電車内で、我々は何を学習すべきか

 やんなきゃならないお勉強を、自分に無理やりやらせる、そのメソッドを作るため、JRの大都市近郊区間の運賃計算の特例を使って、房総半島一周電車だけの旅を敢行したが、当然のことながら、積み残した課題は多い。というか、一周旅行を実施した結果、課題が見えたというべきであろう。

 乗り換えのタイミングや、社内が空いて着席できる時間帯をポモドーロ・テクニックよろしく考慮して集中力アップに充てるというのがまずはの考慮点だが、乗車が20分の場合と一時間半乗りっぱなしでは、やることも変わってくるだろう。同じ姿勢が辛いのは言うまでもないが、さらにつらい飛行機の場合、日本航空がインフライト体操なんてのを紹介してくれている。乗り鉄のマニアさんが乗り換えの際のリフレッシュ体操、なんての作っててくれそうだがこれは見当たらない(電車マナー体操、なんて意図がよくわからないものはある)。まあ、ホームでストレッチでもするかな。

 車内で使いやすい教材とはどんなものか、そういうのも考慮しないといけない。タブレット使うにしても、振動で落としたりしないように、とか、ある程度外光が入っても見にくくならないためにはどうするか、なんて工夫は要りそうだ。
 先人の知恵を参考にしてみたかったが「出張 電車 (仕事 or 勉強)」「電車 勉強」なんてので検索しても、具体的な工夫は出てこない。せいぜい片手で本のページをめくる方法、くらいである。「参考書も解けます。まず文章を読んで知らない単語があれば調べてメモします」いや、可能かもしれないけどさ、それ無理がねぇ?まだ私の、朝起きたら机でディクテーションやって、電車の中でシャドーイングやって、会社に着いたらそれに関する問題やる、の方が現実的だ。(←早起きが強要されるのが一般的でないところ。最初はディクテーションガタガタだから同じ参考書2回は繰り返しましょう。)
 それにしても残念なのは、駅間で覚える英単語、みたいな本があるが、あれは乗り鉄が作成に参加しているのであろうか。いたらなるほど、と思うようなアイディアが出ると思うのだが。

 今回の電車に乗ってお勉強!を思いついた元々は、古来から考えをまとめるに適した場所と言われている「三上(馬上、枕上、厠上)」のうち「馬上」が現代で言うと「電車の中」なんではないか、ということである。ぶっちゃけ集中できて勉強捗るんではないか、ということだ。  しかし本来の意図から見ると、馬上が適しているのは「考え事」である。つまり、新たなインプットを必要としていない頭脳の活動という側面が見て取れる。考えればすぐわかるが、確かにインプットは危険なのである。馬の上でスマホ見ていることを考えてみよう。(逆に言うとインプットから隔絶されているから考え事を収束に向かわせやすいのかもしれない。)

 そうなるとインプットが必要な「学習」にはもともと向いてないのかもしれない。しかしJRの人が運転している電車であれば、ある程度自由にやれる。せっかくここまでやったのだ、ある程度強引に先に進んでみよう。

 学習で求められるのは、問われて/わかる、こと。これだけなら「三上」もおなじ。考えをまとめるというのは、問題に対する対応策が分かるということだからね。しかしながら回答を検証する際に大きな差がある。馬の上であれば、問題集と違って回答を見るというわけにもいかないから/そもそも回答がないことを考えているわけだから、今まとまった考えが正しいかどうか、いろんな面から検証することになる。
 これは孤独な作業である。自らの考えを自ら批判して、研いでゆく。個人的には当たり前のことだと思うが(口に出す前に、自分でできる限り批判するのは当然)、世の中には「みんなで話し合って決めよう」と言ってしまう人多いじゃないの。検証できないから自分の判断に自信が持てない。そもそも自分が判断できない。ひょっとしたら考えが出てこないからなのかもしれない。あ、分かってきたぞ。私の場合はかなり特殊なのだ。問題があったら何とか(あるいは当然のように)解決策を出して、それを思い切り疑う。(なので他人に「違うんじゃないか?」と言われるとものすごく腹が立つ。少なくとも私が一番自分の考えを批判している。)でも自分一人の判断では分からないということが必ずあるので、だから他人の意見を聞く。これでも謙虚なつもりだ。
 なにしろ他人に問う時、「レビュー可能な」様式にするからな。こういう問題点をこれだけの角度から取り上げて、仮説を出して、類似するものがないかを考えて、検討した結果です。ココまで出せば、切り口が足りないのではないか、前提条件に見落としがあるのじゃないか、というのがそこそこの有識者であれば審議できるような形に持って行く。だから滅茶苦茶効率的である。尤も評判はよくない。多分言われた方には、口に出す前の試行があまりにも完璧、形式的にだけ自分に尋ねているのではないか、と思われているのかもしれない。(あれ、受動と能動ってこういうこと。「言われた方は、思っているかもしれない。」「言われた方には、思われているかもしれない。」英語に比べて差が小さい。)

 さて、問題解決のプロセス。疑問があって/わかる、こと。学習の場合であれば、分からないところの調査(「イマイチわからないのだがなあ、この部分がはっきりすれば回答が出せそうなのになあ」と思われる部分が実際はどうなっているのかの確認)の手段および、自分の出した回答の正誤を判断しうる「正解としての解答」、を参照することが必要である。あるいは間違っていた時、二度と間違えないように、どこが(なぜ、どんなふうに)間違っていたかを記録する仕組みが必要である。
 しかしながら馬上というところは手元の場所が乏しく、調査のために資料を広げることも難しい。これに加えて振動もあって、記録が極めてやりにくい。つまり、馬上でできる学習はそれらの必要が少ないもの。つまり

  1. 単語帳という形で、期待される答えが一発で分かるもの。(赤シートぺらぺらやって、もこれに含まれる。)
  2. 音声という形で、入力がスペースを必要としないもの。
  3. そもそも間違いがすくないもの。反復練習や、英文の多読、なんてやつである。(私のやっている、朝ディクテーションして、電車でシャドーイング、というのもこれ。)
 つまり案外バリエーションが少ない。
 これ以外のことをやろうとすると、ある程度「専用の教材が必要になる」。ではどうするか?この場合「問いかけ/回答」をはっきりと定義することがかなりの精度で必要になる。こうなると、英文読解の練習、和訳を作っておいて参照、では弱い。和訳を読むと納得してしまって、あいまいだったことも何やら分かった気になってしまうからである。どういう訳語を選び、各語がどういう文章上の要素なのかを推測し、いかに係り受けがなされて意味を形成しているか、本当は判断出来てなかったにもかかわらず、訳文を見ると後付けで、知っている単語をその訳文上であてはめてしまい、どこが分からないか自覚できないまま進んでしまうからだ。つまり、訳文を見るに先立って、単語訳、構文解析、意味解析をそれぞれの段階で、しかもミクロにあらかじめ用意してワンタッチでそれがチェックできて、かつそこが弱点と自覚した場合は、その旨チェックできるようになっていなければならない。

 こんな勉強法、無きにしも非ずだよ。極めて効率が良いことが証明されているにもかかわらず、まず採用されることのない授業の形態、ダイレクト・インストラクション、という奴だ。簡単な文や式を音読させ、一分間に最高十回質問して、答えを返す。1分にもっとも緊張感の維持のためには目の前に生きている人がいる必要があるような気もするが。いや、周りに同胞がいる方が大事だな。

 馬上で「新しいことを覚える」は、これはあるな。しかし、すぐに「覚えたか」のチェックが必要なことは間違いない。これができなければ普通に本を読む、というところだろう。

 中国では「三上」だったが、日本ではこれに「温泉」が入るかもしれない。ようするに風呂の中だ。情報のインプットがなくて、他にすることもないので考えがまとまる。
 有名な例としては、今回扉ネタとしたこれがある。

アルキメデスが王冠に混ぜ物があるかを検証した故事(作り話?)
風呂の中で気が付いて興奮のあまり素っ裸で飛び出したということだが
アルキメデス存命中はローマの風俗はシラクサに入ってなかったはずだ。
それとも入浴は地中海世界、共通の文化だったのか?
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