学歴主義はよくないというけども

 成蹊大学は偏差値60を超えない。
 大した差ではないが東京六大学の下半分に届かない。
 学力的には、中堅優等生、ともいいにくいレベルだ。

 ところで、教育改革の一環として学問を修めさせるのは成績上位の人間に限り、そうでない人間には実学を仕込もう、という発想があるらしい。ようするに英語で原書を読ませるのはできる子に限り、そうでない子は外国人観光客の案内の練習をしろということだ。
これについては安部首相自身、OECDで演説している。
≪私は、教育改革を進めています。学術研究を深めるのではなく、もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育を行う。そうした新たな枠組みを、高等教育に取り込みたいと考えています≫

 実業家が「僕は歴史がいやだった。だから歴史よりもプログラミングを教えた方がいい」という分にはまあ仕方がない(プログラミング教育を受けた人間が社会に出るころ、その能力が必要とされていればいいのだが)。が、首相がこんなことを言うというのは中々である。しかも、この文面からは「国家が提供する高等教育は学術研究ではなく、職業教育を中心とするよう組み替える」と読み取れるわけだ。わかる、わかるよ、安部君。閣僚一覧を見ると君一人成蹊、あとは旧帝大かそのクラスの私立大、要するに一流大学出身だ。劣等感は半端ではなかろう。
 しかしそれをぐっとこらえるのが「総理大臣として」は大事なのではないかな。裁判所にお伺いも立てず、閣議決定で憲法変更、本人は「ぼくちゃん出た大学はあれだけど、こんなこともできるんだよ」という自己満足を覚えているかもしれないが、オーナー社長なら迷惑も限定されるだろうが、首相となれば話は別だ。
 しかも、自分のやっていることの問題点を国会で指摘されても頓珍漢な答弁。やっぱりこの人頭悪いんだと思わざるを得ない。閣僚一覧を見返すと、成蹊大レベルでは答弁も満足にできないのだろう、とついつい思ってしまうではないか。
 私の言い方は確かに学歴主義的で耳につくかもしれない。もちろん学歴がすべてではないとは思う。しかし次の言い方には賛同してもらえると思う。

 一国の総理大臣になる人は、せめて一流大学と言われる大学を出る程度の知力は持ち合わせていてほしい。

 これが田中角栄みたいに貧しい家の出身ならまだわかる。が親が閣僚経験者だろ。どう考えても恵まれた環境だよね。だからなおさらその感が強い。

 せめて周りを見て内省ができる程度の知力の持ち主が首相であってほしいものだ。
 せめてかつて、政権を投げ出したことを反省する謙虚さを持ち合わせていてくれる人であってほしいものだ。

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