領土拡大、東西物語

 いつのまにかクリミアがロシアに併合されていた。
 それに倣ってウクライナの一部の州も住民投票強行。
 ロシアでは民族自決の機運が高まっている。
(チェチェン共和国を除く。)

 というわけで注目しているのは、
 メキシコのタマウリパリス州リオ・リコ市、である。
 元々アメリカ合衆国テキサス州、だったのだが、1970年の条約でメキシコに編入された。
 なので、ここの住民がアメリカ合衆国への帰属を求めて住民投票することは、クリミア人程度には説得力がある。
 んでもってこの投票の結果、この町は交易で栄えるはずなのだ。なにしろ「リオグランデ川」の南に位置する合衆国である。川を越えずに人の国際間移動が可能なのでさぞや流通が盛んになるであろう。
 西洋の陸地では、こういう流れが起こっているということだ。いまのところ話がややこしくならないよう、1898年のパリ条約の「解釈変更」によるキューバ人の合衆国帰属運動は起こっていない。

 一方、東洋の海洋では中華人民共和国の「侵略」行為が横行している。(教科書問題で「進出」を書き換えさせた経緯がある以上、同様の表現変更には甘んじなさい。)やはり西洋に比べて文化の成熟度が低いのだろう。侵略の根拠は言ってみれば「何百年もむかし、うちの近所に住んでいた人が、このあたりで休んだという記録がある」からなのだから、一笑に付すべきだろうが、核兵器がバックにあるので正当防衛をとるかの判断すら政治的に難しい。(ベトナムへの船舶衝突映像を見てから冷静に考えると盧溝橋事件は中国側から仕掛けてきたのが真相なんだろうな、って思えてきますね。)

 再掲しとくけど南沙諸島の領有権。太平洋戦争中は間違いなく確定していたのだな。誰がどう見ても「日本の占領地域」だ。では日本はどこから奪い取ったか・・・これは電撃的すぎてわからん。それでもとっとと手を引いたフランス植民地であったベトナム領であったとは思えん、とは言えるし、日本保護領になったといえなくもないブルネイの出る幕はない。マレーシアは残念ながら陸路侵攻されてしまったので、これまた海を防衛した実績がない。

 では、どの国が血を流してでも奪い返したかだが、その辺で海戦を行ったのは、少なくとも中華民国海軍ではない。アメリカ合衆国海軍、が妥当だろう。ここで例えばインドネシア人が志願して戦闘に加わったという記録があればいいのだが、結局のところ「フィリピン領」が普通の発想なのだ。すくなくとも戦後国境を定めたサンフランシスコ講和条約に調印しているのはフィリピンだけである。(サンフランシスコ講和条約で日本は新南群島=南沙諸島を放棄しているから、この時まで「南沙諸島の領有権は日本にあった」と言える。たしかに「中華民国」は領有を主張したが、それは合衆国占領下の時代であるわけで戦後処理の場に出てきていない以上、無効であろう。中華人民共和国はさらに分が悪い。1972年の日中国交正常化時も触れていないのだな。同様にソビエト連邦も調印していないが、終戦直前、千島と樺太に侵攻し、きっちり占領したのでロシア領になっていることに意義を唱える人はあまりいない。着目すべきはロシア人は「固有の領土」なんて言い方はしていないことだ。「第二次世界大戦の結果としてロシア領になった」という言葉の使い方をしている。終戦後に占領した歯舞諸島〜時差を考えると国後島、色丹島もあやしい〜については、そうとは言い切れないのだが。だからさー、ソビエト崩壊時にエリツィンが「国境をロシア時代に戻そう」とクリミア併合を主張したとき、日本もそれに乗って「じゃあ千島列島と南樺太を戻して」と主張すべきだったのだ。)

 陸地から12海里はベトナム領と認めるべきだといった、交渉の余地はあるが、概略について議論の余地はない。少なくとも当時は国家として成立していなかった中華人民共和国の皆さんがしゃしゃり出る根拠はないはずである。
 もし、中国がサンフランシスコ講和条約に拘束されないと主張するなら、そこは今でも彼らにとっては「日本領」である。江戸時代初期に活躍した交易の民と、ジャガタラ文を残したお春さんのおかげで、固有の領土と主張する際の根拠は中華人民共和国以上のものがある。

 というわけで、理性的な会話ができるように、条件を同じにしましょう。つまり「各国が核を保有」してから交渉しましょうよ。でないと中国は好き勝手するんだからね。
 冗談だと思ったら核拡散防止条約の第4条を読んでみて。日本は核保有に踏み切っても許される状況になっているのね。北朝鮮の核が届く範囲の国は同様の根拠を持っております。

 ついでだ、前回の扉ネタも保存。

積極的平和主義とは平和のためなら戦闘も辞さない態度である。
かくのごとく、戦争は通常、正当な理由が掲げられている。
つまり、戦争というものは、当事者にとっては正しい行為なのだ。
その当事者の独善的正義を戒めるのが憲法第九条だろうに。
 だからどうしてもというなら、
「集団的自衛権は、行使しても日本に対して反撃しないと確約が得られた場合にのみ行使する」
という条件を付けるというのはどうだろう。集団的自衛権に厳しい制限を付けるというのは安倍首相も認めている。これがないと例えば宣戦布告されて東京にミサイルが落ちても文句は言えないのだ。
 きわめて、健康的な発想だと思うのだがどうだろう。

 野党はどうしてそういう突っ込みを入れないのかね。安倍さんもまさか「反撃はされないと確信できる場合にのみ」とは答えられまい。「反撃力のない弱い者いじめしかしないってことか?」って返されたら男として困るからね。「米国ちゃんに言いつけるっていえば大丈夫だもーん」。思っててもおくびにも出しちゃだめだぞ。へー、米国以外でも集団的自衛権を行使するような軍隊と一緒に行動するつもりなんだあ。(米国の例えば軍艦を攻撃している軍隊はすでに米国と交戦中であり、米軍に庇護されているからといって日本を攻撃目標から外すことは考えられない。)
 このとおり、集団的自衛権はとても不健康な発想だったのだ。

 海に落ちた米国軍人を自衛隊が救助した場合、従来は「人道的行為」と言えた。しかし集団的自衛権行使します、と公言してしまうとそれは「軍事行為」になる。これだけで攻撃対象とする口実ができる。
 ここで米軍を攻撃することを避け、あえて日本を攻撃する、ということが大義名分が生まれる。このとき攻撃手段が核ミサイルだったすれば、米国は応射してくれると思うかい?核で戦う意志と能力があることを実戦で証明したんだよ。米議会は間違いなく騒ぐ。米本土に核が飛んでくるリスクをあえて選択する意味はあるのか、瀬戸際外交に応じるべきではないか、という声が大きくなってくる。
 問題は、東京を破壊する能力はあっても、首相官邸ないし皇居をピンポイントで破壊する能力はないということである。それだけで十分なのにな。日本国憲法の最大の弱点は、内閣と天皇の連絡が切れると「国事行為」ができないことなのだな。まてよ、憲法の解釈変更が閣議決定で許されるのであれば、「天皇とは内閣総理大臣のことである」と解釈変更してしまえばよいのだ。弱点をやむなく補強するわけだから、集団的自衛権の行使容認よりも妥当と思われる面すらある。

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