フランスで、イスラムを冒涜しまくっていた雑誌のみなさんが殺されたそうな。社会問題ネタ、目次へ
彼らは天国に行けただろうか。殺したから悪い!とテロリスト側を非難して終わりにできれば簡単だが、どうしても気になるのは雑誌編集部の皆様の覚悟のなさである。
継続的に冒涜漫画を載せれば不快感を感じる人もいることは十分予測できなければおかしいし(その程度の想像力もない人が雑誌を作っているとすれば、それは作る資格がないのだ)、しゃあしゃあと「言論の自由だ」「嫌なら言論で来ることを希望する」などとインタビューで答えているのは、あまりに認識が甘いと言えよう。
考えてみろ。従来もイスラム教徒からの抗議の声は届いていたはず。ところが出版社はそれを理解しなかったらしく、引き続き冒涜漫画を載せ続けた。であるから、自分たちの宗教と文化を守る最後の手段として抗議の意思を銃弾に込めざるを得なかった、その心情を推し量ることはできる。イスラム教は一部のカルト宗教ではない。十数億の信者を持つ一大文化である。
それともフランスは常に言論で戦ってきたのかね。まさか。というのはテロにあった編集部は、抗議の声に耳を貸さなかったわけだろ。つまり反対者の言論を無視してきたわけだ。であるとするなら「言論の自由」を語るに十分な資格があったかどうか、私には疑問なのだ。
確かにナポレオンはそれなりに論が立ったらしい。「私の辞書に不可能の文字はない」一言残るだけでも大したものだ。しかし言論でオーストリアを屈服させ、北イタリアを併合してきたとはとてもいえまい。ヨーロッパ列強がアフリカを侵略したとき、こんなことがあったらしい。現地の人から家畜を購入した。ところがそれを盗みに来た。だから戦争して征服した。まったくもって一方的な言い分である。というのは現地の皆さんにしてみれば「生物と無生物を交換する」という発想がなく、家畜を渡したらその代わりとして、将来、その家畜の子供で返す、というのが常識だったからだ。ヨーロッパから来た人はいつまでたっても子供を返してくれないので、やむなく返してもらおうとしただけ、なのだ。
このように、ヨーロッパの観念がどこでも通用するわけではない。
彼らは意図的に2つのことを混ぜ合わせているのである。
「(国家に公認されない)殺人はよくない」という法律と、「言論の自由」という理念である。両方明文化されているとしても「殺人」という刑法上の問題と、「言論の自由」という倫理的問題を混同している。「言論の自由」はよい、「殺人」は悪だ。これは(よほどのカルト教徒でないかぎり)認められるだろう。しかし「言論の自由が認められないので殺人という手段に訴えた」をそのまま普遍的真理として適用するのはどうかと思う。というのは、ここで「国家権力による強制力」露骨に言うと「国家による暴力」装置が発動するのが当然であるかのように見せてしまうからである。
「イスラムはフランスの法律を侵害した悪である。それを殲滅するのは絶対的正義である。」
ようするに相手が悪いから何をやってもいい、という態度になってしまうのだ。一国の恣意である「法律」と倫理上の「悪」は同列に論じるのは適当ではない。それともテロリスト対処法というのがあって「自国民の言論の自由を妨害する異民族は裁判なしで殺してもよい」なんて定められているのだろうか。人質はいたけど1名だろ。突入&射殺が早すぎないか?最終的に突入&射殺は仕方ないけども、まずは言論で戦うことをやらなければなるまい。
「言論の自由」を御旗に好き勝手やっていたところ、抗議という言論が来た。彼らの言論の自由を無視していたら銃を撃たれた。国に頼んで軍隊を派遣して殺してもらった。
ワンクッションいるだろう。新聞社はまず「言論をもって」テロリストを説得しろ。そして自分の言論に力がなかった敗北感を持って暴力の許された「国家」に対応を依頼すべきだろう。
少なくとも「今までの雑誌の編集方針はよかったのだろうか」という反省は彼らから出てきてしかるべきだ。「殺人をした以上、相手が悪い」までで都合よく思考停止に陥っているようだ。
この思考停止が危険な理由は、倫理的問題の違反を刑法で直接罰するのを正当化してしまうからだ。イスラムの戒律の観点で考えてみよう。ムハンマドの絵を描くというイスラムの「法律違反」を犯したことは「悪」である、だからそれらを裁くために暴力を使用することに問題はない、となるのではなかろうか。(「偶像を作ってはならない」というモーセの十戒を都合よく忘れたキリスト教徒には理解したくないことだろうけど。)更に彼らが反省していないもんだから、似たようなことは起こるだろう。そして今までも似たようなことをやっているんだなあ。インドのセポイの反乱。兵士たちの信仰している宗教上の聖獣の(ないし不浄の)油を配給し、怒らせたところで「鎮圧」を名目にインドまで征服してしまった。
こんな歴史的背景まで含めて考えると、「言論の自由」とは「暴力」を正当化するための理論として使われてきた理屈に見えてしまう。聖獣の油を配って挑発し、乗ってきたら「そっちが先だ」と過剰な暴力に訴える。ひょっとして、雑誌社襲撃への反撃を口実にイスラムを弾圧するつもりなのかな。だって、この事件だって圧倒的な火力をもって突入し、鎮圧したんだろ。もし「言論の自由」を信じるなら「言論の力」で先方を説得し、納得させる、そして罪を憎んで人を憎まず、くらいで落とすことをまず考えるはずだろう。少なくとも、雑誌の方もしばらく反省すべきだろうに、さっそくイスラムの戒律に違反する漫画を表紙に持ってきた。これは明らかな「挑発」ととられていいのではないかな。
違う宗教の聖堂の前で手を合わせることはしないが、不敬は働かない、そんな美意識がキリスト教徒にはないのだろうか。(ないのです。異教は破壊するのが善なのだ。)もっと即物的な問題がある。雑誌社を持っていた人には「言論の自由」があるが、民族衣装を法律で否定され、三流雑誌に馬鹿にされてきたイスラム教徒の人々に「言論の自由」が本当にあったかということである。道端で大声で主張していれば、お巡りさんにしょっ引かれるのではないか?まさか「君たちも雑誌を作ればいいじゃないか」なんて言うなよ。新規参入はそれほど簡単ではないんだろ。つまり
「言論の自由は既得権」
なわけだ。だから、言論の自由を守れというのは
「既得権を奪うな」
ということと新聞社にとっては同義である。まー銃で奪うのは短絡的かもしれんが、
「我々には新聞がある。だから言論で戦う」
と比べて
「我々には銃しかない。だから銃で戦わざるをえない」
のどこがおかしいのか、きちんと説明するのは難しい。人間の歴史上普遍の真理に基づいているわけではないからね。。だから「言論の自由」という既得権を盾に、「風刺」と言い張って好き勝手言うのであれば、その「言論の自由」を反対勢力にも解放するのはやってもよかったことではないかな。
せめて投書欄で積極的に取り上げよう。できれば何号かに一度、反対の論を無添削で載せよう。これくらいの配慮があってはじめて「自分たちは言論の自由を守っている」と言えるのではないか?自分の自由を守るだけなら既得権の主張にすぎない。反対意見に対しても積極的に門戸を開いてこそ「言論の自由を守る」ことになるのではないか。これをやっていれば「銃をもって突入/双方に死者多数」なんて最悪の結果だけは避けられたはずだ。
今までのように「言論の自由」を好き勝手を言うだけの方便としていたなら、いつかイスラムが圧倒的な力を持ってフランスを征服したとする。そのとき君たちの「言論の自由」をともに守ってくれる人がいるとおもうかね?大丈夫だよね。自分自身守る気はないだろうから。
「悪魔がエルバ島を脱出した」の見出しが「皇帝陛下はパリに御入城なされた」に変わるまで、2週間しかかからなかったのがフランスジャーナリズムの伝統だ。つまり、フランスの雑誌社のみならず、たとえば日本の大新聞や放送局に対しても言いたいのは
「自分で守っているわけでもない言論の自由を名分として反対を抑え込んでいるその態度は、少なくともジャーナリズムにはふさわしくないね」
である。だから、銃乱射はやりすぎと思いつつも、彼らを無条件に憎めないのである。彼らが主張する機会は結局与えられなかったわけだからね。とりわけ、難癖付けて人殺しすることによって栄えてきたヨーロッパ帝国主義の残照が相手だと。
古の教えをまじめに受け継いできたイスラムの方々と違い、人は神にのみ責任を持てばいい。そしてイエスキリストの御名を唱えれば、神の前ですべての罪は許される。したがって略奪も殺しも自由です、という近代的キリスト教解釈に基づいた行動が倫理的に優れているとはどうしても思えないのだ。今回だってやっていることはセポイの反乱を誘発してインドを征服したやり方と同じじゃないか。宗教的侮蔑に対して「武器」という自分に与えられた手段で対抗した。それに対し「言論には言論で返すのがルール」と勝手なイデオロギーを持出し、でも言論での対応を貫くのではなく、急に国家が出てきて銃撃で殲滅したのだから。
銃に対して銃によらない反論を貫いてこそジャーナリズムだろう。お手本はあるのだぞ。非暴力主義でインドの独立を勝ち取ったガンジーだ。