デジタル庁の躍進を阻む日本文化

 デジタル庁を作りますって?
 ここは日本だよ。
 何を考えているねん。

 何が問題かというと、どうやら普通の日本人は
「僕の前に道はない僕の後ろに道はできる」
が好きなようなのだ。つまり自分はパイオニアである、と思いたがる、と。
 もちろんこれは高村光太郎の「どうてい(道程)」という詩の書き始めである。
 ひと昔以上になるが、大学入試の小論文で「道」について書けという課題が出たら、高村光太郎が引用されているかどうか、が採点基準になっているという噂さえあった。

 この詩は悪いことにこう続く。
「ああ、 自然よ父よ僕を一人立ちにさせた廣大な父よ」
自然とは別に自分の肉親ないし自分を導いてきた人間の総称としての「父」に触れられていればよかったのだが、「廣大な」という形容からしてここの「父」は「自然」の言い換えと解釈するのが妥当であろう。
 つまりこの詩は、
「自分は他の人間の助けを借りることなく、誰もやったことのないことを行える」 と主張しておるのだ。

 こういう詩が小論文の基準とされるような民族なのだよ。とにかく新しいことをやろうとする。これはよい。しかし新しいことは(普通)そうそう思いつけることではないし、結果として「すでにあることでも自分にとって新しいことであれば新しいこととみなす」傾向に陥る。しかも他者の助けを借りないわけだから「前例はない。あってもないものとみなす」。
 この日本人的傾向をお役所仕事として「デジタル」なんてものに適用するのだ。
 シグマ計画やマイナンバーカードによる住民票発行のような誰が見ても失敗、という例もゴロゴロしてはいるのだが、それでも地道に積み上げてきたデジタル化の成果、というものに学ぼうとせず、むしろ無視してデジタル庁が突っ走るさまが容易に想像できるではないか。
 それどころかデジタル庁にとって、自部署以前に成功例があることは不都合なのだ。自分たちが旗を振ったから成果が出た、と言わなければならない。
 というわけで、今まで積み上げてきたデジタル化は無視され、結果その成長が抑制されることになる。

 いや、特殊例だと思っていたの。大手コンピュータ会社のユーザー研究会論文、応募したらあたし賞もらいまして。その翌年、所属する会社で「ユーザー研究会への論文応募やりましょう」の方針が出たの。当然、私にいろいろ尋ねてきますよね。応募動機は?テーマの着想はどこで得たか?書くとき苦労したことは?会社にサポートしてほしいことは何か?ところがそんなのは一切なし。
 ユーザー研究会への論文応募の旗振りをしているところの事情として、自分たちが旗を振ったから受賞作が生まれた、という成果をアピールしたいのは分かる。ところがが、自分たちが旗を振る前に自分たちが目指している成果と対等なものがあっては都合が悪い、とまで考えて無視する。これが現実のようなのだ。  なんと嫉妬深い、と思ったがさすがに特殊な例だろうと思ってた。ところが最近部署が変わりまして。どうやらそういう発想が普通らしい。これは社風もあるのかな?旗振りと実施が分かれているの。旗振りは結果だけを要求して、実際のメソッドは各部署に丸投げ。各部署は取りまとめを置いて、さらに小さな組織単位に委託。こうなると旗振りしたところは具体的な手法が部署から上がってくるのはまずいわけ。客観的に見て旗振りが考えて指示しなければならないことが別部署から上がってくるなんて容認できることではない。

 ひょっとして日本人の特質なのかな?なんて思ってたところで「デジタル庁」。新首相は旗振っているだけで具体的にはよくわからんだろうし、デジタル庁は権限を集中させるために役人らしく動きそうだし絶対逆効果だなあ、と思っている次第。旗振らなくていいから成果を取りまとめてうまくいっているパターンを抽出したほうがいいのではないかな。どうせ各省庁の縦割りの中で同じようなことをやっているのだろうし。その中には成功例もためになる失敗例もあるだろう。

 さて、高村光太郎の「どうてい(道程)」の主張はさらに悪い方向に進む。
 父なる自然にこういうのだ
「僕から目を離さないで守ることをせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ」
 私が言いたいことわかるね。責任を丸投げしているのだ。それどころかやる気さえ自然が、実務的には「環境」が与えてくれるものとしている。
 つまり高村光太郎が言っているのはこういうことだ。
「私は今まで誰もやったことがない新しいことをやります。そのとき他者の経験や知識から学びはしません。その際、安全は保証して、やる気も絶えず供給するように。(つまりできなければ私ではなく環境が悪い。)」

 なるほど、入試の小論文の採点基準に「高村光太郎の詩が引用されているか」がある理由がわかったわ。こんな主張に同調するようなやつ。即、落とさないとな。
 というわけで、デジタル庁失敗に終わったとき言い訳の利きそうな「デジタル庁の躍進を阻む日本文化」というタイトルにしました。こう書くとデジタル庁vs日本文化、という印象を与えるけど、デジタル庁も日本文化の枠内にあるから、そう動く限り失敗するよ、という意味なんだけどね。

 海外で通訳を雇うとき、よく現地の学生に目をつけるらしい。ところが学生だから数年で帰国する。その時、後任を紹介してもらうと、かならず自分より能力の劣る人を推薦するんだってね。
 自分が優秀と見せたいからのようだ。日本人にはそういうところがある。
 これと好対照なイギリスの例がある。ジミーというギタリストがテリー・リードというボーカリストにバンド加入を打診したそうな。するとテリーは自分は良くバンドがもう決まっているからご期待には沿えないけどロバートといういいボーカリストがいるから見に行ったらどうかな、と答えたらしい。もちろんレッド・ツェッペリン結成時の逸話です。
 無名でも自分よりはるかに優れた人を推薦したテリー。
 こんな文化があるから大英帝国は覇権喪失後も100年間、世界を操れるのだろう。

社会問題ネタ、目次
ホーム