水たまりの太陽

 今日は検診の日だった。帰ると、既に父親は家に居て、病院まで送っていく支度をしていた。広樹の表情は普段に比べて明らかに暗かったが、最近父親をまともに見たことのない誠は気付かない。しかし、広樹は誠の表情の明るいのに気付いた。敢えて何も言わなかった。歩のことは知らない。
 昼間、病院でこんなことがあった。広樹は院長室に呼ばれていた。
「検診のおかげで、あのクローンの体は健康そのものだよ」
 院長がおもむろに口を開く。
「ここで一つ提案なのだが……。あのクローンの臓器を保存したい。君のお陰で臓器は大人並に育ったからな。今日の検診であれを、まあ言ってみれば植物人間にする」
「植物人間に…」
「実用化するには誕生してすぐクローニングするんだが、まだ実験だからな。遺伝子操作で眠らせてどうなるか試したい」
 広樹の言葉は喉元で絡まった。院長の言う「クローン」は、もう誰のクローンでもない、広樹にとっては「鈴森誠」だった。
 クローンのドナーが実現すれば、拒否反応のない完璧な臓器がいつでも手に入る。広樹の医師としての心がそれを歓迎した。だが人間はあるものが無尽蔵にあれば、粗末に扱うようになる。

 そんなことが、道中思い出された。広樹はミラー越しに誠を見た。
「お前、田舎の川に落ちたの覚えてるか?」
 それは、この親子の唯一と言える思い出だった。誠は覚えていた。
「確か七歳ぐらいかなぁ。あの時は焦ったよ。大して深くもない川なのにな。…今となっては懐かしいな」
「なんだよ、今さら」
 誠はクスと笑った。
 広樹はさらに思い出す。「クローン」と「誠」が同義でなくなったのはあの頃からかもしれない。あの時川に落としたのは大事な実験道具ではなく、何物にも代えられぬ、重い命であった。
 自動車は非情に病院の門をくぐった。いつの間にか雨が降って来ていた。それは冷たい音を立ててコンクリートに弾けた。

「今日はちょっと込み入った検査だから、…麻酔打つぞ」
「どっか悪いの?」
「そうかもな」
 広樹は誠に念を押したようだった。しかし、それは確実に自分の為でもあった。誠が訊く。
「入院するの?」
「もしかしたらな」
「…メール、打てる?」
「…えっ…。携帯は、外か屋上でな」
 何度も観た映画の主人公は、何も知らず結末へと向かう。それが悲劇的結末ならば、観る者はもどかしさに嘖(さいな)まれる。銀幕の中の役者はいつも変わらず、結末へと邁進する。
 二人はいつもの検査室に着いた。誠の命は院長が握った。視界が消え、意識が飛ぶ。
「…よし、臓器に異常はないな。では、遺伝子操作で脳死状態を作りだそう。世紀の実験だぞ…」
 手術は長時間続いた。手術室の外で、成功を祈る者はいない。雨は一層激しさを増した。窓から漏れる蛍光灯の明かりに、雨が闇を背にして輝いた。その一滴は、ほんの一瞬きらめいて、一直線に地を目指す。

 手術は失敗した。
「あのクローンは成長しすぎていた。もっと幼体のクローンで実験してみないとな…。あそこまでうまく行った例は珍しかっただけに、惜しい」
「あの…生死については」
 広樹は思わず訊いた。
「もう使い物にならないのだよ。明日、処分する」
 広樹は周囲に気付かれないように肩を落とした。院長のこの言葉に違和感を感じるものは、他にいないようだ。

 歩はメールを待ちわびた。

 翌朝はすっかり晴れた。昨日の雨は好天と水たまりを残して去っていった。穏やかな秋晴れに、冬の香が交ざる。
 水たまりには、斜に差し込む太陽が映っている。歩はそれを踏んだ。太陽は静かに、儚く散った。靴が濡れた。

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