京阪電車とその歴史
History of Keihan Rwy.



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 明治30年代当時、京阪間には淀川西岸に鉄道省の路線(現・JR東海道本線)が運行されており、高槻や茨木などの町から利用することができました。
 しかし、淀川東岸には鉄道が走っておらず、対岸の東海道本線を利用しようにも淀川にはばまれて無理でした。

 ひらかたし 枚方市
 大阪府の北東部、大阪市の衛星都市。人口約40万人。
 江戸時代には、淀川の河港、京街道の宿場町として栄えた。明治になって寂れたが、明治末に京阪電車が開通してからは大阪の住宅衛星都市として発展した。現在は香里の大団地もある。産業では機械・金属などの産業が興り、中小企業団地もできている。菊人形で知られる“ひらかたパーク”がある。
 くらわんか船
「さあさあ、飯喰らわんか、酒喰らわんか。なんじゃ、銭がのうてよう喰らわんか」と、威勢のよい掛け声で淀川を行き交う船に物を売りつけていた船をそう呼んだ。
 明治30年代も半ばを過ぎようとしている頃、大阪と神戸を結ぶ阪神電気鉄道が大当たりしたのを受け、大阪と東京の双方で京阪間に私鉄を建設する構想が持ち上がりました。
 両計画は鉄道のない淀川東岸に鉄道を敷設する点で一致していたので、両計画を統合して京阪電気鉄道株式会社としました。
 発起人の中には明治期の大実業家、渋沢栄一男爵もいました。彼の存在とその尽力により、政府との各種申請を有利に進めることができました。
 こうして淀川西岸に続き、淀川東岸に京阪間2本目の鉄道が完成しました。

 しぶさわえいいち 渋沢栄一 (1840-1931)
 明治・大正時代の大実業家。一時江戸幕府に仕えたが渡欧し、帰国後は大蔵省に勤めた。その後実業界に入り、多くの銀行や会社を設立あるいは経営をたすけ、産業の発展に貢献した。晩年は教育や社会事業に貢献した。
 渋沢栄一の予言
 昭和の大恐慌が起こる前にそれを予測していたといわれる。関東大震災直後の東京市街を見て「いずれ日本の経済もこのように破綻を迎えるときが来る」と呟いたというエピソードがある。
 明治43(1910)年に天満橋−五条間が開通し、4月1日には開業の予定でした。ところが守口変電所の故障などで開業が2週間延期され、さらに4月15日の開業日にも車両故障が発生し、始発電車から立ち往生してしまいました。
 京阪間を100分で結ぶ予定が、新聞に「京阪間五時間、のろいことはなはだしい」とまで書かれるありさまとなってしまいました。そのため、開業から3日間(〜4/17)は運賃を半額にして人気を挽回せざるを得ませんでした。
 それが功を奏し、各駅には早朝から乗客が詰めかけました。天満橋駅では乗車券も買えないほどでした。


 花見どきにあわせるはずが……
 守口変電所の変圧器の故障は、係員の不注意によるものであった。その後4月11日に試運転を始めた途端に八幡で土砂崩れが発生する。翌12日、13日には衝突や脱線を引き起こし、慣熟期間のないまま4月15日の開業を迎える。その結果が新聞に書かれた「京阪間五時間、のろいことはなはだしい」であった。

 「一番よい鉄道を一番早く開業する」と意気込んだ箕面有馬電気軌道(現・阪急宝塚線)も、当初4月1日の予定であった開業日を3月10日に繰り上げた結果、開業後の8日間で「電車の衝突二件、三名を殺し数名を傷けたるが如き甚だ感心出来ず」と新聞に書かれてしまうありさまだった。
 安定して走れるようになってからはスピードアップを重ね、大正3(1914)年には所要時間60分の急行の運転を開始しました(各駅停車は80分)。大正4(1915)年には五条−三条間を開通するとともに、日本で初めての自動閉塞信号機を導入しました。当初、急行は他の列車がなくなる午前1時(!)ごろに運行されたのみでしたが、自動閉塞信号機の導入とともにラッシュ時の運行も開始されました。
 このころ、京都進出を目指す阪神電鉄との合併話が持ち上がり、大正6(1917)年には仮調印を交わすところまで進みました。阪神社内の反発などもあり立ち消えとなりましたが、その後も京阪・阪神連絡線などの計画が持ち上がっています。

 『京阪神』タイガース
 京阪は関西大手私鉄の中では唯一、球団を所有したことがない。この合併話がもし実現していれば、“京阪神電鉄株式会社”として“京阪神タイガース”を所有することになっていたかもしれない。
 ところが、とある本には裏話として『阪神タイガースへの出資を冗談半分で考えている京阪の重役がいる』というエピソードが紹介されている。タイガースへの出資は、全国的な知名度の低さがいわれている京阪には知名度のアップにつながるであろうし、タイガースにとっても悪い話ではないはずである。
 ただし、阪神タイガースのバラ売りをたくらんだ村上ファンドは世間からそっぽを向かれ、阪神との経営統合前に阪神タイガースのコンテンツ管理部門への移管を提案した阪急は、阪神電鉄の激しい抵抗に遭った。ソロバンも大事ですがロマンも大切に。
 2度実現しなかった『京阪神電車』
 それから90年の月日が流れ……
 平成18(2006)年9月頃、村上ファンドが阪神電気鉄道の株式を大量に取得していたことが明らかとなり、年末には、阪神側から京阪に対して村上ファンドが保有する阪神電鉄株の買取が要請された。
 以前から京阪と阪神は業務提携(事業の統合、株式の持ち合いの増加など)についての会合を持っていた仲であり、村上ファンドも阪神の統合先は京阪との思惑があったとされる(阪神の鉄道網を近鉄が買収し、不動産は阪急が買収するというまるでバラバラ事件のような構想も検討されていた=2006.9.26頃の読売新聞)。
 ホワイトナイトとしての役割を期待された京阪だったが、阪神株の買収価格について合意に到らず、最終的に阪神は阪急との経営統合に到った(阪神が京阪との交渉を打ち切って阪急と交渉を始める意思を示した時点では、京阪はまだ交渉中という認識を持っており、京阪が買収そのものを断ったことはない=読売新聞2006.6.17)。
 この頃の京阪は事業拡大を進めるため、琵琶湖・和歌山への進出を狙っていました。
 大正8(1919)年には阪和電気鉄道(現JR阪和線)の設立に参加しました。
 また、大正11(1922)年には経営難の和歌山水力電気を買収して京阪電鉄和歌山支店とし、和歌山市内の路面電車及び和歌山県への電力供給事業を開始しました(現在のように電力会社が地域をほぼ独占して電力供給を行う体制は戦時中に構築されたもので、戦前は大小様々な電力会社が存在しました)。

 阪和電鉄
 現・JR阪和線。南海鉄道に続き大阪−和歌山市間を結ぶことを目的とした鉄道。南海とは阪神・阪急のごとき激しい争いを演じたが、国策により南海鉄道と合併。その後国鉄に買収された。
 その路線は後述の新京阪鉄道を凌ぐ高規格で建設され、そこを走る列車は当時日本一の表定速度(77km/h)を誇った。このように華々しく活躍しつつもわずか15年で消滅してしまったこの鉄道会社を思うファンは多い(らしい)。
 大正14(1925)年には京津電気軌道を合併し、京津線としました。
 昭和9(1934)には京阪本線と京津線の間に連絡線を設け、これを利用した天満橋−三条−浜大津直行の60形『びわこ』号が運行されました。京阪本線を他の列車並に走り、京津線の急カーブをうまく通過する必要があるため『びわこ』号は日本初の連接車として作られました。

 60形『びわこ』号
 
日本初の連接車『びわこ』号

 京阪本線と京津線を直通するため、集電ポールとパンタグラフを別々に備えている。また、扉も京阪線の高床ホーム用と京津線の路面ホーム用の二種類を備えている。流線型に明るい塗装のデザインも人の目を引いた。天満橋−大津を72分で走った。

 ひらかたパークに静態保存されている。

 ところで、現在の特急の天満橋−三条の所要時間が42分、在りし日の京津線準急の京津三条−浜大津の所要時間が24分である。合計66分で、びわこ号と6分しか違わない。乗換えの手間と時間を考えると、どう考えてもびわこ号の方が圧倒的に有利だ。
 ただし、びわこ号の当時には併用軌道で交通渋滞に巻き込まれることなど無かったはずであることは差し引かねばなるまい。

 交通渋滞の話をもうひとつ。昔の京津線では山科に待避線があり(いわば路面電車なのに)、普通が準急を退避したうえ緩急接続も行っていた(いわば路面電車なのに)。これは併用軌道の交通渋滞が激しくなり、普通と準急の速度差がなくなるとともに廃止された。
 さらに昭和4(1929)年には琵琶湖鉄道汽船を買収しました。琵琶湖鉄道汽船は琵琶湖観光事業を推し進める京阪への対抗措置として大津電車軌道・琵琶湖汽船などが合併した会社でした。大津電車軌道の部分は現在の石山坂本線となっています。
 なお、この頃に京阪・大阪電気軌道(現近鉄)などが出資して奈良電鉄(現近鉄京都線)が設立されています。

 昭和3(1928)年、京阪は淀川西岸に新京阪線を建設しました(詳細は京阪電車と阪急京都線にて)。
 200馬力の強力モータ4台を誇った全鋼製車両や重レール(50kg/m)を使った線路は、当時日本一といわれました。
 京阪間直通輸送を新線に任せ、特急をなくした京阪本線では急行が特急を退避する必要もなくなり、京阪間都市間の輸送力向上に貢献しました。

 昭和4(1929)年に、京阪は新京阪線の西向日駅から宇治線黄檗付近、大津、草津、八日市、永源寺を通り鈴鹿をトンネルで通過、熱田まで至る名古屋への路線免許を取得しました。大津−熱田間は子会社の名古屋急行電鉄に建設させ、名阪間を2時間で結ぶ予定でした。
 しかし、これは昭和の大恐慌によって挫折してしまいます。
 今も広い阪急西向日駅は、京阪が名古屋新線によって大規模な旅客・貨物輸送を行おうとした名残なのです。

 この頃の京阪は、和歌山水力電気や京津電気軌道を買収して、4府県に勢力圏を持つ屈指の有力会社となっていました。
 超一流の設備で東海道本線との競争に打ち勝とうとした新京阪の建設にあたっては、親会社の京阪も増資を行ない、公称7,500万円という当時の在阪各私鉄で最大の資本金を持つ会社となりました。また、株式配当も他社並みの10%〜11%を堅持していました。
 しかし、新京阪の建設や京阪線の改良に1億円を越える借入金を抱えることになったところへ襲ってきた不況のため、余りに手を広げすぎた京阪の拡張政策はつまずいてしまいました。昭和5(1930)年には和歌山支店を電力会社の合同電気に売却しました。当時の社長・太田光煕は人員整理や株式配当の減配、さらには無配にして京阪の再建につとめました。その結果、昭和11(1936)年にはようやく苦境を脱することができました。

 当時、蒲生(現在の京橋に当たる)−守口間は現在のように一直線の高架ではありませんでした。“野江の七曲がり”と呼ばれるほどカーブが多く、そのうえ蒲生−森小路間には併用軌道(路面区間)すら存在しました。
 京阪は新京阪線の建設で極貧状態であったにもかかわらず、安全性向上および輸送力向上のため昭和8(1933)年にはこの区間の直線化・高架複々線化を行ないました。今でも他の鉄道が朝ラッシュ時に低速運転を余儀なくされているにもかかわらず、京阪の複々線区間では通過列車がそれなりの速さで走っています。

 おおたみつひろ 太田光煕
 当初は帝国鉄道庁運輸部庶務課長であった。京阪設立時、官鉄から人が欲しい京阪が太田のところへ相談に行った際、それではと太田本人が京阪に入ることになった。さっそく用地買収などを担当し、社長就任後はひたすら京阪の拡大に努めた。拡大が世界恐慌で破綻してからは再建に努め、1936年には再建の目処をつけたとして社長を退いた。
 新京阪鉄道の設立とその贅沢な設計は、これさえ作らなければ京阪本線の高規格化が出来たのに、あるいは阪神連絡線が作れたのに、名古屋急行線が作れたのに、と様々な意見を呼ぶが、新京阪鉄道の高速性が日本の高速電車の発達に与えた影響は無視できない。
 昭和13(1938)年、戦時体制に入っていた政府は国家総動員法を制定し、付随するかたちで陸上交通事業調整法が公布されました。交通統制の効率化のために私鉄・バス会社の統合を推進するための法律で、近鉄・西鉄などの巨大私鉄がこの法律により誕生しました。
 我が道を行くという性格の強い関西大手私鉄は、いずれも他社との合併に消極的でした。このため政府は京阪と阪神急行(現阪急)を合併させることにしました。

社 達
社達第一號
  昭和十八年十月一日
社 長
   合併ニ付社名變更ノ件

阪~急行電鐵株式會社ハ昭和拾八年拾月壹日ヲ以テ京阪電氣鐵道株式會社ヲ合併シ社名ヲ京阪~急行電鐵株式會社ト變更ス
追テ京阪電氣鐵道株式會社ノ社員ハ別段ノ辞令ナキ限リ引續キ京阪~急行電鐵株式會社ニ勤務を命セラレタルモノト心得ヘシ
(当時の社達)

 昭和18(1943)年には、京阪神急行電鉄株式会社が発足しました。
 書類上の存続会社は阪神急行でした。

 トリプル佐藤
 合併調印を行ったのは京阪側が佐藤一男専務、阪急側が佐藤博夫社長、立会人の鉄道省管理局長は佐藤栄作(のちの総理大臣)であった。
 京阪神『急行』電鉄
合併後の新会社の名称について、京阪側は『京阪神電鉄』を主張したが、阪神急行側は『急行』の文字を入れるとして、一歩も譲らなかった。この頃すでに合併後の不幸は始まっていたのかもしれない。
 戦後の復興の際、京阪神急行は国鉄と競合する新京阪線・神戸線・宝塚線に重点的に資材を配分しました。それに対し、資材の供給を受けられない旧京阪線では、必要な補修もままならない状態でした。その結果、旧京阪関係路線は京阪神急行から独立することとなりました。ところが、このとき新京阪系の路線は京阪神急行に残ることになってしまいました。新京阪線が旧阪急の梅田まで乗り入れていたことと、京阪神急行の役員の過半数が旧阪神急行系だったことが悪因でした。
 こうして、難産だった京阪の子供は、新しい京阪の強力なライバルと化したのです。

謹  告

今般京阪神急行電鉄株式会社の路線中 京阪線大津線を分離して京阪電氣鉄道株式会社を設立し十二月一日より新発足致します 従いまして営業路線は左の如く相成ります
京阪神急行電鉄株式会社(略称 阪急電車)
神戸線(大阪梅田―神戸)伊丹線 今津線 甲陽線
宝塚線(大阪梅田―宝塚)箕面線
京都線(梅田・天六―京都四条大宮)嵐山線 千里山線
京阪電氣鉄道株式会社(略称 京阪電車)
京阪線(大阪天満橋―京都三条)宇治線 交野線
京津線(京都三条―浜大津)
石山坂本線(石山寺―坂本)
御乗客各位
京阪神急行電鉄株式会社(阪急電車)
京阪電氣鉄道株式会社(京阪電車)
(当時の広告)

 京阪電気鉄道株式会社は、昭和24(1949)年に資産のほとんどない状態で再出発しました。

 箕面有馬電気軌道、阪神急行、京阪神急行、そして阪急
 京阪神急行が社名を“阪急電鉄”に変更したのは昭和48(1973)年のことである。
 村岡四郎の“京阪イズム”
 合併前の(旧)京阪取締役。京阪神急行からの分離時には副社長に就任していた。
「六年ばかり一緒にいて阪急イズムのいい点もわかったが、あの通りにはやれない。程度を落とすという意味ではないが、実用向きの経営をやっていく。それにはやはり旧京阪出身者は出身者だけが集まってやっていく方が、何かにつけてやりがいがあるというものだ」
 この頃、前述の奈良電鉄との相互直通が始まり、京阪は奈良電鉄の京都まで、奈良電鉄は京阪の三条まで互いに乗り入れるようになりました。その後、京阪と近鉄で奈良電鉄を目当てに綱引き合戦が行われましたが、最終的には近鉄が奈良電鉄の支配権を掌握し、合併に持ち込みました。

 新京阪線を失ったため、京阪は独自の特急を走らせざるを得なくなりました。昭和29(1954)年には、沿線にある松下電器の支援を受けて特急車内にテレビを設置しました。当時、まだテレビは庶民にとっては高嶺の花であり、人々は街頭に設置されたテレビを楽しみ、子どもたちは近所のテレビがある家にお邪魔していた時代です。
 昭和38(1963)年には、天満橋−淀屋橋間が開通しました。これにより、京阪は商都・大阪の心臓を押さえることができました。さらに昭和47(1972)年には土居−寝屋川信号所間の高架複々線化工事を開始し、8年間かけて完成しました。こうして、私鉄最長の12kmに及ぶ立体複々線区間が誕生しました(1997年まで。それ以降は東武伊勢崎線の17.3kmが最長)。この工事では戦前の工事とは違い、カーブの直線化は行われませんでした。

 5000系モラトリアム
 1970年ごろ、京阪線の朝ラッシュは飽和状態にあった。当時は大阪方面からの複々線が守口市止まりになっていて増発は困難、1編成の車両数を増やそうにも架線電圧が600V(当時)のままでは7両編成が最大であった。既に複々線の延長が決定していたのだが、複々線の完成を待つことはしなかった。乗降時間の短縮によって増発を図るため、ラッシュ用扉を片面あたり二つ装備した5扉車、5000系が作られた。
 現在では他社でも多扉車が走っているが、5000系誕生当時は『ラッシュ時に扉を閉めるための時間が増す』『押し屋の数が増える』などの声があったらしい。

京阪5000系
▲白い扉がラッシュ用扉

 なお、閑散時のラッシュ用扉部分には座席があり、ラッシュ時には車庫など乗客のいない所で座席を扉上部に収納する。
 平成元(1989)年には出町柳−三条間の地価線が完成しました。叡山電鉄線内に乗り入れる計画もありましたが、実現には至りませんでした。

 大阪市営地下鉄の誘い
 大阪市営地下鉄中央線建設の際、京阪は大和田−森ノ宮間10.8kmに新線を建設し、近鉄とともに中央線に乗り入れる計画が持ち上がっていた。しかし中央線は建設費低減のため、トンネルの断面を少なくできる第3軌条方式で建設されることとなった。そこに乗り入れるには専用の車輌を作らねばならない。おりしも淀屋橋延長線が開通したこともあり、地下鉄中央線への乗り入れ話は立ち消えになってしまった。
 1997年10月に京都市営地下鉄東西線が開通しました。これにより、区間の重複する京津線の京津三条−御陵間は廃止され、京津線電車は地下鉄に乗り入れることで京阪本線との接続を果たします。この区間に多い併用軌道(路面電車)が地下鉄道に変わり、安全性や定時運行性(混雑時には渋滞のために定時運行もままならなかった)が大幅に向上しました。

 地下鉄乗り入れ用車輌 800系  
京阪800系
 80形などの旧京津線電車は1両が15m、2両で30mと、連結機構を有する車両として道路上を走行できるぎりぎりの長さで運行されていた。京津線の京都市内の路面区間は京都市地下鉄東西線への置き換えのため消滅したが、路面区間としてはまだ大津市内の800mが残っている。800系は16mの車両が4両編成を組むため、これの路面区間の走行には特認が必要となった。
 京津線部分廃止前夜
 今では京津線の京津三条−御陵間が廃止され、桜に囲まれて走る京津線電車をもう見ることは出来ない。もうすぐ廃止となる頃、主婦が写ルンですを手に80形電車を撮っていた。電車なんか撮って面白いのという子供に『生まれてからずっと、お世話になってきた電車だから』と語っていたのが印象的だった。

京阪80形
▲廃車された80形
 平成20(2008)年に開業した中之島線は、京阪本線の天満橋駅から西に延伸する地下新線です。運輸政策審議会答申では平成17(2005)年までに整備に着手すべきとされていました。
 なお、中之島線を完成と同時に本線とし、天満橋−淀屋橋間を支線扱いとする構想もあったようです。

 京阪の新たな拡張政策?
 大阪市営地下鉄の民営化、あるいは指定管理者制度による管理・運営の代行が実現した場合、京阪がその運営に名乗りを上げることが考えられる。

 2006.9.26頃の読売新聞では、次のような内容が語られている。
  • ある私鉄の首脳「うちに任せてくれたら千日前線や中央線などの不採算路線も黒字にしてみせる」
  • 京阪・佐藤社長「(民営化すれば)地下鉄経営の効率がぐっと上がる」
  • 地下鉄網を取り込んで阪急阪神HDに対抗するという思惑が現実味を帯びる
もっと直接的に「京阪が地下鉄の経営にやる気満々」という記事も見た気がするんですが、ソースを忘れましたorz

 ただし、大阪市営地下鉄はここ数年黒字経営が続いており、前述の中央線も黒字転換しているほか、累積欠損も解消している。

 また、近年では海外進出にも乗り出しており、中国での不動産開発事業のほか、ベトナムでの鉄道事業の準備調査に名乗りを上げ(京阪・海外鉄道技術協力協会・野村総研の共同提案)、仮採択されている。
この鉄道事業が実現した場合、京阪がその運営を受託できる可能性が高いとされる。
 ただし、この海外進出には、京阪の輸送人員の激しい落ち込みという止むに止まれぬ事情がある。
(参考:MSN産経ニュース 京阪電鉄がアジア戦略加速)


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