ユーモアはテロさえもうけとめる

 暗殺教室、というアニメがある。(原作はコミックで映画化もされるそうな。)
 地球を滅ぼすと公言している超生物が落ちこぼれクラスの担任を買って出て、生徒がその暗殺を政府公認で試みているというものすごい設定だ。

 なので冒頭のシーンは、始業のあいさつとともに生徒が教壇に向かって一斉にモデルガンをぶっ放す。
 これだけ聞けば、皆さん思うだろう。イスラム国人質事件に配慮して、テレビ局が第3話の放送を取りやめたのも頷けるな、と。

 ところが、ターゲットのはずの先生。教え方がうまかったり、野球をやっている生徒を親身になって励ましたり、なかなか懐が深い。そんなふうに扱ってもらえることが落ちこぼれクラスの生徒としては普通にうれしい、そうだ。そして第一話の最後で生徒が言う。
「この先生は、殺意まで受け止めてくれる。」
こういう話であれば、印象はまるで違ってくる。

 「人質を殺す」に対して「即時解放を求める」と返しても話は一向に解決しない。「卑劣な行為だ」なんて加えると先方も意地になる。首相になるほどの人であればそのくらいのことは分かっているだろうから、ようするに「解決する気はない」と言っているわけである。そりゃ、批判されても仕方ないよな。かといって「身代金は出さない。しかし死んだ場合は国葬にする」くらいのことを言うと分かりやすすぎて非難轟轟である。
 「湯浅さんは軍事会社の社長としてイスラム国に乗り込んだ。これを政府として助けることは、非戦の国是とのかねあいもあり、すぐにできることではない」と言えば共産党が批判できるわけないのだが。なし崩しに改憲をもくろむ安倍首相としてはそんなことは言えない。

 そこで「暗殺教室」。日本人は殺意さえも受け止める懐の深い民族だ、ということをアピールするにはうってつけである。しかも、放送は事件勃発以前から行われていたので、あざとさは何もない。だからテレビ局のやるべきことは、放送を中止することではなく、イスラム国のひとにも見てくださいと、インターネットで無料配信することだったのではなかろうか。
 イスラム国の人たちは「なんじゃこりゃー」と思いつつも、日本人が相手なら、人質→要求→拒否と対立が深まるだけではなく、もっと深いところで分かり合えることがあるかもしれない、人質事件を起こしたからといってすぐに態度が硬化するわけではない国民もたくさんいてくれるかもしれない、十字軍に加わったというより「人道的支援」を純粋に考える人たちなのかもしれない、と感じてくれるだろう。これが「暗殺教室放送中止」だと、「ああ、殺意までも受け止めようとする態度はまやかしだったのだな」と理解されてしまう。せっかく対立を和らげるとっかかりがあったのに、自らそれを否定してしまったわけだ。なんと愚かなフジテレビ。(ここでは韓国偏向時に言った「嫌なら見るな」は使えないぞ。あの時捨ててしまった「是非見てください!」って気持ちが必要だろう。放送中止にしたのは親韓勢力ってのならつじつまは合うが。)

 「暗殺教室」にはもう一つ、彼らの琴線に触れそうな要素があるのだ。生徒たちは進学校の落ちこぼれクラス。普通の先生たちからは見向きもされない。が、地球を滅ぼす意思のある超生物を駆除するという使命を与えられ、ターゲットである超生物からも教師としての思いやりを向けられている。
 自分たちは否定するかもしれないが、テロリストはようするに落ちこぼれ〜言い方が悪かった〜社会に適応できてない人間である。だからこの落ちこぼれクラスの生徒たちに共感するところはないのか?少なくとも、自爆攻撃での暗殺未遂を「自分を大切にしなかった」と先生が激怒するシーンは自分のことのように感じてほしい。落ちこぼれだからといって、強制されたからといって自分を捨てていいわけではない。
 だから日本は譲らない。自爆テロ未遂の死刑囚の釈放には絶対に同意しない。だからイスラム国には一筆入れてほしい。「二度と彼女に自爆テロを命じない」。ほら、これで話し合うとっかかりができただろ。

 フランスのエスプリをはるかに超える日本のユーモアがここにあった。

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