水たまりの太陽
細胞摘出完了。核移植、電気融合。完了。
「よし、子宮へ戻せ」
一見、何も変わったところの無い産婦人科病棟の一室で、未来の母親は目覚める。医師が口を開く。
「もう、あなたのお子さんが、そのお腹の中で育っています。旦那さんの精子を人工授精させました。紛れもなく、あなた方二人のお子さんですよ」
夫婦は抱き合って喜ぶ。そこを、では、と言いながら医師は立ち去る。病室のドアを開けると、廊下が広がっている。大きな病院ではなかった。
助手の一人が声をひそめて切り出す。
「うまくいくでしょうか」
「大丈夫だ。全て成功した。それより、あの夫婦は本当に身寄りがいないのだろうな」
「はい。夫婦ともに両親は他界して独りっ子。奇蹟的です。ところで、出産後は」
「処分だ。細胞提供者の夫も、それを産んだ妻も、生きていると都合が悪い。クローンはいざとなればいつでも処分できるようにしておく」
数人の人間の足音が遠ざかる。
クローン人間は無事誕生した。そして、その両親も無事に処分された。
クローンには便宜上誠という名が付けられた。そして、その病院で助産士をしている鈴森広樹が引き取った。
かくして出来上がった鈴森誠は順調に成長した。母は誠を産んだ後亡くなった、と教えた。クローン人間の宿命として、毎週一回の身体検診がある。幼い誠が検診を好むはずもなく、それがきっかけで誠は人間が嫌いになった。十五年経って、誠は屈折した少年に育った。
数週前まで街を覆っていた暑さは姿を消し、初秋の涼しさが感じられる。早朝、鈴森誠は、二人が住むのには広すぎる家の戸を素っ気なくくぐり、学校へ向かった。父親の広樹は既に職場にいる。
通学路にしている道には、秋の風が吹いていた。誠は独りで歩いていた。風はぬるい。誠にぶつかってちぎれる。誠の周りに知る者はなかった。独り、浮かんでは消える雑念と戯れた。校門に、仰々しく高校の名が記されている。無言でくぐる。
毎日変わらない四十人が箱詰めにされた教室を、誠は嫌っていた。誠は自分以外の人間というものを信頼しない。時計は微かな針音を立てて健気に時刻を示す。七時三十五分。教室に人影はなく、机が乱雑に並んでいた。誠は自分の席に座る。
時計の短針がゆっくりと八時を越えようとしていた。外から人の気配が近づいた。
「おはよ」
この時間に来る人間は決まっていた。誠は軽く返事をした。名前は中西歩と言った。席は離れているが、歩の方から寄ってくる。人間好きなのだ、と誠は思っていた。
「だいぶ涼しくなったね」
「あぁ」
「鈴森君、秋好きそう」
「そうでもないよ」
誠の冷たい返事に歩が悲しそうな顔をした。誠は見ていない。そのかわり、毎日変わらない教室を、あちこち見ていた。歩は口を閉じた。人気(ひとけ)は感じられず、空気がじりりと這う。
歩は落ち着かない様子で切り出した。
「あのさ…。鈴森君、人を好きになったことって、ある?」
「人間は、嫌い」
「そう…。でも、自分だって人間じゃあ…」
「うん。嫌い。いつも自分のためにしか生きていない。他の動物より偉いようなふりをして、下らないことで言い合って、殺し合って…。俺が生きてる意味って、ないんじゃないかって時々思うよ。こんなやつ、嫌だろ?」
歩はしばらく間を置いた。
「ううん。そんなことないよ。…だけど、じゃあ私のことも嫌いなの?」
誠は驚いた。誠は個人として人間を見たことがなかった。人間といえば、面倒な検診をしに来る白衣であり、無意味な争いを続ける指導者たちであり、自分であった。今目の前にいるのは「人間」ではなく、紛れもない、「中西歩」だった。
「えっ…。それは」
二人は人の気配を感じて口をつぐんだ。時計はいつの間にか、重そうに長針を下げかけている。この時間になると、教室は人で満ち始める。
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