昔、美学の教授が社会問題ネタ、目次へ
「人間とは定義不可能な存在として定義される」
ということを言っていた。結局いろいろな定義をしようとしたが(生物学的なものは除いて)、皆さん納得せず、このような禅問答で決着したとか。ただし個人的には、哲学をギャグにした漫画家、須賀原洋行氏の奥さん須賀原よしえさん(実在OL)の「(人間とは)少なくともただの人間ではない」を推したい。須賀原氏に「哲学ってどういうことやるの?」と尋ね、「例えば人間とは何か、を考えたりするんだ」と応じられたのに対してその場で彼女が答えた「人間とは何ぞや」である。
もう少しそれっぽく言うと
「人間とは、自らをただの人間とは思いたくない存在者である」
なんかそれっぽくなってきたでしょ。
ここまでの考えは、須賀原氏に問い直して同意を得ていたりする。「自分はただの人間ではない」と思いたいがために、人は努力するわけだ。かくしてスポーツの記録は塗り替えられ、名画・名曲が生まれ、技術は発展し、ねーちゃんは化粧に励む。
が、ここまでのことができない人間は只の人間から脱するための基準をちょっと変えることになる。ようするに
「ただの人間と言われたくない!」
と他人の視点を気にするようになるわけだ。
中には、口ではただの人間でいいよ、と言いながら
「ただの人間として(十把ひとからげに)扱われたくない」
といういわゆる一般ピープルも存在する。確かに誰もが「ただの人間」に収まらない能力や、外見や、運を持っているわけではない。努力したくても元が元なら気持ちも折れよう。
このような普通の人のうちには十把ひとからげにされている理由として、自分が若く、人間として未熟なため、である、ということを何となく自覚し、それゆえに特別な存在者とみなされていないと考えている人もいるだろう。ある程度仕方がないことだ。しかし、それでもただの人間と言われたくないという熱意が高じた場合、「中二病」
が発症する。より後年になって発症する「意識高い系」と違って優れているところは、そこに込められた物語性である。邪気眼系にそれは強い。その設定を煮詰めてゆき、キャラクターを規定する様は少なくとも想像力の欠如した人間にはできないことである。社会観の形成や解釈をするにあたっての訓練としても効果があるかもしれない。(「堕天使ヨハネ」と名乗っているお嬢さんに、ヨハネって男性名なんだけど、という突っ込みをしたくなるといった設定の破綻は多々あるが。)
それはそれで大事な発達段階として評価してもいいかも、なんですね。
問題は手段が目的となってそのまま落ち着いてしまうこと。「自分はタダの人間でありたくない」とまずは設定から考えるのはいいとして、それを作っているうちに、設定を充実させることに一生懸命になって、やがて落ち着いてしまい、タダの人間で終わらないための力をためたり、本格的な努力をはじめたりしない傾向が出てくるとしたらそれは害悪の方向にあるものと見たくなりますが。