「失敗の本質」という本があって、社会問題ネタ、目次へ
東日本大震災のあとのグダグダへの反省としてよく読まれたようだ。
私も一応読んでみた。
正直、表現が下手なので、そのままでは教訓にならない。
よく見ると防衛大学の勉強会の延長だ。
ならば題材とした日本軍の失敗の伝統を引きずっているのがよくわかる。
カッコつけすぎて自身の判断まで狂わせ、そのままほおっているのだ。なので、彼らが見つけはしたが分からなかったことをあっさり言おう。
失敗したことが明白になるまで、失敗したことを認めなかったから大失敗したのだ。
その陰には「失敗を認めない」という文化がある。日本的だね。
中二病的な悪の組織の鉄の規律「失敗には死を」である。
だから失敗は認めないし、失敗はなかったことになるからフィードバックして改善するという文化がない。(失敗を認めてフィードバックしようとしても、途中で握りつぶされる。)だから日本式PDCAもなぜか「失敗したところを」改善するという視点がない。(改善するのは、うまくいっているものをさらによくする、ためである。)
そうなると経験の蓄積がきわめて偏ってしまうのだ。「同じようにしたら成功しました」だけがやたらたまってゆくが、失敗から学んだ経験はなかなかたまらない。(たまにはありますよ。野村監督が「斎藤が1-3から投げる外角カーブを何故かみんな見逃すんだ」とぼやいたのに反応した小早川は開幕戦3本塁打。)「失敗の本質」では「適応しすぎてしまった」などと書いているが、これは間違い。せめて「適応しきってしまった」と表現するべきであろう。失敗を認めて改善する文化がないから、過去の成功体験にしがみついて、他の可能性を排除しただけだ。前例のないことについては、明治維新もそうだが優秀そうなのを抜擢して一挙に進化を遂げるという伝統が日本にはある。ところがそこそこ安定すると、それ以降改善することをしない。改善のためには欠点を発見することが必要だからだ。(下請けに欠点を押し付ける、はあるみたい。)
日本人の失敗嫌いは相当なもので、シミュレーションによる失敗をも許容しないようだ。 かの「失敗の本質」で書かれている戦術(政治家や企業経営者の好きな「戦略」ではありません)が変わらなかった点についても、日露戦争で前例のない事態に対処しないといけない時は、秋山兄弟を抜擢できたのだが、それ以後もその成功体験にしがみついて敗戦で失敗がはっきりするまで変わらなかったというのが問題。よーくかんがえてみよう。丁子作戦はネルソン提督が相手ならぼろ負けである。(あと、桶狭間で成功したと伝えられている「迂回、奇襲」がやたら踏襲されたようだ。)「失敗には死を」なんてイメージで厳しさを追究したつもりになり、失敗による経験の蓄積を排除すると、その組織の選択手段は限られる。だから初期の成功体験に頼るしかない。当然、環境が変わると、あるいは相手が学習すると破綻するよな。
あ、ISのこと言ってるんじゃないんだからね。誤解しないでよね。
(失敗の本質とは失敗があたりまえに生ずることにある。破局的な大失敗も本質は同じで、破局点まで先送りしたから破局したにすぎない。)