愛は憎しみを貫く

 桜の蕾(つぼみ)がゆるみ始めた。梅はすっかり花が開いた。のどかな農村である。春が近いことを、陽光が最もよく教えた。
「弥太郎(やたろう)、これを持ってけ」
 食事を済ませて出かける後姿に、父親が声をかけた。弥太郎は振り返ると、匕首(あいくち)を渡された。
「えっ、で、ですが」
「ですが何だ。いつ殺されるかもわからぬ」
「ちょっと出かけてくるだけで」
「浪人に斬られでもしたらどうする。持ってけ」
 と、十兵衛(じゅうべえ)は半ば無理矢理に、匕首を弥太郎の腰にさした。
「今どき丸腰で外を出歩くやつがあるか」
 戦国の世であった。度々戦が起こり、時に集落を滅ぼすことさえあった。

 弥太郎は村のはずれに来た。蛙が、無表情のまま近くを飛ぶ蝿を捕えた。愛おしい。春の光はやわらかい。道を白く照らす。静かであった。
 静けさの隙間をぬって、小さな音が近付いた。音は影になり、人になった。弥太郎はそれが遠目にも、篠(しの)だとわかっていた。今日は暑いくらいだ。あの木陰で、ひと休みせぬか、と弥太郎が言うと、篠ははい、とだけ答えた。篠は寡黙であった。だが弥太郎と会うと上気するのは誰でもわかった。
「静かなものだ…」
 風の音を、時折啼鳥が彩った。
「匕首?」
「あ、これか。持てと言われてな。持ちたくなかったのだが」
「心強うござります」
「嘘を申すな。武器など大嫌いなくせに」
 この日も、普段通り過ぎていくはずだった。いささか神妙になって弥太郎は口を開いた。
「村を出ぬか」
 篠は戸惑いを見せた。
「縁組みなど出来ぬ…。だが、篠以外の伴侶は考えられぬのだ」
「ですが…」
篠はうつむいた。

 数年前の戦で、弥太郎の父十兵衛は、篠の父田七(でんしち)の妹、陽(よう)を殺(あや)めていた。寺社同士の争いだった。争いは甚大な被害を出して治まったが、村内には今もわだかまりが残っていた。弥太郎の中村家と篠の生原(はいばら)家は戦で対立し、それが二人を隔てた。だが、二人にとってそんな壁は何でもなかった。
「おとっつぁんは……。中村の家の人間と関わりをもつなと…」
「まさかもう縁組みの話など?」
「はい、おとっつぁんはもう準備を始めているみたい」
 弥太郎は軽く唇をかんでから言った。
「篠は、某(それがし)を恨んでいるか?」
「いえ。弥太郎殿や、中村家の方々には何の恨みもございません。戦は、人を鬼に変えるものです。本当は皆、私や、弥太郎殿と同じ、心優しい人間なのです」
「そうか。では、どうする。某に着いて来るか?」
「……。他の方と、縁組みするくらいなら…」
 篠は小声で呟いて、うつむいた。このまま村にいては、弥太郎は遠くへ離れてしまうような気がした。
「では、今晩迎えに行くぞ」
 二人は別れた。

 日は長くなっていた。傾いた陽は、鮮血を撒いたように赤く、村を染めていた。
「すっかり日が長くなって…」
 母の独り言に弥太郎は生返事をした。落ち着かなかった。
「長徳寺(ちょうとくじ)さんと、向こうの妙遠寺(みょうおんじ)さんの間がまた上手くいってないようだね。戦は嫌だよ。恐ろしくて」
「恐ろしくても、家族全員で寺を守るのだ」
 傍(そば)で聞いていた十兵衛が口を開いた。

「私たち女が望むのは、戦のない世の中だけにござります」
 篠の母は、同じころ田七にそう言っていた。田七はすこしうるさそうにして座っていた。
「戦は陽の敵を討つ好機だと思え。戦が起これば、中村の者どもに復讐できるのだ」
「その戦で陽様は亡くなられたのです」
 田七は黙った。だが、田七の胸の中では、陽を奪った中村家に対する憎しみが煮立っていた。表情は険しくなった。

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