CDのおかげで

 ビートルズのラストアルバム、アビーロードは、LPで聞く方が望ましい。各メンバーの個性をそれぞれに押し出したA面、グループとしての結束を見事に聴かせるB面、LPの持つA面、B面の区別がうまく生かされている。
サージェント・ペパーならCDで聴くのもいいであろう。曲間に全くブランクを入れぬ構成(そのために最内周にまで音を入れたのだ)を生かすためにはCDの方がむしろ望ましい部分もあるかもしれない。
 いずれにしろ言えるのは、彼らはポピュラーミュージックにおいて、LPのメディアとしての特性を生かして、コンセプトアルバムを作ったということだ。では、今、CDのメディアとしての特質を生かしてポピュラーミュージックを作っているものがいるであろうか、むしろCDの特質に負けてしまっているのではないか。
 もし、チャック=ベリーの時代にCDが存在したならば、と考えてみよう。ロックンロールは生まれていただろうか。一曲三分間、ロックンロールはまさにドーナツ盤に合致した音楽であった。わずか三分の曲でCDを埋め尽くすことは不可能である。たしかに編集ものCDはあるが、一人の人間が新作を70分間分作ることは無理な話と断じても暴言とは言えまい。
 曲の構成が複雑化してきたり、コンセプトアルバムという志向を使ったりすることにより、LPを作ることはできるようになった。しかし、ビートルズのペパーにしても40分弱だ。彼らならば70分の「ペパー」を作ることができたかもしれないが、しかし、それでも、と思う。ベートーベンが精魂込めて、声楽まで動員して作り上げた「第九」をまるごと納めるべく規格化されたCDを、果たしてポップスが埋められるのだろうか。
 CDに45分だけ音楽を入れておく、というのも手段ではあるが、ならばLPもプレスしてほしい。「40分で十分」と開き直るミュージシャンもいるかもしれぬが、「ではシングルCD二枚組にすればよいではないか」(その方がやすい)というと、多少返答に詰まりながらも「やはりアルバム指向で」と仰有るであろう。
 私の想像を超えるすごい才能が出現して、CD時代のポップスアルバムを作り上げるかもしれない。それまで待つのも一興だ。しかし、そんなに状況は甘くない。それまでにポップス自体が衰退してしまうかもしれない。

 そういう危機感にとらわれたのは、中島みゆきの新作『歌でしか言えない』のCDを新素材APOにつられて買ってからである。(しかし、暗い曲はやはり、黒いLPから聞きたいものです)真面目なみゆきは、「夜会」以外コンサートを開かずCDの70分を埋める努力をしてきたが、それゆえに70分がいかに長いかを感じさせる。
 かつてのピンク=フロイドならば、世界中にマーケットがあったため、2,3年に一枚作ればよかったが、小さな日本のマーケットでペースを落とすことは許されない。すると、どうしても一曲の演奏時間を長くすることになる。しかし、アレンジャーの絶対数が少ない日本では、(一説によると数人)ライターとアレンジャーが連絡を密にして作り上げるということは望めぬし、ムソルグスキーに対するコルサコフのように、アレンジャーが全体の構成から必要とされる部分を、著作権に無関係なイントロを除いて書いてくれるということもない。どうしても繰り返しを増やし、増やした部分はシンセをどんどん重ねていって「盛り上げる」しかない。和製ポップスがワンパターン化するのはトレンドだからいいとして、繰り返された部分をシンガーソングライターは、どんな惨めな気分で歌うことか。みんなで歌ってくれるならまだよい(おだやかな時代)、しかし最悪の場合、シーケンサー以外はエレキギターだけだ。
 確かに私でさえ歌謡曲にアレンジされた曲を延々70分も聞く気はしない。昔、ミュージシャンが楽しんで音楽を作っていた「時代」のLPを捜し集める方に注力したい。
 そう、この「楽しむ」という点にポップスの存在理由はあったはずなのだ。が、スタジオライブを原則とする中島みゆきでさえこうなのだ。スタジオ内の独房でヘッドフォンのカラオケに合わせて歌う大多数の歌手は、果たして「楽しんで」歌っているのか。スタジオはストレス解消用のカラオケボックスではない。その不健康な声が、70分間の重圧とともに我々の耳に迫ってくる。40分の不健康ならさほど問題でもなかったろう。しかし、引き延ばされた30分はミュージシャンにとっても苦痛であろうし、聞かされる方にとっても、である。

 健康的なポップスが少なくなった。今の時代、それはポール=マッカートニーのような巨大な才能か、ジョージ=ハリスンのように(1)普通に作曲しても適度なオリジナリティがあり、(2)自分の才能の不足を認める潔さがあり、(3)元ビートルズというネームバリューが一定のレコードセールスを保証する、恵まれた人にしか許されないのかもしれない。

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