合理化の限界

 私の作ったプログラムは案外不評である。
 MY HOPEなんぞは、会社の仕事を合理化するために作ったが、これを所属部門だけでも採用しておけば今までに何千万、何億(ひょっとして行くかも?)の経費節減につながったかわからない。(テストの合理化だけでなく、統合時の打鍵移行にも使えたしなあ。)
 なかなか使われない理由として「そんなにうまくいけば苦労はしないよ」という感覚や「見える人が作ったものは信用しない」という慣習もあると思うが、先日、単純入力作業をやっているひとに試しに使ってもらったところ、別の理由が判明した。
「簡単すぎて手ごたえがない。」
やりがいをもたせてくれないというのである。

 そういえばずっと昔こんなことがあった。執務室で大規模なレイアウト変更をやるというのでみなさん抽斗や、机を移動させることになった。当方総指揮を任されたので手順書を作った。全体を4フェーズに分けて、その都度各人が何をやるかきっちり決めたのである。第1フェーズ、○○君は机を通路に待避させる/△△君は抽斗を座標2列F行の机に運ぶ。これを100人分以上。各人に手順書を渡し、当日、当方は「今から第2フェーズに入ります!」の掛け声。
 レイアウト変更は恐ろしく手早く行われた。上司からクレームが入った。作業中に各自の手が止まっている時間が目立つ。(そりゃ、各自4アクションしかしないから。)やった人からも文句を言われた「全然やったという実感がない」。短時間で整然と終わって何が悪い!(移動ルートまで指定したので輸送中の机が通路ですれ違うことすらなかったのだぜ)と思っていたが、やる方としてはそうでもないらしい。

 ゴールがはっきりしているなら最短距離を通るという発想、今も変わってないのだが、結構みなさん、そういう「すんなりいかないところ」にやりがいを見出していることが分かってきた。なるほどそれで当方製作の勤務時間管理の不整合をあーっという間に発見するツールが不評なのか。各種システムから出力されたログや申請を、定規を使って地道にチェックするところに手ごたえを見出しているのだろう。
 それと心理的要因がもう一つあった。やっていることは同じでも汗水たらして行えば、それは真摯に取り組んでいることを示しており、従って形骸化は防げている、という気分になれるみたいなのだ。
 電通に見られるように形骸化が進みやすい勤務時間管理の場合はなおさらかもしれない。

 でもなぜ「パソコンなら1〜2分で終わるチェックを1時間以上かけてやる」ことが形骸化を防止すると思えるのだろう。気持ちは分からんでもない。私もチェックマクロ、画面表示を止めないことによってパソコンが処理しているさまを目で見えるようにしたかったわけだ。おかげで数十秒では終わらない。が、汗水たらして行うことではなく、自動でもできることは自動で終わらせた後、「先月、うちはみんなこの通り働いていたかな?」と考える時間を持つことが形骸化を防ぐということなんではないかな?

 みなさん、そういう反省をすることができないのかな?  残念ながらそういうことだろう。少なくとも電通においてはそうだったようだ。  だって反省したら冷や汗かかないといけないもんね。考えると問題点が続々出てくるもんね。  だったら苦労の象徴たる方の汗水たらして照合作業を行い、やりがいを持って仕事を終え、問題点には目をつむった方がよいと、多くの人間は判断したということだろう。

 なのでこんな事象が起った後、私は悩む羽目になる。
「この問題点。どうやってみんなの意識と整合性をとろう。」
ようするに皆さん認識したくない事象なので、はじめからなかったことにして収拾しときたいのだ。
 個人的意見だが、この冷や汗事象を無事克服したときの方がやりがいらしきものはあるな。
 私がいなくなったとき、周囲のみなさんはさぞややりがいにあふれた仕事ができることになろう。

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