寄宿学校の外出日

 楽しみにしているアニメ、「寄宿学校のジュリエット」。全寮制の学校だが三カ月に一回外出日がある(という設定)らしい。というわけで生徒たちは街に繰り出すのだが、このときのワクワク感、何か思い出すものがある。
 ただ、この感覚、日本人的じゃないよな、という感じはしている。今に限り皆さんも納得してくれるだろう。日本人的に街に繰り出すとなるとショッピングに興じるか、あるいは人との出会いを求めるのだが・・・その出会いは突き詰めると渋谷のハロウィンの馬鹿騒ぎになるのだ。私はハロウィンを直接知らないのだが、育ったドイツの風習の中からなんとなく「ラターネ、ラターネ、ゾンネムントシュテルネ」的なものを想起する。(歌いながらお菓子をもらって歩くところ子どものお祭りがあったのだ。)
 暗い冬を乗り切るために意識を高揚させる手段といえば身もふたもないが、ちゃんと文化として形成されている。渋谷のハロウィーンは(ついでに言うとジングル祭りも)藤本義一っちゃんの言葉を借りれば「風俗」でしょう。

 街に出るということは、風俗に乗っかって自己実現(まあ発散だけど)するのではなくて、紡がれ続けたそこにある文化に参加するというイメージなのだ。街が主、自分が従。なので渋谷の商店主のようにそこにいる人が怒りだすことはない。
 この感覚は日本の古都の代表、京都ですらあまり感じてないなあ。文化の担い手たる公家と庶民の距離が遠かったからだろうか、あるいは京都人が本音ではよそ者を歓迎してないからであろうか、いずれにせよ「参加」するという意識にはなりにくい。祇園祭りの宵山がかろうじて、かな。もっとも街の文化に参加するという感覚が日本人に全く欠けているというわけではなく、先ほどの渋谷でもゴミ拾いを自主的に行って街の美化に努めている人はいた。宵山の後にゴミ拾いを自主的にやっている観光客がいるかどうかは疑問だが。

 大阪には別なスタイルで「町の文化に参加」というのがあったような気もする。甘栗買いに行きますと「こっちの大きなん買ってきなよ」「そんな高いんよう買わんわ」「ならおまけするわ。(口を開けて甘栗ドバドバ追加)。」「かなわんなあ、じゃあそっちもらうわ。」(これデパートでのやり取りだぞ。)
 ヨーロッパのような優雅さはないが、売り手のプロとしての誇り、買い手の矜持、これくらいは見て取れる。財布に金がある以上、参加しないのははばかられる。

 しかし金銭が露骨に介在するのはあれだなあ、どこかに文化への敬意を損得の上に置くような場所って日本になかったか。更には誰もが参加できる寛容さをもっているもの。
 ひとつだけありました。柴又帝釈天参道。寅さんの舞台である。「日本の心に触れたくなったらいつでもおいで、絶対がっかりさせないよ」の気持ちがみなぎっていた。もっとも渥美清さんが亡くなってからずいぶん経つ。いつまで続いてくれるかな。
(今年は阿波踊りを例に挙げるわけにはいかんだろう。総踊り強行こそが「いき」の極致だと思いはするが。メインヒロイン、金髪碧眼のジュリエットが阿波踊りに飛び入り参加してもあまり違和感がない。対立しているサブヒロインの蓮季が阿波踊り側にいたとしても「もっと腰を入れんかい」と言いはしても「踊るな」とは言わないだろう。むしろ歓迎するんじゃないかな。)

 さきほど、貴族と庶民の距離、という言い方をしたが、ヨーロッパだと「市民」という階級があるのだなあ。みずから勝ち取り、守ってきた誇り。これがあるから渋谷の馬鹿騒ぎは起こさない。寄宿学校のジュリエットにはこの誇りがあるが(彼女は貴族だが)、ロミオにそれはない。さあ、ロミオは何を以て対等と見てもらうか。これが物語の焦点になるとものすごく面白いのだが。

 ちょっとネタバレ:
 だから第一話で白猫寮のドアに落書きした小学生のしりぬぐいとしてリーダーであるロミオには掃除を申し出てほしかった。ブラシで落書きを消しているみっともない自分に向かって問いかける。ジュリエットの気高さに対して自分はどうすれば対等に付き合ってもらえるだろうか。今のところまっすぐな心でOKをもらったが。やがて「いき」と表現される美意識に行きついてくれると和辻博士も喜ぶであろう。かすかに期待している。黒髪黒目のサブヒロインは一途で「いき」な娘なのだ。

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