隠れ隔月日記


≪2007年12月30日≫
年末のまとめニュース的なものを見ていると、地球温暖化問題を先鋒に世界的な 変化をひしひしと感じることが出来る。
何年もの間「隔日日記」で論じてきたので再度述べることはしないが、 結論だけを言えば、新資本主義のグローバルスタンダード化が引き起こす様々な 矛盾と混乱は、「新社会主義」とも言うべき21世紀型イデオロギーを確立するための 保育器みたいなものだ。
いったんしゃがんで力をためねばジャンプできないのと同様に、 行き過ぎた資本主義がもたらす弊害で多くの人々が実際に痛い目をみなければ次へ進めない。
いつまでも、共産主義と社会主義の自壊、資本主義の生き残り、の時点に 止まっていることは出来ないのだ。

そう。最終的に神の視点から考えれば、 すべての人々がこういったことに気付いていくことがゴールと考えられるが、もちろん現実的に世界を見渡せば 実現不可能。
そこに最下層の無い無限ダンジョン型RPGと言うか、最終ステージの無いSTGというべき、 地球上ゲームのメインルーチンが出来上がっている。
「人間五十年、長くても百年。」というベースロジックは残酷なほど良く出来ている。
神と悪魔は一枚のコインの裏表、というのは真実か。

”地球の破壊”という結論さえ予定調和の中にある。
人々の向上を待たずとも、大地震が続くなり中型の隕石が落下するなり地軸が90度回転するだけ(?)でも、 いきなり抜本的な解決になる。
ゲームマスター側の選択肢には、半日もあれば最終的な局面を根底から ひっくり返し、地球をクリーンに出来るカードがいくらでもある。

問題の本質は、この外枠だけはきっちり管理された無限型箱庭ゲームで、 「止めようがない危機にどう対処して、何を感じるか」という命題だけ に身を入れて、それ以外のことはみな自由に楽しんで行けばいい、 って事なのかもしれない。
その過程が重要であり、結果のことについては実は心配しても意味がなさそうだ。


 

≪2007年12月29日≫
昔の絵。
以前描いた絵はすべて処分し終わったつもりでいたが、また実家の本棚の奥から出てきた。
いったい、どれほど出て来るんだと思いつつも、パラパラめくるととても懐かしい気持ちになる。

夜、NHK教育の「トップランナー(再)」を観た。
才能に恵まれ、チャンスを活かし、やりたい事をやっているらしい人々を観た。
酒でもまわったのか、いったん片付けたスキャナをいきなりセッティングし、 この最後に残った落書き帳をスキャンしてみる。夜中の2時に何をやっているんだろう。

はずいがアップする。昔の絵だがご容赦。
ちなみにこのスケッチブックは、絵を描かなくなってしばらくした頃、 なぜか突然絵を描きたくなり、出先で買ったやつだ。
水彩絵の具と筆1本と共に買って、もう、15年くらい昔のもの。
パレットは食べ物が入っていたプラスチックの器を洗って、パレット代わりにしたんだっけ・・・。
最初の4枚が水彩画なのはその時の勢いで描いたもの。

それ以降も、しばらく時間を置くと突然描きたくなり、描いたりした。
エヴァンゲリオンを見終わった後にイメージ記憶で描いたのもある。
絵の情熱が高まっていない時に描いたものは、線に勢いが無く、線から色気が消えている。


 

≪2007年8月26日≫
大花火見学。
なんとなく、唐突に、花火が見たくなった。
前もって準備だとかできる余裕があれば、現地の地理だとか情報収集だとか 眺めの良い部屋の予約だとか友人らと誘い合ってだとか、いろいろ出来たのかもしれない。
結局、ゆとりのないまま、「行けば何とかなるさ」という気軽さでフラリと行動をおこしてしまった。
こういう、思いついたら突然に、アホなくらい気軽にひとりで行動を起こす事が私には良くある。

もちろん、花火を真下で見たいとか、特等席で見たいとか、最初から終わりまですべてを見たいとか、 そんなことはこれっぽっちも考えていなかった。
ただ、「ちょっと話題になって気にかかったし、空いた時間に観光客的気軽さで、 少し見れればそれでいい」くらいの気持ちだったと思う。

・・・でも結局は、車いっぱい、人いっぱい、特等席どころか、ほどほどの場所をキープするので 精一杯。それも一部必死に競い合って、流されつつ勝ち取った(?)結果。
お互い様だとは思うが、「他の見物客と嫌な体験をするために行ったのか?」と 思えるような不本意なところが少なくない結果に終わった。

こんな事なら、もっと準備をして、人があまり来ないような、ほどほどのロケーションの場所を 事前に調べて行っていれば・・・とか、 スケジュールが合えばだけど、友人らと連れ添って”花火を見る”のはついでで、 ”一緒に遊びに行く”ことにメインがあれば、 花火はほどほどにしても、別の面でもっと楽しめただろうにと。

思いつきで準備なく行動し、好ましい結果が出ない場合の典型例だと思う。
改善すべきところはどこか?
突発的な欲求が起こった時に、「飛び込めば何とかなるさ」という、 超お気楽思考、超無責任思考を抑える忍耐力・自制心、 結果をある程度求めるのなら、欲や計画性や執着心が必要だと思う。
・・・だが、”執着”から逃れて、”自然に遊ぶ”のが大切だというのなら、 そして、結果は問題じゃなくその過程が大切なのだというのなら、 今のままで良いのかもしれない。

結果は思わしくなかったが、こう考えるとこれで良かった(しかたなかった)のかもしれない。
人間万事塞翁が馬、天網恢恢祖にして漏らさず。なのかな。そう思うしかないよね。


 

≪2007年8月25日≫
久しぶりに油絵を描いてみた。
かなり昔のオイルと絵の具だったが、何も問題なくいい調子だった。
無駄な出費が省けてラッキー。

こういう油絵だとか陶芸だとか、年齢相応の趣味としてたしなんでいくのは なかなかいいことだと思う。
しかも形が残る。
読書とかだと、蓄積していくものはあるのだろうが形が残りにくいため、 その時の考えや感情等は時の流れと共に流れ去って、後から再認識するのが 難しい。
その点、絵などだとその時の感じが多少なりとも分かる感じで 残ってくれたりする。
その当時、「何でこんな風に描いたんだろ?」と我ながら不思議な状況が読み取れたりすると、 気恥ずかしさと共に、残しておいて良かったとチラッと思ったりもする。

世代と共に意外なほど、知性や心持ちの変化がある。

 

≪2007年8月24日≫
かっこよさ。
「かっこよい大人が少ない」良く聞く言葉だが、確かにその通りだなあと私も思う。
歴史物の場合は、イメージによる強化や、勝者の都合のいい宣伝だけが残りやすいものであるので、 話半分に聞いておくらいでいいのだろう。
だからマイナス部分が過度にクローズアップされやすい現代の話とは一線を画する必要がある。

だが、それで言っても「かっこいい大人が少ない」のは百害合って一利なしだ。
子供たちは迷って根無し草になり、男たちはふてくされて開き直る。女たちは節度を忘れて男化する。

昔のように、周りの人々で家長や組織のリーダーなどを盛り立てて大きく伸ばしてやるのも、 メリットを考えれば有りなのではなかろうか。
それでも増上慢心させないくらいにうまく調整しないと、ふたたび戦前風の男のわがままや愚かさ が社会を狂わせてしまう。
だが戦後、特に平成はその反動が行き過ぎてしまって、逆に弊害が大きくなりすぎてしまった ように見える。

「平和だがなさけない大人」と「荒々しいがかっこいい大人」、それぞれ一長一短がある。
結局は、社会の方が「かっこいい大人」を仕立て上げ作り上げることによってしか、成立しない部分が大きい。
かっこいい大人が少ないと嘆く声は、そのトレンド転換を望む大衆の声なのかもしれない。


 

≪2007年8月23日≫
「悟り」というものについて少し考えてみた。その4。
結局は、「喜びがあれば苦しみもある。それが楽しい」路線を楽しむのか、 「喜びも苦しみもいらぬ。安楽が第一」路線を歩むのかという問題だ。
前者は神の路線、従僕的役者、与党の支持者といえる。
後者は仏(ホトケ)の路線、フリーの個人事業者、野党の支持者といえる。

神と仏の根本的な違いは良く分からないが、お互いに悪魔的な要素を内包しつつも 自分の庭で遊ぶ子供たちの為にやっているように見える。
うがった見方で悪魔的な部分をあげつらうより、その根源的な善意を見るべきだ。

最終的には、この両者間を何度も往復しながら時間を費やしたり、自分の好みの道へ進んでそこに 止まり続けたりするしかないのであろう。

またいっそ、役者キャストではなく、スタッフ側にまわったりするも、有りなのかもしれない。

つまるところ、計りきれないほどの長い時間を過ごすために開発された ”壮大な暇つぶしシステム”が神仏プロジェクトと言うしか ないのかもしれない。

 

≪2007年8月22日≫
「悟り」というものについて少し考えてみた。その3。
ここで「劇場」と「ネットゲーム」の2つの例えが出てきたので、もう少し明確化しておこうと思う。
結論から言ってしまうと、その大きな違いは「”心と感情”がシナリオで定められているか否か」にある。

「劇場」では役者のそれがどう動くか脚本家により既に決められており、「ネトゲ」ではそれがプレーヤーの自由領域になっている。
現実世界が劇場に例えられやすいのは、まさにこの点に肝がある。
私も昔は判断がつかなかった。もしくは、逆に「心と感情」は役者側の領分だと思っていた。
だが、役者はそれを定められたとおりに、さも自分のことであるかのように真剣に 演じきることに実態があり、最悪、「そういう自分を覚めた眼で見る別の自分」を確保し続けることも可能だ。

魔が差したり、普段の自分とは違う心の動きや感情を爆発させる自分が時に 出てくることが誰しもあると思うが、それこそがまさに、脚本家と演出家の指示に、 「ここは自分なら違うなぁ・・・」と後々感じさせる箇所になっている。

私は今でも、心だとかの単語の明確な区別はハッキリしてないが、「心と感情」は神様側、 「意識的な意識」はプレーヤー側という風に、管理担当者によってこの分かりにくくあいまいな所を 区別してみるのも、一つの方法であるように思う。
「魂や無意識」という訳の分からないもう一人の影の演出家の指示に従いつつ、 この両者を「思考」が機能的に取り持っている。

こういう明確化は、こういった分野に疎い人だと個別に認識すらせず、 「心と感情」が自分の本体だと思い込んでいたりする。
だから(?)、パターン化された過ちや感情的な悲劇が絶えることは無く、肉体を失ってからも、 解除されたこれらにすがろうとする為に(?)霊的なトラブルが起こったりするように思う。まったくの推測だが。
意識的に行動できるか、イエス的に言えば「眼を覚まして生活しているか否か」、の キーポイントはここにあるように思う。

 

≪2007年8月21日≫
「悟り」というものについて少し考えてみた。その2。
ふと思うと、昨日書いたことは、ネットゲームの黎明期に実際に起こったことにとてもよく似ていると思う。
UO(ウルティマオンライン)が出始めた頃はまさにこの状態であり、 他に選択肢が無かったことは多くの多様なプレーヤーを広く呼び込み、 運営側の無茶な行為や多くのバグなどに参加者が限りない忍耐を強制され続けても、 いつも良質から下劣まで様々な人々でいっぱいだった。
そして彼らはそれすらもドキドキワクワクで楽しんでいた。

今ではUOもネットゲームそのものもすべて廃れてしまい、「永遠のデバッガーが いくらでもいて、管理側の対応が不十分でもやりたい放題でもすべて許されていた時代」などというものは 過去の遺物だ。
逆に、料金もいらないのでとにかくゲームをやり続けてください(人が少ないと成り立ちにくい世界であるため) という、完全に買い手市場と売り手市場が逆転してしまっているのが実情だ。

この例で考えれば、今の「現実世界劇団」も、対抗馬が現れ、選択肢が多様になり、 それ自体にも多くのプレーヤーがスレて悟ってしまえば、あっという間に さびれた世界になってしまうことだろう。
その時になってユーザーに擦り寄り、多くのレアアイテムやスーパーな能力をキャラに与え続けて釣ってみても、 それでも参加者を留め続けることは出来ないということになってゆく。
むしろ、昔の”運営から放置されたような未完成な苦しさ、厳しさ”の方が楽しかった、 と回顧するプレーヤーも多そうだ。
もちろんそれは、過去の美化に基づく単なる勘違いに過ぎず、実態は未完成な世界に 情動的にアナーキーに参加したことによるしがらみ無き開拓時期の充実感でしかない。

やたら難易度の低い、ほぼトラブルの無い世界を多くのプレーヤーが望むのなら、 そしてそういう世界を構築する神がいるのなら、上記と同様の推移になってゆくはずだ。
別の見方をすれば、そういう世界は既に幾百とあるのに、わざわざドキドキを求めて 厳しい未完成な(?)世界に多くのチャレンジャーたちが飛び込んできている可能性も高いのかもしれない。
そしてそれ(トラブルの多い世界を望み楽しむこと)こそが、「悟り」によって クリアすべき問題点ということなのだろう。

 

≪2007年8月20日≫
「悟り」というものについて少し考えてみた。
この現実世界を例えると、よく言われることだが、「劇場」に例えるのが 一番ピッタリ来るように思う。
すなわち、劇場のオーナー兼、スポンサー兼、劇団長兼、脚本家兼、演出家兼、監督 が神さまで、我々一般人はその演劇のキャストだ。
すべての役柄にオーディションがあり、人気のある美味しい役柄だと競争率が高くて なかなかなれなかったり、キツイ役やツマラナイ役柄だと簡単になれたりするのかもしれない。

ポイントは、あくまで買い手市場であること。
だから、ものすごくキツイ役でもすぐに次が見つかる。だから、 途上国の信じられないような悲劇のキャストでさえ、次から次へと産まれるがままに 役者が割り当てられてゆく。
現代日本の中流家庭に産まれつく事は、世界的・全時代的スパンから見れば、 それなりの当たりクジだと言って過言ではないだろう。

「悟り」というのは、結局、この実態を見極め、あきらめ(?)、失望し(?)、 それに心底絶望すること(?)によって、この”キャスト”に二度と応募しないことを いうのだと私は思う。
少なくとも、ブッダ的な狭い意味での「悟り」というのはこの事だ。

”買い手市場”が示している通り、他の選択肢がかなり少ない、あるいは無い場合も充分 考えられるので、「二度と応募しない」ことが普通は永くは続かないようになっている可能性が高い。
最悪のケース「他の選択肢がまったく無い」場合を想定してみると、実にリアルだ。
他の選択肢を選ぶという状況が無ければ、選ばないという状況を永遠に選択し続けるしかない。
すぐに退屈してしまうことは明らかで、考えられないほどの悲惨なキャストでさえ、 退屈しのぎになれば+怖いもの見たさの安易な気持ちで結局は現世に舞い戻ってしまうのだろう。
もちろん、いくつかの魅力的な楽しみがある事も決心をぐらつかせる。

これを排除できるほどの決意や体験や知性や強い心が必要であり、 結局はそれらを身につけるために何度も何度も転生を繰り返すことになる。
この状況をを解決するための考え方が、ブッダ的には、「第一に安楽を心から願う気持ちと、 流転無常の物質が持つ虚偽性への徹底否定」を最大限に用いる事である。

 

≪2007年8月19日≫
今年の夏は、なんか、むちゃくちゃ暑いなあ。
ピーカン天気の上に、日差しも熱波も力強い。
個人的には、ピーカン天気は大好きなので、その点はうれしいのだが・・・。

夕涼みに山道へ。
木陰に入ると確実に涼しい。山のかぐわしい空気がものすごく心地良い。
これだけの熱波にあっても、樹木や沢の水や山の風たちはビクともせずに 平静を保っている。
森の中は別世界だ。
日本の自然力の強さを感じることが出来る。

帰り道、カラフルな子蛇と、その体より確実に重量のあるクルミの房を重そうに くわえたリスと出会う。
もうすぐ、秋か。

 

≪2007年8月18日≫
川遊び。
ここの所、まとまった雨がなく、その上空気も乾いているので川の水量がひどく 減っている。
なんとなく懐かしくなって、川幅数十メートルくらいの川にザブザブと入ってみる。
いつもは水量のある川なのに、今は水流のあるところは狭いところだと数メートル しかなくなっている。

水の溜まったところには小魚多数、この辺だと、アユ、ハヤ、ヤマメあたり だと思うのだが、驚くほどたくさんいる。
投網を打っている人がチラホラ見えるのもうなずける魚影の濃さだ。

川のど真ん中を数百メートルくらい上流に向かって歩き回る。
膝くらいの水深のところが多く、石の大きさもまとまっていて意外なほど歩きやすかった。
川の中に湧き水の出ているところがあるようで、水深がひどく浅いにも拘らず その一帯だけ異常に冷たかったり、川のど真ん中なのに浅瀬が続くせいかかなり暖かかったり、 実際に歩いてみなければ分からない発見があって、とても楽しかった。
川の表情の豊かさは、なにも長い距離を網羅したり全体を俯瞰しなくとも 味わえるものだと驚いた。

水中を歩いていると岩のコケがはがれるらしく、たくさんの小魚が私の歩いた後を ついてくる。
止まっていると足の周りに真っ黒になるほど寄ってくる。
私は魚が大好きな事もあり、すごくうれしい。

ちょっぴり興奮して、海パンと水中眼鏡+シュノーケル装備で、深い所に潜ってみる。
川の魚たちのシャープな美しさも半端じゃない。
その動きのすばやさに眼が回った。
あれは、日射病だったのかも?(笑)


 

≪2007年7月12日≫
日本の女神。
最近、博士課程に進んだ人の不遇問題が浮上してきた。
「博士が100人いる村」などを読むと、にわかには信じられない気持ちになる。
私がこの話を知ったのは数年前だが、今話題になっているということは、 低所得者層と不安定な雇用問題あたりからの関連で、 クローズアップされてきたのだろう。
好景気を謳っていながら、「本来、社会が重用すべき知識者層の人材にすら 実はお金が回っていない」という今の実態が浮き彫りになっている。

なんとなく、ぼんやりと日本を俯瞰してみると、 ”日本の女神の立ち位置”が見えてくる。
それは、「高校を卒業して、すぐに公務員か会社員になり、ほどほどに真面目で、 ほどほどに遊ぶ団塊世代かその少し上辺りの初老年世代の側に女神は立っている。」

だから、そこから外れる、知識者層や野心的な起業家、研究者、 高い能力を持って会社を転々と渡り歩くような欧米型の半エリート層などは、 旧来の既得権益にもぐりこめなかったりすると、残らず弾き飛ばされて放置されてしまう。

女神がいつまでその初老の男(女?)の側に付いているつもりなのか分からないが、 このままでは日本の未来が危ういのに気付いているのかどうか・・・。

博士課程に進んだ友人たちは、今どうしているのだろう?


 

≪2007年7月11日≫
選挙が近い。その2。
どういう選挙結果になろうとも、行われる政策にさして変化がなさそうなのが面白い。

すなわち、消費税をいつ上げるか、ホワイトカラーエグゼンプションをいつ制定するか、 パート・派遣労働待遇をいつ底上げするか、社会保険庁をいつ解体するか、年金に税金をいつ投入するか、etc・・・
結局、時期や規模が多少前後するだけで、行われることの中身はほとんど変わらない。

消費税も税徴収を徴収システム上逃れている層から取れる唯一の方法だから、 とりっぱぐれが少なくてよい所もある。
資金の多くを握っているのが、お年寄りや年金生活者だという転倒した社会状況がおそらくしばらく続くので、 そこから少しでも多く引き出したいという意図も、将来の子供たちに 多くの借金を残すのに比べたらずっと悪くない。

WCエグゼンプションもタラタラと残業代で生活費や遊興費を稼いでいる層の年収を下げ、 時間単価ではなく”仕事の質”で評価してゆくことにより、相対的に評価されるべき高能力者のプライドを潤すことが出来、 その浮かせたお金で新しい人を雇い入れたり、派遣労働・パート労働環境の底上げを行ったり出来る。
将来的には、正社員もパートも派遣も、生活保護的最低年収保障+その仕事の質、という感じに落ち着いてゆくはずだ。
つまりは、最終的なワークシェアリングには欠かせない。
そもそも、働いているのに生活保護以下の年収というワーキングプア層が多数存在することが 極めて異常なことだ。
そして、それを正すためには財源が必要で、それには国民平均年収層以上の残業代を 残らず削ることにより捻出する以外にない、という結論になるのも自明の理だ。
一番望ましいのは、国民の溜飲を下げるためにも、公務員から行うのが一番なのだが。
一度でいいから、”米百俵の精神”を百姓に肩代わりさせるばかりではなく、武士が実行してみるのがよいだろう。

社保庁や年金に関しては、ここまで時間と国民の怒りを溜め込まなければ 突破できない、ということから知ることの出来る 「役人組織の装甲の厚さ」をここで実測できるのがすばらしい。
別の役所を突破破壊するケースにも、その必要火力を算出するのに役立つ。


 

≪2007年7月10日≫
選挙が近い。
国政選挙になぜがいつも惹かれる。
正確には、サッカーワールドカップや野球のワールドベースボールクラッシックと まったく同じ意識だが。
サッカーも野球も、自分でプレーするのは好きでも、他人の普通の試合には全く興味がない。
それでも一発勝負の国際試合というのが面白いのだろう。

選挙も県知事選挙以下には全く興味がないが、(ごめんなさい)、おんなじような理由と、 国中が右往左往して悲喜こもごも、人々の情熱や真剣な熱い戦いが繰り広げられることに強く引き付けられるのだろう。
だから、自分は投票に行かない時でも、深夜まで選挙特番を見続けたりする。

今回の選挙もまたもや消去法で・・・と思ったが、本当に投票すべき所がない。
いつもいつも、投票したい候補が居ないというのは、選挙としてかなり悲しいことだ。
多くの政治家が「人々の幸せのために、そして選挙民の意に適って自分が当選するために」と 考えて行動しているのにも関わらず、どうしてこうも、選挙民の意識を捉える事が出来ないのか。
私だけがずれているのか?とてもそうとは思えない。

結論の一つは間違いなく”社会の複雑化、価値観の多様化”がある。
早い話が、戦争や外圧によって、散らかし放題の考え方をバッサリ切り捨てて、 根元から洗浄していかなければならないところまで 汚れや膿ががんじがらめに溜まっているということなのだろう。
それを二大政党制だとかのお題目だけで四捨五入できると考える方がおかしい。

「台風一過の日本晴れ、川も野山もピカピカに」に近い大掃除改革を行うには、 戦乱以外になさそうなのが、とても悲しい。
戦乱なくして抜本的改革を行えるようになるのに、あとどれくらいの年月が 必要なのだろう?
先の小泉選挙の結果などを見ても、国民の意識はかなり変わってきていると実感しているのだが・・・


 

≪2007年7月9日≫
医食同源。その2。
昨日は最初に書こうと思っていた話題からそれてしまった。再度書く。

21世紀のキーワードとして”二極化”があるが、「食」についても まさにその事が実感されてきつつある。
すなわち、「農薬ドバドバ遺伝子加工グジャグジャの安い食品」と、 「自然に対し愛情タップリ手間隙シッカリの高価な食品」の二極化だ。

安全や健康に強いこだわりのあるお金持ちは後者を買えば良く、 それ以外の人々は前者を買えば良いというわけだ。
「安全で安く」は現在の技術や社会体制では不可能ということだ。

ゲーム的に考えれば、「本当なら、”飢餓”で経験値を稼がなければならないところを、 空腹の苦しみは耐え難い、ということで、”アトピーや喘息や花粉症や現代成人病”で 代わりに経験値を稼ぐことにした。」と言うと分かり易いかもしれない。
どちらも、止むにやまれぬ苦しみなれど、後者の方が未経験の分だけ 楽そうに感じてしまったり、ただ目の前の苦しみを回避した結果、 後者の苦しみを味わう羽目になってしまった、というのがより正確か。

<医食同源>という言葉は、医と食の苦しみ経験値は共通の変数バッファで 管理されているのが今のシステムだ、という事を示していたのかもしれない。

 

≪2007年7月8日≫
医食同源。
最近、中国の毒入り輸出品問題がよく報道されるようになってきた。
中国指導部も対応策をとり、メディアにも”民主国家風に”情報を公開するなど、 豊かさと発展への欲望に突き動かされて”資本民主主義”への扉を 自ら開いてしまったツケや体裁を全力で取り繕っているところだ。

正直言って、もっとぐだぐだになったり、後手後手の天安門になったりするのかと思ったが、 外から見ている分には、かなり良くやっているように見える。
超高速のもぐらたたきゲームで、なりふりかまっていないながらも、 必死にポイントは稼いでる中国人、のイメージがコミカルに湧く。(笑)

以前の日記にも、「オリンピックや上海万博への目標は、 身の丈に合わないことを、倒れそうになるまで大きく 背伸びしてでも成功させようとすること自体に本当の意義がある。 そしてそれが世界のためにも中国の民衆の為にもなる。」 というような事を何度か書いたが、まさに着々とその道を歩んでいる。

「民主国家、オリンピック、万博etc・・・」これらのメンツを保つために 費やされることになる、上層部の考え方の変更、民衆の価値観の変更、 役人の前例への変更は、本来不可能であるほどの大きな建設的エネルギーだ。
そしてこれこそが、将来の子供たちのために最も意義がある。


 

≪2007年6月25日≫
ダンボール整理。その2。
『戦国群雄の戦い』の原画が出てきた。
せっかく新しいスキャナがあるので、スキャンしまくってみる。
このサイトは『三国鼎立』のサイトという位置づけだが、人物顔のところに アップしておきます。

ついでに『三国鼎立』の方の顔原画もあったのでスキャンしてみる。
もうほとんど忘れかけているので、今のうちに思い出したネタも書いてみる。

アニメの原画とかもそうだが、描き込まれた紙の山がドサッとあると、 妙に豊かな気分になる気がするが気のせいか?(笑)
描き終わった時だけの幸福かと思ったが、かなり昔のものでも幸福になれるとは 結構意外だ。
こんな姿を人には見せられないが。

昔、仲間内で作っていた小冊子も、申し訳ないけど処分してしまおう。
マンガ原稿の類も案外沢山残っている。こういうのに限って、捨てるに捨てられない。
でも、歳をとってゆく過程で、誰でもこういう「若き日のおもちゃ箱」みたいな物を 処分して行くんだよなあ。

 

≪2007年6月24日≫
ダンボール整理。
昔、描き散らかしたものがまだ残っている。
私は結構残しておくタイプなので、意識して処分してゆかないと スペースが占有されるばかりになってしまう。

けれど、愛着があるものほど、やっぱり捨てにくい。
有名作家などの書斎や倉庫などテレビで見ることがあるが、 広くて立派なミニ図書館のようなスペースがあるのを見ると、 とてもうらやましく感じる。

だが、そういう彼らも、いつかは掃除しなければならないのだから、と自分を慰めてみる。(笑)

 

≪2007年6月23日≫
蛍。
今さっき何となく夕涼みをしていたら、蛍が一匹飛んでいた。
いきなり目の前2mくらいのところで、ボワゥと光って飛んできたので、 ちょっとビビッタ。
モビルスーツのモノアイの軍事的効果って、こういうことか?と思ってしまった。

最近、空気の透明度が増しているように感じる。
この時期、この地域では晴天の場合でもまだまだ薄曇がかかっているのが普通なのだが、 今年は関東のように”本当の”青空になっている。いわゆる秋空にかなり近い。
空を見上げながら山道を自転車で流しているととても気分が良い。空が高い。
これも異常気象の一種なのだろうか。


 

≪2007年6月20日≫
見学者。
ふと思ったが、私の魂(?)の立ち位置は”見学者”のような気がする。 冒険者寄りの見学者。

例えば、ピラミッド建設の時代にエジプトに生きていたら、 ピラミッド建設に少しは携わりたいと思ったであろうし、 大航海時代にスペイン・ポルトガルに生きていたら、新世界への交易へ 船出したいと思ったであろう。

イギリスの産業革命の時代なら、工業技術者になったであろうし、 日本の幕末期にいたら、西欧文化をいち早く取り入れる、あるいは、 とりあえず一通り体験するくらいの立ち位置に立っている感じ。
「とりあえず参加している」というのがミソ。

今まで生きてきた自分の体験や志向性を考えると、「最先端の開拓者」では ないものの、小規模・無名な3番手くらいの体験者に居たような気がしてくる。なんとなくだが。
正確には、3番手というよりも、第3の波の中の無名の一人くらいのレベルだとは思うけど。

この「時代の特色に対する積極的な参加」は、好むと好まざるとに関わらず、”運命の決定者たる魂”の志向性の ように思えてならない。
もとより、すべて私の主観と体験から来る想像に他ならないのであるし、 そこで「生きて体験させられる」ことになる肉体の私にとっては、 つらく苦しいだけという現実の場合もあるだろう。 肉体の方に決定権があるのなら、安定した仕事と家庭で、のほほんとしていた方がどれだけ安楽か。 何を好き好んで、情報の少ない危険な大海原へ旅立つのかと。

たぶん、今よりふた世代後くらいに生まれなければならないのなら、日本に生まれて、 「無人機・ロボット技師」あたりに心血を注ぐことになるような気がする。
・・・でも、その時代のその地域でしか味わえない特色を、少しでいいから 体験したい、見学したいというのは、我ながら、良く分かる。 そして、それで苦労させられることになる肉体の私にも深く同情してしまう・・・。

魂の立場からいえば、「色々面白く体験させてやっているんだから、充分楽しめばいいんだ」 と言いたいのだろう。


 

≪2007年6月4日≫
地球温暖化対策の特効薬は人口抑制策?つづき。
昨日はなんとはなしにそんなことを書いたが、案外、本質を突いているのかもしれない。

つまり、乱開発と公害により異常気象が頻発するようになる、が、 同時に乱開発と公害垂れ流しで得た”経済発展”によって更に人口が増える。
人口が増えるとますます地球環境に負荷をかけて温暖化が進む。
異常気象だのバイオエタノールだので食糧危機が起こり、 それはすぐさま暴動や内乱や戦争へと発展する。

先進国から見ると、先頭に立っている自分たちが汗も流し血も流しその減らした分を 途上国がすぐさま人口爆発で埋めてしまうのは面白くない。
途上国から見れば、乱開発も公害垂れ流しも、もともとは先進国が始めたことで、 歴史的な総和で見れば先進国たちが汗を流して罪を償うのが当然。

多分、先進国は食糧危機も戦争も途上国に押し付け、自分たちはひたすら亀のように シェルターで守り金の力で物資を買いあさりつつ、環境対策と省エネルギー対策を進めることになる。
だが、最善を尽くしても現状維持すら難しいと気付いた時、本質的な問題解決へと 進むか、そのままズルズルみんなで悪くなって行くかの選択を迫られ続ける窮地に陥る。
結果、最終的には不可避の”抜本的な人口削減策”が効果的に遂行されるのを見守ろうとするはず。
もとより、そんなことを座して中間層以下の人々が認めるはずもなく、 ただで済むはずがない。

神の立場からすれば、ある程度展開が行き渡ったところで、逆に”氷河期”あたりを おこして、温度調節との兼用で最終調節を行ったりしそう。
・・・これをあまり進めすぎると、普通に有史以前からの再スタートとなりそうだが。
歴史を考えるとありがちで怖い。

 

≪2007年6月3日≫
この頃、天気が良くてとてもうれしい。久々に峠まで登ってひと汗かいた。
新潟では、この季節に日差しが強いことは珍しい。
今年は暑い夏になりそうだ。

ここ最近は、毎週のように山に登っているが、例年になく”蛇”が多いことに気付く。
毎回、3〜4匹と出会う。通常の3倍以上の確率だ。

おたまじゃくしも多いが、こちらは例年通りな感じがする。
林道沿いの小さな側溝にも、びっしりと直径1cmくらいのおたまがいたりする。
水深2cm、川幅10cmくらい(つまり水たまり)で流れもないから、 3〜4日、雨が降らないだけで全滅するのかなあと思う。かわいそうだが。

神から見れば、人間の生活も、このおたまじゃくしたちと同様に見えるものなのかもしれない。
適正な生息域にいるおたまにとっては、少々の気象の変動は全く影響がないだろう。
異常気象と、本来生息すべきではない生息域までの過剰な増殖は、 ワンセットでもたらされるのもなのかもしれない。
・・・つまり、地球温暖化対策の特効薬は人口抑制策?

 

≪2007年5月31日≫
ふと思いついた例え話。その2。
ある部品は思った。「正規品に混じって、本来あるべき所にいるのはとてもつまらないなぁ。 ジャンク品の海に流れてみよう。」(・・・そういえば、一世を風靡した「泳げ鯛焼きくん」って こういう話だったっけ(?)うーむ。)

ジャンク品になっても中身は全く正規品と同じなので、その部品は、 「使われ方次第でもっといろいろな可能性がある」と気楽に考えていた。
そして本来の機能以外の使われ方をして、本来の機能以上の可能性を 体感することを潜在的に求めていたようだ。

鳥人間コンテストの自作飛行機の部品になってみたり、村おこし川くだりレースの 創作イカダの部品になってみたり、木製自動車の部品になってみたりしたが、 依然思いは遂げられずにいた。
奇抜な本来以外の使われ方をするのだが、安定して、正規の場所で発揮する性能以上の 実感は得られなかった。

ただ、”充実”と言う意味においては、退屈しのぎにはなったのかもしれない。
しかし、壊れてバラバラになることが計画段階から、面白おかしく(?)織り込まれている 機械の部品になるしかないことに、そしてやっぱり不安定で不調和で性能以下での使われ方が 多くなってしまう現実に、悟ったりもした。
やっぱり、正規品の中にいて、本来あるべき場所で本来あるべき機能を果たしているほうが 良かったのだろうか?

この例え話で、ハッピーエンドを描くとしたら、部品の思いがかなって、 天才発明家に買い取られ、他の雑多なジャンク品達と共に、芸術的で高性能な 発明品の一部になる、という感じになるのだろうか。
だが、目的を果たしたその後は?

神的視野に立てば、こういう冒険をしたこと、体験したことの中に尊い意義がある、 ということになるのだろうが、 そう考えると、やはり地球上の悪も間違いもおさまることはない、・・・ そこに尊い意義があるということにするしかなくなる。

 

≪2007年5月30日≫
ふと思いついた例え話。
腹ペコの男がいた。リンゴがあった。ただし毒入りリンゴだった。
男は食べて病気になった。

病気が治り空腹を感じた男は、今度は腐ったリンゴを見つけた。
先の災難に懲りていたものの、空腹に耐え切れず、そのリンゴを食べた。
案の定、腹を壊し、下痢と腹痛に苦しんだ。
腹の具合が治ってきて男は思った。
「もう、毒入りも腐ったやつも絶対に食わないぞ。」

それでも空腹を感じていたので、食べられる物を捜した。
今度は妥協せずに捜したので、なかなか食べてもよいと思えるものに出会わなかった。
空腹に耐えながら探し回るつらさに、男は苦しんだ。
だが、捜しても捜しても、結局、食べられる物は見つけられなかった。END。

この例え話に続きを書くとしたら、どういうのがいいだろう?
ひとつは苦労が実って良い食べ物を手に入れる話、 でもそれだと、いつまでもそのハッピーな話だけで場が保てなくなるので、 再度、忘れた頃を見計らって、毒入り系、腐った系、捜しても見つからない系の 話が、アレンジも交えて繰り返されることになるのだろう。

根本的な解決としては、やはりブッダ的に、空腹や物を食べたいという欲求自体を捨てて、 執着を手放すことによって最終的な解決をつける、 しかないのかもしれない。

つまり、食べるに適当なリンゴがないのなら、変なリンゴは無理して食べないし、 目の前の不本意なリンゴを逃したら、もう二度と食べ物にありつけないかもしれないという 可能性も甘んじて受ける、しかも空腹にうろたえて探し回ったりもしない。 ということか。

発展途上国で行われている”貧困”というプロジェクトや、 先進国で行われている”ニート”というプロジェクトは、神から見れば、 この可能性を探る建設的・進化的なチャレンジなのかもしれない。


 

≪2007年5月24日≫
先週くらいから、もう一作AVGを作りたくてウズウズしていた。
音入れを急いだ理由の一つがこれだ。

これも以前からの企画で、キリストのアドベンチャーゲーム。
本当はHゲームの企画として考えてきたものだが、 H抜きの簡単なものなら、作れそうな気がした。
『大好き!パヤエル様!!』とは違って、こちらは選択肢の少ない完全なノベルゲームに なりそう。
バッサリとやれば、更に簡単に出来るはずだ。・・・余計な拡張心をギリギリ抑えて。(笑)

一番の懸案だった音の問題も、今では肩の荷が少しおりた感じ。
フリーの全年齢対象ならば、使わせてもらえるフリー音楽サイトが多いことが 心の杖だ。

 

≪2007年5月23日≫
背景曲と効果音。その3。
あんまり多くのサイトを駆けずり回っても仕方がないので、集めたものの中から、 無理やり(?)音を割り振ってゆく。最悪、合わなければ後で交換。

音量の統一にも慣れないうちは結構手間取る。
ファイル容量がかさむのもイヤなので、サイズも出来るだけ小さく。
絵のときも容量では多少苦心したものの、こっちは自分でなんとでも出来るので 気が楽だったが、音の方は、あり合せの部品を何とか苦心してごまかしごまかし小手先だけの調整。
最初、乗り気でなかった理由のひとつはこれだったのかも。

BGMは、決心がつかないので、予備的に何となくダウンロードしていた曲で決めることに。
こちらも、音量の調節、サイズの切り込みを少し行って、コミカル曲も合わせて 3曲決定。
決まってみれば、「ああ、コレでよかったんだ・・・」と当初のイメージとの整合性に 驚く。

 

≪2007年5月22日≫
背景曲と効果音。その2。
はじめのうちは、「ここがもうちょっと・・・」とか、 「うう、65%くらいは該当するんだけどな・・・」とかばかりだったものの、 なにげに、効果音を順次仮組みのつもりで入れてゆけば入れてゆくほど、そのモヤモヤがウソのように 無くなってきた。

山登りや海での潜水などと同じだ。
慣れてないうちは色々些細な違和感や苦痛を感じるものの、繰り返ししていうるうちに、 「あの時の苦痛や恐怖感はなんだったのだろう?」と後々感じられたりする。

背景曲だけはなかなか決まらないものの、効果音の方はこれで行けそう。
BGMのイメージは、静かなメインテーマと後半の少しシリアスで開戦後の緊張感がある、 繰り返し聞いても苦痛になりにくい2曲・・・。

 

≪2007年5月21日≫
背景曲と効果音。
自分にはどうにも才能がないようなので、曲を当ててくれる方の募集を行ってみたものの、 残念ながらなかなか応募がこない。フリー素材サイトのご紹介はとてもありがたく感謝。

仕方がないので、決められそうな箇所から自分で適当に決めてゆくことに。
まあ、合わなければ、後で変更すればよし。
よさそう、と思った音響素材を片っ端から落としてゆこう。


 

≪2007年5月15日≫
サンテグジュペリ。
ふと、「何でこんなことをしているのだろう?」と思う時がある。
今さっきもまさにそれで、宮崎ゲームに着手したのは、 直接的にはNHKの宮崎特集を観た事であり、間接的には、 悲壮な決意を持って、最後のフライトに飛び立つ老将の健気さ、気高さに 感動したことに他ならない。

まさに、ご本人はサンテグジュペリの心境で、 帰りのガソリンを積まぬまま危険地帯へ旅立ったご気分なのだろう。
・・・たぶん、あのNHKの特集を観たからといって、私と同じ感想を持つ 人はそう多くないとは確かに思うが、幾つかの本音とも取れる 「弱音(いつものブラフではなく似つかわしくない箇所)」の部分や、 ブラッカムでの心境の吐露などを考え合わせれば、後々振り返ってみれば、 「ああ、こういうことであったのか」と胸に落ち着くものであるように思う。

周囲の状況や打たれてきた布石を考えれば、深作欣二的結末が誰に目にも容易に想像できうることで、 そのことも悲しみをいっそう駆り立てる。
ゲーム製作にはやっぱり短くても1〜2ヶ月はかかるもので、 万一があってからでは追悼するには遅すぎる。

私の中で、「何でこんなことをしているのだろう?」の答え、がこれだ。

 

≪2007年5月14日≫
今回のこのソフトのBGMイメージ。
絵を描くときやテストをするときにかけていた、 竹内マリアの「シングルアゲイン」とフォスターの「夢路より」の2曲が イメージソング(?)だ。
”製作過程のイメージソング”と言うのが正確か。

フォスターの方は、曲の著作権は既に切れているので、フリー演奏の 音楽素材を期待してgoogleしてみたのだが、なかなかいいのが見つからない。
100円ショップで買ったCDには良いのが入っていたのでそれに 近いものを捜したのだが難しそうだ。
・・・もとより、音楽に疎い私がフォスターを知ったのも、 この100円CDであったりするのだが。(笑)

 

≪2007年5月13日≫
フリーゲームに乗っけられるフリー曲を聞く。
本当に驚くくらいに該当サイトがある。片っ端から聞いていると、 どういうのがよかったんだか分からなくなる。大混乱。(笑)本当にきびしい。

絵をかけない人が、それでも、描かれた絵の良し悪しはなんとなく分かるのと同じく、 音楽にうとい人が、シーンに乗っけられてはじめて何となく良い悪いの判断(合うあわないの判断)が 出来るのと同じだ。

私には、混乱するばかりの作業のようなので、この方面に得意な「音響担当」の 方を募集して、一括ですべての音を当ててもらった方が100倍よいものが100倍早く出来るような気がする。


 

≪2007年5月11日≫
ようやく、ひとまず、完成〜〜〜。
2ヶ月くらい前まではこんなことをしているとは想像もつかなかった。(笑)
いや、何はともあれ、よかった、よかった。

 

≪2007年5月10日≫
デバッグ大詰め。
Windows98がのってる古いマシンにもインストールしてみた。
おお〜、ちゃんと動くじゃん。スバらしい。

私はゲーム(多くはシミュレーション)をやるときには、思考の邪魔(?)なので、 音楽を消している事が多い。
でも、やっぱりアドベンチャーゲームは、音楽や音響効果が少なからぬ要素であると 感じる。
あんまりこの手のゲームはやらないので、演出的な意味合いとして 頭で理解しているだけだったと気付く。
実際は、”サウンドゲーム”と言っていいほど、音楽の比重が非常に高いのが、 この”アドベンチャーゲーム”というジャンルなのかもしれない。

それは、”思考”ではなく、”感情”で遊ぶゲームジャンルだから、なのだろう。

 

≪2007年5月9日≫
人間の意識はとても不思議だ。
同じものを見ていても、気付く人と気付かない人がいるように、 時間を置いてみてようやく気付くことも多い。

その辺は、以前のゲーム製作でもイヤというほど実感してきたので、 今回はシミュレーションではなく、アドベンチャーゲームだという 大義名分の下、ガチガチにバッサリやったつもりが、 それでもまだ、目に見えていても気付かない穴がいくつも見つかる。

多分、リリースした後もその現象は続くのだろう。
「どこかで小人が悪戯でもしているのではないか?」と思える日々が続くことになるだろうが、 まあ、そういうもんだと、そのたびごとに改めていけば良い。 それ以外に何もない、と納得できるまで、人間の人生は続くのだろう。

 

≪2007年5月8日≫
ケアレスミス。
おそらく、プログラミングをしている人には痛いほどハッキリと意識する要素であり、 プログラミングをしたことの無い人ほど実感が無い言葉だ。

人はだいたい、たまに間違うものの、そんなことはそう多くなくて、 ほとんど正しいと信じて生きている。
他人はよく間違うものの、自分はそんなに間違わないと確信して生きているのが普通だ。
しかも、学校や試験など良い点をとる人ほど自分にミスが多いことを認識しているし、 その逆の人ほど、なぜか間違ったことがないかのように思っていたりする。

プログラミングをやってみてはじめて、誰でも自分にも多くの細かなミスがあることに気付く。
だが、それは「プログラムに未熟だから」とか、「たまたま」とかに問題の本質をすり替えてしまい、 ケアレスミスが常に存在していたことを認識するのにまたしばらくかかる。

ケアレスミスの軽視、 日常ではそれを忘れて、意識せずにいられる「防衛反応」が、 人に健康的な日常をもたらしてくれるのだろう。
些細なウソや忘却機能と同じく、この軽視機能は無意識のうちに設定されている人間の自己防衛手段の一つだ。


 

≪2007年3月30日≫
「宮崎駿ゲーム」その2。
結局は、SLGとしてデザインしていた要素を多分に盛り込んだ、 「シミュレーション風味の簡単なノベルゲーム」に落ち着くことになりそうだ。
せっかく4月なんだし、1ヶ月くらいで完成させ、もう1ヶ月でデバッグ&微調整の気持ちで進もう。
(自分にムチをくれるつもりで↑こんなことを書いてみる。果たしてだいじょぶか?ドキドキ)

絵が似ないのもご愛嬌、水彩彩色も宮崎ゲームならば避けては通れない。
とにかく最大戦速、質より”完成第一主義”!

 

≪2007年3月29日≫
何年も前からの企画だが、「宮崎駿ゲーム」を作ってみよう。
少し前に、軽い気持ちでエロゲでも一本作ってみるかと、 吉里吉里というノベルゲーム作成補助ツールを試していたので、 ちょうどいい。
重くてつらいシミュレーションゲーム製作に再度飛び込む勇気は無いが、 簡単でお気楽なノベルゲームだったら・・・、いやいや、完成するまでは 見くびってはいかん。敵を侮れば勝てる戦も勝ちを逃す。

SLGが数百q数千qの規模でものを考えるのに対し、アドベンチャーゲームは 半径数メートルの個人的体感内でものを考えるのが最も大きな違いだ。
演出も音や微妙な会話のタイミング、もっと本格的には、外の外気や風の匂い等を 演出の心配りでプレーヤーに感じさせる気持ちが必要になってくる。
その本格レベルには遠く及ばなくとも、特に音楽、どうしようか・・・・、う〜む悩ましい。
最悪、なくても・・・。

 

≪2007年3月28日≫
NHK「仕事の流儀 宮崎駿スペシャル」観た。
やはりエネルギーがある人はいつ見ても良いものだ。66歳とは思えない。
自分の限界寿命を見つめて、10年後、20年後のNHKスペシャルのために、 映像素材を提供しているかに見えた。
実にすばらしい。涙なくして若いプロデューサーを叱責するシーンなどは観れない。

犬でも猫でも金魚でも、自分の死期を察したら、みんなそれぞれその準備にとりかかる。
ましてや、世界的な名声を世間からおっかぶせられた巨匠ならばなおさらのこと。「テレビ嫌い」では済まされない。
「崖の上のポニョ」が死界からの迎えとなるか。

そしてNHK!3ヶ月とは言わず、もっと映像を取り捲れ!
万が一みまかった後の追悼番組を組むのには、これだけじゃ全然足らんぞ!!!(涙)


 

≪2006年8月22日≫
ここ半年ほど、岩波等のブッダ関連の本を読むことが多い。
仏教関連ではなく、ブッダ関連。

「六道輪廻」というものがあって、 厳密に言うとブッダ以前の古代宗教の概念らしいが、 それを少し前まで「天国にいってなぜ終わりじゃないの?」 と疑問に思っていた。
今なんとなくこれを、ブッダ的に自分なりに考えてみた。

1:地獄。束縛、囚われの境遇。
2:餓鬼。欠乏、欲望飢餓の境遇。
3:畜生。本能、服従の境遇。
4:修羅。争い、傷つけ合いの境遇。
5:人間。協調、人間関係の境遇。
6:天道。施し、虚栄の境遇。

この6つの道を、生き死にを繰り返しぐるぐる回り続けるというのが「六道輪廻」、 そしてブッダ的には、このループから脱出することが最終目的というわけだ。
ブッダの残した言葉は8割以上、ここから脱出するためのアイデア・テクニックで構成されている。 だがら、仏教は宗教ではなく哲学とよばれることがある。

1〜5まではどういう状況か、おおよそ想像が付くと思うので省略するが、 問題は6番目の「天道」だ。
これもいわゆる「天国」ではなく、苦界の1つだ。
「死ぬまでまさに天国なんだけど、死ぬ間際になると大きな苦しみ(五衰)が...」とかいう ロジックが苦界に仕立て上げるために組まれているが、それは明らかに本質から大きく逸れているのでそういった無理な考え方は私は採らない。
むしろ、「貴族的に恵まれた境遇にありながら、博愛心を起こし善行を施しても、 良い報いも無く、人々をより良くすることも出来ず、表面的にはよさそうに見えても、 砂漠に水を撒いているかのような喪失感・虚栄感に苦しむ。」 という風に考えたい。
ちなみに例えば、「畜生道」をホンモノの動物として観る向きもあるようだが、 すべて普通の人間の形容詞としてみるのが正しい見方だと思う。 それ以外の六道についても同様に、現実に地上で生きている人間の境遇についての例えと考えたい。

実は、6本の道どれもが苦しみの道なのだが、一見、そこに行きたくなるような要素で構成されている。
それによって人々をこのルーチンから逃さない。すなわち、
1→2、囚われているよりも自分の力で必要なものを獲得したい。
2→3、いくら拾っても拾っても満たされないので、本能に従ってゆっくり成り行きでいいかも。
3→4、本能や他人の言い成りになるのばかりでウンザリ。力ずくで自分の居場所を創るぞ。
4→5、傷つけ合うのはもうイヤだ。他人と仲良く助け合い、互いに必要としあって生きていたい。
5→6、もう自分も他人もウザくて人間関係がイヤになった。他人を幸せにすればその時だけは自分と他人の両者が幸せになれるんだよ、これが結論さ、絶対!
6→1、いくら施しをしても何も変わらない。善人にも悪人にも恵みをもたらす 太陽にもやさしい雨にもその意義を頭でわかっても心が耐えられない。 凍った永久凍土に太陽の光を当てても、乾ききった灼熱の砂漠にわずかばかりの雨を降らしたとして 何になるのか・・・。 自分の事については不満はないし、他の人に与えられるだけの多くのものを持ってはいるが、 .....何もしない方がいい。

最後、碇シンジ君的感想になったようだが(笑)、誰もが直感的にイヤだと思うはずの「地獄道」に 進んで入りたくなる人の終末感も分からぬでもない。


 

≪2006年8月21日≫
イスラエル・レバノン局地戦争の停戦。
いくつものゴタゴタがあったものの、(予定どおりに?)終わったようだ。

今回の事件、何となく思うに、アメリカがイスラエルをそそのかし(?)、開戦させたんじゃないかと感じた。
第三国にひとあて当てさせて、主戦の戦力や増援物資の移動を観測し、 次に予定されている本戦のためのシミュレート用データをかなり手に入れたはずだ。
停戦後にイスラエルから遠く離れたレバノン-シリア国境に、空爆だの特殊エリート部隊だの を迂回させたいやらしい活動が興味深い。(遠すぎて停戦に間に合わなかったのか、 わざと停戦後にそこで動いて見せたのか、両方の可能性があると思うが、どちらもおもしろい。)

これで、レバノン支援に動くシリアとイランの武装ルートとその戦力・性能を かなり知ることが出来たと思う。
レバノン難民に多めに支給しているシリアとイランの援助金の動きも、額が大きくなれば 金融のプロ(ヤクザ?)であるイスラエルとアメリカに調べられているのだろう。
金と武器の流れを押さえられると、腰の据わったゲリラ活動は難しくなる。
集めたデータを有効に使うためにも、本戦はそう遠くない時期に予定されていると観るのが 正しい見方なのだろう。

割を食ったのがレバノンとイスラエル、あわてたのがフランス、得をしたのがアメリカと見るのが筋だろうか。


 

≪2006年8月20日≫
小泉首相の、靖国神社参拝。
大方の予想どおり終戦記念日の8/15に参拝したらしい。まあ、公約実行でもある。
マスメディアは相変わらずの一本調子で、参拝反対・靖国反対のスローガンの下、 (産経新聞以外)一致団結して反小泉世論を作り上げようとした。
ところがふたを開けてみれば、小泉首相の明瞭な行動とアナウンスにより、 マスコミの思惑とは正反対に、 参拝賛成・靖国肯定派が少しずつ増えてきているというのは、とても興味深い。

私は以前の隔日日記を含め、「靖国神社」について確か一度も書いた事が無い。
それで言えば、多少の知識の違いこそあれ、いわゆる「戦争や歴史を知らない子供たち」と同方向の視点に立っているのかもしれない。
私自身、確か一度参拝したことがあるだけで、色々知らなければならないことがあるとは思うが、 特別な思い入れが何もない。

今回の工作、一大キャンペーンを張った勢力は色々気付いたことも多かろう。
特に、日本に対し外圧は大きな力を持つが、「”外圧”として利用できるのは、アメリカだけである」という事を。
以前、民主化後のロシア外交部も少しここを踏み外したことがあったが、さすが 謀略・諜報戦に長けている分だけ、方向転換が早かった記憶がある。

しかも、今回の中国は、彼ら自分自身が発した”嘘”に、自分で自分の足元をすくわれた形になっている。
すなわち、「中国共産党が日帝を戦争で負かした」という偽りは、 国内の引き締めと中国共産党の正当化には使えるが、 「日本はアメリカだけに大敗した。中国に戦争で負けたことは無い。」 という意識が根底にある日本国民に対しては、「アメリカ以外からの外圧」として それほど力が無いことを、日本人自身と世界に対し認識させてしまった。
アメリカと同じ態度で日本に圧力をかけ続けても、むしろ問題の過ちを悪い方へ広げ、 中国の国益を損なうだけだ。
(裏を返せば、中国の外圧を利用しようとした(このことを理解していなかった)日本マスコミに、 中国外交部がババをつかまされたような形になっている。(笑))

歴史認識問題も、(日中両国の)教科書問題も、この中国共産党の根源的な保身構造がある限り、 歴史的に正しい形で決着することはありえない事がよくわかる。
中国共産党の一党独裁、言論統制、思想弾圧などが崩壊し、自由化・民主化を始めるまで、 外交力学で今の保留状態を保ち続けるしか手がないだろう。


 

≪2006年8月6日≫
近頃やけにあっちぇー。
梅雨が明けたと思ったら灼熱かー。

ノートPC(compaq)も熱を持ってしまって、それが理由なのか、 AC電源がたまに落ちてバッテリ状態になる。
....だが、実は、早朝の涼しい頃にもちょくちょく落ちることを考えると、 この家か地区の電気事情や配線、電力消費事情(?)が根本的な問題のように思える。

ちなみに他の家電は大丈夫で、ノートPCだけしか切れないので、130Wの ACアダプターやPC本体の問題 の可能性が高いと考えたくもなる。
だが、落ちる時間帯になると温度と無関係に何度つなげ直しても落ちるので、 電力会社に問題があるように思えてしまうのだ。

私は今までに5台のパソコンを買って使用して来た。 この電源問題以外にも、このHPのノートPCだけはやけに故障が多かったので、 もし次のマシンを買うとすれば絶対にcompaqはもうやめようと思っている。
ちなみに買った5台すべて別のメーカーなので、なんとなく、 次はDellあたりにするかもしれない。


 

≪2006年8月5日≫
ふと自転車をこいでいて、道すがら思った。
ある物事に対して、それを尊重するあまり自分を犠牲にする事と、 自分の意見・気持ちに素直に従って逆にその物事を犠牲にする事は、 どちらが良いことなのだろう?、と。

例えば、時計に例えて神の考え方が12時だとすると、 愚者・無知であることが2時、罪人であることが4時、 一般人が6時で、賢者が8時、聖者の考え方が10時に位置するとする。
イエスやブッダ等、神・聖者と呼ばれている方々は、自分の身にほとんど 重きを置かない。
この自分の身(財産でも安全・健康でも)ということで言えば、 一般人の考え方が最もそれら神的な価値観とかけ離れている。
世界にも、歴史にも、混乱を生み出し、見せ掛けの平和しか訪れない大きな理由のひとつが ここにある、と思う。

愚者が神に近く、賢者が一般人に近いことも、問題克服を阻む棘として突き刺さっている。
どうしても、すべての事柄に対して愚者が間違っていて、賢者が正しいと決め付けてしまいがちになる。
だからと言って、もちろん逆向きに戻って愚者になれと言うわけではない。
賢者からさらに一皮むけて聖者になり、諦観・達観に進んでいくより他に道が無い、 と読み解いていくしかないように思える。当たり前なのだが。

この時計イメージは妙に気に入ったので、またネタで使うかもしれない。(笑)


 

≪2006年8月4日≫
旧サイトを閉じてから、そろそろ2ヶ月半が経つ。
観るたびに気分が悪くなるスパムメールの山を、毎日毎日見ないで済むのは なんと軽やかなことか。(^^)
サイトを閉じた理由の約90%はこの問題だった訳だが、 メールアドレス非公開とした事で、 不特定の善良なユーザーさん達との交流のパイプも同時に失ってしまったことに、 近頃ちょっぴり惜しい気持ちも湧くことがある。

この問題を手軽に解決する手段として、 フリーメアドをとっかえひっかえ 公開しては、スパムが来はじめたらそのメアドは閉じて、また新たに別のメアドを作っては公開していく、という方法が安易に思い浮かぶ。
だが、フリーメアドを管理している方々にいらぬ迷惑をかけてしまうので、今ひとつ踏み出すのに躊躇する。

メールでも掲示板でもいいから、責任ある誠実な善意の第三者だけが参加でき (もちろん、批判や意見を言うのが悪いというわけではなく) て、自由闊達に意見交換が出来るシステムが早く出来ることを望む。

ミクシイが興隆を極めているのも、よくわかる。
だが、ミクシイは参加者の相互監視が過度に日本村社会的でありすぎ、 変な気遣いとしがらみで、逆に空気が見せ掛けのおべんちゃらで濁りやすく、 具体的な人間関係でがんじがらめになりやすい。
参加者たちの自律性や幸運に頼りすぎるものではく、 何か他にシステム的に堅実な妙案は無いものか....?


 

≪2006年7月28日≫
梅雨。
やっぱり、今年の梅雨は長引いた。新潟は雨ばかりで、まだ梅雨明けしない。
春先からしてずっと妙に寒かったから、もしやと思えば案の定・・・。
まあ、無風でムシムシジワジワ、暑さに焦がされるよりはマシだと考えることにしよう。

ニュースによれば、アメリカやヨーロッパは40度以上の灼熱地獄で何十人も死者が出ているとか。
確かにワールドカップ時のドイツの熱波を考えれば、この事態も予想通りなのかもしれない。
ブラジルも旱魃でイグアスの滝が干上がり、南半球は冬なのに気温30度とか聞くと、 冗談にもほどがあると思ってしまう。
異常気象は、年々増えこそすれ収まることは無いのだろうか。
この上、人口大国中国・インドの更なる工業化、富裕化による消費大国化が普通に進めば、 今以上の異常気象だけではもちろん済まなくなるのだろう。

異常気象が無くても、食糧危機、エネルギー危機がもう間近に迫っていると言うのに、 天候不順や降水量の大幅な変動・集中化は、更に食糧危機を加速させる。
そして中東の不安定さはエネルギー危機を煽りに煽って、石油価格はずっと青天井のままだ。
こちらのチキンレースも、限度を超えてはじけるまで止まることは無いのだろう。

今世紀を理解するためのキーワードは、「二極化」と「チキンレース」か。


 

≪2006年7月25日≫
イスラエル、レバノンへ進撃開始。
いよいよ、イスラエルが動き始めた。
シャロンやネタニヤフの亡霊(死んではいないか)が、再度蘇える。(何度でも蘇えるさ?)

雑多な考察は長いのでテキトーに省くと、この後の展開としては、
シリア参戦、イラン参戦、アメリカ参戦、イラク参戦、アフガニスタン参戦。

もう一方の発火点の北朝鮮も、それに乗じて軍事行動に出て極東エリアも同時発火。
日本へのミサイル攻撃、着弾、さすがにここまで来ると世界一の平和(ボケ?)国家・日本人といえども 世論が大きく動き出す。無責任なマスコミも手のひらを返さざるを得なくなって、急進的先鋭化が進み、ようやく普通の国に復帰する。
アメリカは中東の泥沼に足をとられ、イスラエル擁護にまたいつまでも無茶を言いすぎて世界の反感を買いつつ、 代償として、極東エリアへの干渉が弱く小さく遅くなる。 そのチャンスを活かし、中国・韓国も幾つかの口実の下に、対日参戦を開始。
各原発・空港でのテロに加え、対馬、沖縄、九州あたりは人海戦術でちょっぴり占領されることになりそうだ。
新潟や島根あたりも普通にヤバい。(北朝鮮の決死隊が新潟上陸、韓国軍が竹島から島根に上陸。尖閣と沖縄には中国軍が。)

一方、中東の戦局激化が、”イスラム総蜂起”を促がし、中央アジア、東南アジア、北アフリカ地区でも紛争発生、 ロシアと欧州の足元にも火が点き、対米ベトナム戦争の再来を期す中露の目算(実は欧州も?)も狂いだす。
ここに来てようやく第三次世界大戦の認識が明確化し、西は地中海ジブラルタル海峡から、東は日本海までが広く戦火の海に溺れる。 ペルシャ湾、マラッカ海峡は封鎖され、石油の流通はストップする。
今は平和な地区で言えば、トルコ、ギリシャ、ブルガリア、イタリア、スペイン、フランス、日本、韓国あたりが思わぬ戦線となりそう。

だが、大局的な視点でいえば、第一次・第二次世界大戦が「大英帝国と欧州列強」の 解体的弱体化を決定付ける意味があったのと同様に、 今回の第三次は、「唯一の超大国アメリカ」の解体的弱体化を決定付けるための意義がある。
その神の視点を考えれば、予想以上に広範囲な消耗戦・長期化になることがうかがわれよう。

先のふたつの大戦が欧州列強の植民地利権争奪に端を発した戦争であったのに比べ、 今回の第三次は途上国、レジスタンスの自暴自棄なテロリズムから端を発しているのも興味深い。
正規戦争には弱い彼らも、中国とロシアがついている上に、いつでも安価に使い捨てに出来る人口が多い(多すぎる)有利さがある。
対する民主主義的平和先進国らは一人の兵士の命の値段が高すぎ+ 反戦国内世論の調整コストが高すぎて、割に合わなくなってくるだろう。
テロ(レジスタンス)VS国家軍事力だけしか世界の均衡が保てるシステムが無いという認識も 徐々に変化してくる。
今次大戦での軍事パラダイムシフトとしては、無人機VS自爆特攻個人ゲリラが中心議題となるのだろう。
片や命を失わないゲーム感覚の戦争、片や自分の命と引き換えの死なばもろとも・・・。
終戦以降は、国家間戦争はほぼ無くなる代わりに、個人対個人、無人機対個人の戦争が定着するのだろう。


 

≪2006年7月24日≫
「デスノート」。
近頃映画化もされ、巷で噂の「デスノート」を読んでみた。
ネットで調べたところ、小畑健氏に親近感を持った。
あの年齢で新潟東高校に通われていたのなら、その辺の小道ですれ違ったり、 本屋さん等で隣で立ち読みとかしていたかもしれん。
初期のガイナックスの時も感じたが、なんか妙に世間が狭いなあ。(笑)
まあ、新潟に漫画家やアニメーターが単に多いだけだと言えば、確かにそのとおりなのだが。


 

≪2006年7月23日≫
こちらではもう、ヒグラシが鳴いている。
夕方、山々と山間に点在する水田の上を、高らかに響き渡るヒグラシの音色は、 幻想的でサイコーだ。

夕方に、唐突に「時が止まった」ように感じるのも、この音色と束の間の無風状態 によるのかもしれない。

たぶん、人に話しかけられなければ、その短い時間が永遠に感じられたまま、 実際に時が止まっていても、気付かないような気がする。


 

≪2006年6月25日≫
ワラビ眼。
先月まで多かった山菜取りの外来者も、だいぶ少なくなってきた。
下生えも生い茂り、ワラビのシーズンも終了と言うところか。 (ワラビは7月・8月でも生えるのだが、他の草がそれ以上の背丈になるので、 よほど山菜や山の縦断に慣れた人でないと採るのは難しくなる。)

ちなみに、他の草が多くなっても、”ワラビ眼”(と私たちが呼ぶ(笑)) 状態になれば、比較的容易に見つけられるようになる。
これはいわゆる、「パターンマッチング」を脊髄反射的に行っている(笑)状態で、 ザザッと一瞥しただけでワラビだけが浮き上がって見える現象を言う。
現場に着いたら、このコンディションに早く持って行く事が大切だ。

ちなみに、アワビ採りの時も、これと同様に”アワビ眼”になることが収量をあげるコツだ。
夏場のアワビはサザエとは逆に、海草に隠れて比較的深場にいるので、これがないと採るのは難しい。
この辺も後期のワラビと同じだ。


 

≪2006年6月24日≫
サッカーワールドカップ、ドイツ大会。
残念ながら、日本はグループリーグに敗退してしまった。
まずは、がんばった選手にお疲れ様と言いたい。

結果は、可もなく不可もなく、概ね予想しうる妥当なところに収まってしまった。
この季節に午後3時だと、ドイツはあんなにも暑い気温になるんだなあ。

トルシエが作った組織力、その組織力を削りつつジーコが作る個人技(のハズだった)。
本当はもっとブラジルサッカー的発展を意図したジーコ就任であったのだろうが、 今回の結果を見る限りは、残念ながらそれ以前の日本人自体に根本的に問題があったことが ハッキリ示された内容だったと思う。
あの日本代表はまったく今の日本人そのものだ。個々の問題点も至らなさも勝負に対する甘えも、驚くほど相似の特徴を示している。
そういう意味では、とてもよい国際スポーツ大会だったと思う。
(念のために、以前にも言ったが、サッカーの弱い日本人は、とてもよい国民だと私は思う。)

次の監督はトルシエ型の監督が就任することになるのだろう。
組織力と個人技は右足と左足のような関係か。


 

≪2006年6月23日≫
日照不足。
新潟地方は曇天が続いている。良くてうす曇りな毎日。
沖縄地方はもう梅雨明けだとか。かなりうらやましい...。

以前にも少し書いたが、子供の頃から東京と新潟を行き来する機会の多かった私の体験から言うと、 海岸線に近い新潟地方と東京の違いは、冬にはあまり多くない。
降雪量も温度も差はほとんど無く、湿度の違い(新潟しっとり、東京カラッと)くらい。
本当の最も大きな違いは、実は、春先から初夏にかけての今の時期なのだ。

関東地方がカラッと晴天な場合なら、新潟地方は全天を薄く雲が覆っている”とりあえず晴れ”。
関東地方が時折り雲が流れるくらいの晴れ間なら、新潟地方はどんよりと全天が厚く雲に覆われる。

新潟以外から来て住んだ事のある人が、こっちを嫌いになる理由のひとつに、 この春先から初夏の曇天があると思われる。 (ちなみに、私もこれが最もイヤな時期だ。関東のピーカン天気が恋しい...。)


 

≪2006年6月22日≫
「愛の反対」について。
なんとは無しに「愛の反対は無関心」とかのフレーズをよく耳にする。
このフレーズを締めに使っている「プラネテス」の時にも思ったが、「それはちょっと違うだろ...」と、いつも思う。

例えて言うなら、「点いている電球」の反対を考えてみれば良い。
それは「消している電球」か「(フィラメント自体が)切れている電球」。
「点いている電球=愛の状態」とすると、「消している電球=憎悪」、 「切れている電球=無関心」に例えられようか。

別の例で言えば、「磁石のS極」の反対は、「磁石のN極」でもあり、 「磁力がなくなっている状態」でもある。
逆から考えても、「無関心」の反対は「愛」に確定かと言えばそうではなく、「愛や憎しみ」というのが 妥当なところだろう。

マザーテレサやプラネテスの田名部のように、愛を主体に行動づけているような 慈善家にとっての「愛の反対」が、「一般の人々の無関心」であって、 それは行動の結果の体験によって導き出された答えだ。
同じように、愛の慈善家ではない一般の人々にとっての「愛の反対」は一般の人々から 与えられる「憎悪」に他ならない。”無視”は無関心ではなく憎悪の類族。
過度に博愛主義でも悪人でもなく、デフォルトが無関心である人にとって、「無関心」の反対は「愛」とは限らない。

マザーテレサの、一般の人々に対する苦言(皮肉)が、我々一般人に正しく伝わっていない好例だ。
宮崎アニメとそのファンである普通の人達との関係と非常に良く似ている。 (苦言(皮肉)を言われている立場の我々が、自分たちに対する非難だと全く認識していない。)

エンターティーメントのドラマ作家が作劇的に「愛の反対」を語るのは無理もないから良いとしても、 それを受け取る我々視聴者が、その特定者のみにしか通用しない定義を自分達に適用して考えるのは間違っている。
この事からも、人々すべてが、すべての悪を自分で実体験し、その核心を実感として認識できるようになるまで、 世界の悪も混乱も収まるはずが無いことが充分想像される。


 

≪2006年5月31日≫
今日で永かったDTIサイトともお別れだ。
1999/03/20からの7年ちょっとの間、過ぎ去ってみればとても短く感じる。
いろいろな事があった。
結果141800件アクセス、良い思い出だ。みなさんありがとう。....感慨深い。

 

≪2006年5月30日≫
今年は冷夏のようだ。日照時間が短く、寒い。農産物の生育に影響が出そう。
今年の夏は、海辺のキャンプ+素潜り漁に行くつもりなので、そちらも今からちょっと心配。
できたら梅雨は短く、灼熱になりすぎない程度に、程よく晴れ間が続いてくれるとうれしい。

先週末、天気が良かったので、久々、峠まで足を伸ばしてみた。
輝くような緑の山並みがとてもきれいだった。遠くまで風で輝いているようだった。
葉緑素のエネルギー固定システムの発明は、仰天動地の進化だったのだろう。
体内にミニ核融合炉(お天気任せだが)を持つに等しいのだから。
圧倒的な緑の広がりは、繁栄の当然の帰結か...。


 

≪2006年5月29日≫
自己の課題。
人にはそれぞれ、乗り越えなければならない、持って産まれた固有の課題がある。

私自身の課題のひとつは、「意見の良し悪しと、発言者の良し悪しは無関係」 という事を肝に銘じることのようだ。
信頼できる人や好意的な人が言ったからといって良い意見とは限らないし、 そうでない人が言ったからといってよくない意見だとは限らない。

言葉にしてみれば非常に当たり前のことなのだが、これがなかなか難しいことだ。
自分が本来知らずとも良い事柄に接してゆかねば判断できない事も多い。
意見一つ一つの真贋良否を自己で考えてゆかねばならない過重負荷もある。
信頼できる人や好意的な人をすぐに信じてやることが出来ないために起こる良心の呵責も苦しい。
だが、残念ながら、やらねばならないことだ。

 

≪2006年5月28日≫
サッカーワールドカップ、ドイツ大会。
私は特別、サッカーファンと言うわけではないが、やっぱりものすごく楽しみだ。(^^)

何となく日本戦の(素人)予想をしてみる。
第1戦(対オーストラリア戦)は、選手力は互角(個人技はオーストラリア、組織力は日本)、ジーコの幸運修正+2と 敵の名将ヒディングの指導力・戦術修正+2で差し引きゼロ、引き分けとなるだろう。

第2戦(対クロアチア戦)は、選手力はクロアチアに分があるものの、ジーコの幸運修正で差し引きゼロにし、 なんとか引き分けに持ち込みたい。イエロー覚悟のディフェンス陣の決死の活躍に期待。
だが、残念ながらいつものようにロスタイムに弱い日本選手に加え、 選手交代に後手後手にまわりやすいジーコ采配により、最後にダメ押しの追加点あたりを許し、 残念ながら敗退するだろう。
初戦ブラジルに敗れて、クロアチアは死に物狂いの決死モードで来るはずなので、さらにキツイ。

第3戦(対ブラジル戦)、まともに戦えば、子供と大人の戦いのようになるだろうが、 幸運な事にこれは第3戦、ブラジルにとっても最終戦である。
オーストラリアとクロアチアに主力選手で確実に勝利したブラジルは、 対日戦を適当に流して捨ててくるはず。(ブラジルは優勝狙いの長丁場、人材運用のペース配分重視)
主力を下げて予備と控え選手をスタメンにしてくるが、それでも日本よりは強い。
だが、予選通過を既に決めた安心感と、ラテンのノリのナメキッタ布陣は、 得点力が無いために、弱い相手にも強い相手にも接戦してしまう日本チームの粘着特性の格好のエジキ。
思わぬほど善戦し、カウンターと粘りで日本が勝利するだろう。
ジーコ修正ももちろん効果的。実は日本にとって第3戦のブラジル戦が一番勝ちやすい戦局となりそうだ。
....比較的に、だが。

結果、上々に巧くいったとして、1勝1敗1引き分けくらいのような気がする。
だが、結局は運だのみ。
相手はいずれも日本選手以上の実力派ぞろい。対する日本は組織力のみ。
いつものようにチャンスをやすやすと逃し、つまらないミスを重ねれば、 当たり前のように3連敗の可能性も非常に高い。
気を引き締めていけ!ガンバレ日本!ファイトだ日本!日本の底力を見せてやれ!!


 

≪2006年5月27日≫
本当は、このまま自然消滅的にサイトを終わらせ、もちろん、日記も これで終わらせるつもりだった。
だが、いざ終わってみると、何かしら物悲しい、物足りない。
気力があって時間があるとき、何か叫びたい時(笑)に、無責任に発言していられる場所が欲しい。

....というわけで、『隔日日記』は終了し、新たに『隠れ隔月日記』を始めるとしよう。(コッソリ)

(「隠れ隔月」なのは、見る人があんまり居なくてもいいなという気持ちと、実際に隔月更新 くらいの気ままさで書き込もうという思いから。)


 

≪2006年5月26日≫
こちらにアクセスカウンタも取り付け、DTI解約、ベクターさんの設定修正も完了した。

 


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