認しながら動いていたところをだ。
はぐれたら、ここに集まる、という打ち合わせをしたり、きっと○○の店の中にいるだろうと相手の行動を想像する習慣はなくなる。これははぐれるというリスクへの対処をしたり、相手の動作パターンや嗜好を注視してストックする能力を不要とする。当然、思いやりはなくなる。
こどもに限らず「キレる」自由は増大した。どこかにプチ家出(出先で姿をくらますことも含む)しても携帯で連絡を取りなおせばいい。我慢したりや影響を想像したり、不要になる。(江戸時代ははぐれたら今生の別れ、になることも珍しくなかったとか。)そのような自由を当然のものとして享受した人間は、いつか取り返しのつかないところでキレる可能性がある。また、その時になって「携帯で」知っている人に確認することができるようになったがゆえに、事前に調査して、やるべきことを固める能力は一見不要となってきた。したがって必要なことを詰めなくてもなんとかなるや感が蔓延してきている。しかし、すべての問題について解決能力のある人が見つかるわけではない。これまた、いざというとき取り返しのつかない事態を招くことにつながるだろう。
最初からわかっていた核廃棄物の問題さえ、確認しない人間が携帯普及以前よりいたのだ。携帯世代が大きくなると、この種の取り返しのつかない事態があちこちで頻発することになるだろう。解決不能という恐怖をギリギリまで先延ばしできるかのようなツールを人格形成期に与えておくのはよろしくない。ガキの学校の宿題で、学校で携帯電話を禁止すべきかどうか、というのが出て、ならば、と組み上げたのが上の論。「学校で」ではなく「学校期において」になってしまったがね。
うちのガキは携帯容認派なので、もちろんボツになった。
しかし、とてもまともな論だと思うがどうだろう。少なくとも先生方が見たら「なるほど禁止してその分、思いやりのある、思慮深い子に育てよう」と思う程度には、だ。
(てか、こういう主張、普通に出ていてしかるべきだよね。)