天才を作ろうとしない教育

 ロケット工学の権威、糸川英夫さんが批判していた。小学校の理科の教科書は難しすぎる。「かんがえてみよう」「やってみよう」の連続で「これらすべてに正解を自力で出せということは、子供にノーベル賞をいくつもとれと言っているようなものだ」だとさ。当然普通はついていけないもんだから、そのまま何も考えずに終わる。
 これの対極の考えさせない教育が「調べ学習」。以前はともかく、現代ではネットでの検索が流行ってるので「とっかかりをみつけて、そこから繋いで」を考える必要が薄まったのでやはり考える必要がない。

 ここで感じられる問題は「自分で考ることもを育てよう」と意図した「疑問を持たせる教育」「調べて解決する教育」が、実際には「考えることを拒否せざるを得ない/考えずにそこそこのものをまとめる」のに慣れさせる教育になっているように思われることだ。
 結果生み出されるのは、きちんとノーベル賞をとれる少数の人間と、事務的に物事をまとめるのに長けたやはり少数の人間と、何もできないことに慣れてしまった多数の人間である。クラスルームで活発な討議をさせるのはいいが、活発な討議をするのはだいたいにおいて一握りで、あとは黙っている。議論を活性化させているように見える人間がいても、「自分が何もできない」という事実を受け入れ難いのか茶々を入れて前に進むのを妨害しているのと区別ができないことも多い。

 文部科学省が「アクティブ・ラーニング」という学習形態を推進するつもりのようだが、全面導入となると、傍観者になってしまう人間がこれまで以上に出てくる。大臣だって気が付いてないのかもしれないな。社会人としてのキャリアの最初に長州力の筋書きに沿って投げて、極めて、打てば観客は喜ぶ、ことを覚えちゃったわけだから。ノーザンライトスープレックスはオリジナル、なのかな。(長州のスコーピオンデスロックも実はオリジナルホールドではないというし。)

 いずれにせよこれまでの創造性を高めることを意図した学校教育の手法は、頭をきちんと使える人間以外に広く薄く挫折感を与え、何もできないことに慣れるあまり、何もできないことさえ気が付かなくなった人間を大量に排出してきたという負の側面があるのを否定することはできまい。

 これの対極にあるのが「企業教育」。給料払っている以上、社員は全員、使い物になるように育てる必要がある。カリキュラムに討議を持ち込んだとしても、それは答えが用意されているものだ。評点が付くとなれば劣等感は生まれても疎外感は生まれないというメリットがある。だから使い物にならない、というところまで劣化しない。その代りいざという時頼りになるエースと4番を育てることはあまり考えてない。「当面」必要ないだろうからね。(それでも多分「育てている」はずだと思い込むんだろうなあ。必要になったら「連れてくる」必要があるというのに。その辺はスポーツ界の方が進んでいる。星野監督で阪神タイガースが優勝したとき、野村監督との差を野村監督自信が言っていたのが興味深かった。野村監督も星野監督も「エースと4番は育てるのではなく連れてくる」という考えの持ち主。ここで星野監督は伊良部と金本を連れてきてくれと具体名をあげた。だからフロントは動いてくれて、優勝した。野村はどうしても「チーム内にエースと4番が育っているはずだ」という希望を捨てきれなかったんだろうな。逆に大阪と地縁のない星野仙一は現実的に判断できた、と。)

 かくして問題解決学習は、学校においては問題を大づかみで捉え、解決策を討議させるが、同時に多くの人を疎外し、退屈させるものになるのに対して、企業においては問題(あるいは問題の分野)を例示し、解決ワークシートを配って記入させるようなものとなる。「まず5W1Hに分けて記入しましょう/一番困ったところはどこでしょう」って感じの奴だ。  換言すれば考える筋道を教える際に、学校では見つけるよう促し、企業では既定のものを与えるわけだ。これで企業ではある程度使い物になる人材が育つ(はずである)。ここぞという時にホームランは打てないが、バントはこなせるし、ヒットもそこそこ打ってチャンスメイクできる、みたいな。

 というわけでこれを学校教育にも適用しようという流れがある。たしかに「考える筋道」を教えてしまうと独創的な発想をする人間は育たない、ように見える。でも大丈夫だ。そんな奴は考える筋道を教わりながらも、頭は勝手に動いているものだからだ。ただし学校教育の場合は教えた筋道と違うからといって勝手に考えた人間の発想を潰さないようにしよう。ここに学校教育と企業教育の差がある。企業教育の学校教育への適用を否定するものではないが、この差を無視してはならない。

 ホントは企業でも潰さない方がいいのだが「効率性」を考えて「素通りする」のは必要悪だろう。ただし「効率」にとどまればいいのだが、費用対効果、にまで還元するとちょっと問題がある。十歩譲って企業なら仕方ないにしても学校教育では費用対効果をひとまず無視することが必要だ。発想の芽をつぶしちゃうからね。(もっとも私もスポーツにおいては費用対効果を考える。金メダル一個あたり振興費が10億円、は高すぎないか、とか。)

 農業に企業的な効率を追求するなら全ての木を切り倒し、バッファローを殺戮しまくった跡地にプランテーションを作るのが一番いい。農薬と肥料の注入を怠らなければトウモロコシが延々育つ。が、新しいものが生まれるのを期待するなら、例えば里山を守りつつ、蛙やカブトエビのいる生物多様性を維持した田園を作る方がよいということだ。
 発想を生み出せる人は作ろうとしなくても育つ。気が付かないところに気が付くのがそういう人の特徴だ。だから同じカリキュラムを与えても「おやっ?」と気が付くのだ。大事なのは彼らを邪魔しないことである。予定から外れたものを異物として排除するようなカリキュラムでは、種々雑多ないろんな考えをことごとく潰してゆくことになろう。
 明日が昨日と同じであればよいが、違った時、そういう人を除いておいて、どう対処するのかね?

 ほんとーは「問題解決」を求めるときは5W1Hじゃ到底間に合わないです。問題を認識するにはペアとなった視点で事象を見ないと駄目なのよ。

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