ストラディバリも、音大生が副専攻で買わされた安物も、バイオリンには変わりない。が、もちろん音は異なろうから、これらをオーディオ装置は鳴らし分けねばならない。しかし、どちらがよい音かを鳴らし分けてはならない。オーディオ装置にとって、これら二丁のバイオリンの音は全く同等である。さらには、バイオリンとノコギリの目立ての音さえ同等である。
なぜなら、オーディオ装置の役割は、原音をそのまま再生することだからだ。換言すれば、ソースに込められた情報を正確に引き出すことが役割であるからだ。ここでいう、ソースの情報内容が音楽かどうかは、オーディオにとって少なくとも第一義的な重要性を持たない。
とはいうものの、こうした考え方が一般的に認知されているのではなさそうだ。確かに、ステレオはノコギリの音でなく、バイオリンの音を再生するために作られたものである。ならば、再生音に音楽性を求めるのが、よりまっとうな行き方である、という音楽性重視の考え方も十分説得力を持つ。
こういう考え方を便宜的に「音楽再生派」乃至「雰囲気再生派」、冒頭に述べた考え方を「原音再生派」と呼ぶこととしたい。
思えばオーディオも贅沢な志向を持つようになったものだ。よいステレオは生の音を彷彿させ、しばしば生を超える、とまで言われるようになった。かつて多くの人が、ミカン箱につけたロクハン(ダイヤトーンP-610シリーズ)にかじりついていた頃に、そんな「原音再生」を口にすれば、その人は耳がおかしいのかと思われたことであろう。その時代、再生音は生の音楽を彷彿させるのがやっとであった。生の音など望むべくもなかった。しかしそれでも、想像力を動員すれば、十分に聴き取ることができたのである。
であるから、音楽ファンのすべきことは、「いかに想像力を働かせて音楽を聴きとるか」であり、オーディオマニアのすべきことは、「いかに想像力を働かせやすい雰囲気を作り出すか」であったのだ。こういった背景が、オーディオにおける『雰囲気再生派』の志向を生み出し、この時代の記憶が、再生音における音楽性重視の思潮を育んできたのである。
しかし、オーディオ装置がここまで発達した現在、こういった『雰囲気再生』の志向、『音楽性再生』の志向を乗り越えなければならない時期にきているのではなかろうか。音楽は音を媒介とする芸術である。原音再生なんぞ望めなかった時代は終わったのだ。まず、音をしっかり出して、それから音楽を味わうというオーディオの王道を歩むことが可能となったのだから。
それは、私でも筋金入りのJBLを聴いているとき「これこそがJAZZなんだ」と思いこんでしまう。しかしながら、オーケストラのコントラバスのピチカートが、どうしてもジャスのウッドベースに聞こえてしまうと夢から覚める。『音楽性重視』を標榜しながら、ジャズの音楽性しか再現できないのでは困るではないか。それが嫌なら、音楽ジャンルごとに別々のオーディオ装置をくまなければならない。が、もしそんな余裕があるのなら、原音再生のための装置を一式揃えた方がいいと思う。
オーディオ装置はケーブル一本換えれば音は変わる。だから原音再生は不可能ともいえる。が、生の音楽を聴こうとコンサートホールに行ってみると、座席の位置によって音が変わり、その差はケーブルやアンプを換えたとき以上の差であることも多い。しかし、シンフォニーホールの中央の席は生の音楽であるが、東京芸術劇場の最後尾の席は生の音楽ではないとはいえない。(芸術劇場も前の方はいい音だ。管の音が石の壁に反射するのが問題だが。)
とはいうものの、ここで原音再生派は、最大の問題にぶちあたる。「何をもって原音と呼ぶか」である。ワンポイント録音なら問題は簡単だ。しかしそうとは限らない。かくして原音再生派は『原音再生を追求すればするほど、原音の不在に思い当たり、雰囲気重視に傾かねばならないという矛盾』に思い悩むことになる。
しかし、ここで考える「雰囲気重視」は従来の概念ではない。従来は、自分の頭の中に音楽を聴いている状態を作り出すための雰囲気であり、その善し悪しの基準は、自分の判断のみに依存していた。が、ここで生まれた「雰囲気重視」は、もしこの演奏を生で聴くとしたら、どう響いていたかを判断基準とするものであり、個人の主観の介在する余地は著しく減少している。
さあ、ここが次の概念展開の出発点。