随分昔だが「ディベートで携帯電話は是か非か、というのをやることになった。私は否定派になったんだけど何かアイディアない?」と聞かれたことがある。社会問題ネタ、目次へ
もちろん即座に思いついた。家族や友人と出かけたときのことを考えてみよう。とりあえずバンド仲間で御茶ノ水駅から三省堂に向かって降りてゆくという設定にするか。途中いないやつがいることに気がつく。もし携帯電話がなかったら「あいつエフェクタ欲しがってたな」「シモクラの中二階で見てたような気が」「じゃあ俺探しに行くわ」「だったらここで待ってるから、とりあえず10分したら戻ってきて」という会話がなされて、だいたい10分後に「ごめんごめん、新製品入ってるって聞いたからつい」「まあ見つかってよかったよ。でもジュースおごりな」くらいの会話がなされて笑いで終わる。もし携帯電話があったら電話をかけて「早く来い」。合理的なことは間違いない。
しかし、携帯電話がなかったときには存在していたこれだけのものを切り捨てたことを忘れてはならない。誰が何に興味を持っていたかという認識。誰がどうしていたかという観察。(無駄かもしれないのに)迎えにゆくという行動力。10分後にここへという計画性。
まとめると「他者へのおもいやり」と「計画性」である。
更に携帯電話保持が当たり前になると「電話すればいいや」と声もかけずに集団を離れることを厭わなくなる。確かに実用的にはあまり困らないかもしれない。が、それでいいのか?
つまり、携帯電話は思いやりと計画性を不要にし、更にはそれらを毀損する傾向すら生み出すのだ。実用第一のビジネスマンであれば、それもまた仕方がないかもしれない。また少なくとも計画性については別のところでさんざんトレースされているという事情もある。しかしながら、思いやりの心を育む思春期、計画性を身につける中高生としての時期において、便利さのあまりそういったものを不要とする携帯電話を持つのはよろしくなかろう。
であるから、少なくとも大学受験で色々と忙しくなるまでは、携帯電話を持たないというのが人格形成上、必要なことではなかろうか。一瞬で却下されたことは言うまでもない。
「そんなこと言ったらホントに携帯が禁止になる。」