97 07 11

   4等価性について

 物の等価性が成り立たないこと----が証明されれば多少は生きやすく、住み良くなるのかもしれない。

 等価性が多分に人為的で、したがって作られたものであることは物の交換の体系をみれば明らかだろう。例えば自給700円の仕事二時間と『できるWindows95改訂版』という出版物が質的に同等である筈はなく、そのように決められているから互いの等価物になっているに過ぎない。ここではその交換レートが妥当かどうかを見定めようとしているのではない。異質なものどうしはどこまでも異質なままである、ということの確認である(一般等価物[貨幣]が中間項・媒体として登場するのだが、この貨幣ほどその本質を言い当てるのに困難を極めるものはない)。

 1+1=2 の「1+1」と「2」は見た目にも別物であろう。二進法では勿論成り立たない。イコールとは不変的な等価を現わしたものではなく、決まりとして定めたものに過ぎない。(1と0に比べて2以上の数値は格段の抽象でありその存在すら疑わしいと思う)

 等価性は近代社会の物の交換の必要から始まり、平等な人間という概念の誕生、理性という共通の尺度(同一性)などと組み合わされて(それらは同じ原理)世界を席捲していったというのが真相(民主主義社会)なのだが、市場経済の発展の基礎・枠組みもそこにあった。

 さて等価性の、一対一対応関係の見事な見本としての《問題》と《答え・解答》の正当性も単なる恣意に過ぎないのではないか?というのが今回の私のテーマである。知識の等価性、試験やテスト結果の意味は本当に存在するといえるのかどうか……。

 偏差値とはここで探求している<差異><異質性>ではない。正確には同一性に裏打ちされた<種差>である。問題はそこにあり、学生あるいは受験生という<>に対する偏差は、同一性という枠組みの中にあり、<種差><>がなければ成り立たない。種差の本質はむしろそちら方にあり、偏差値とはその前提である同一性、学生の均一化や等質化への隠された目的を実現するための方法であることを忘れてはならないだろう。(以上はジル・ドゥルーズの『差異と反復』河出書房新社、ミッシェル・フーコーの『言葉と物』新潮社に詳しい)

 学生が自身の偏差値を気にするのは致し方ないことかもしれないが、第三者は同一化の運動というその裏側を観てゆくべきである。

 偏差値は学生を選別するのが主たる目的ではない。繰り返すが学生たちを同一化・均等化へと追い込む為の隠された運動である。一枚の紙の表は偏差値によって階層化・分類化された氏名の一覧表が見られるだろうが、裏を返せば白紙の均一な一枚の紙があるだけである。

 差異哲学では学生をどう捉えるのだろうか。学生・大人・社会人あるいは子供という区別は取らず、そのような差ではなく、むしろ<差異>を生み出し続けるという意味で多様体として人を観る。人=多様体。一と多が矛盾しない世界。<一即多><多即一>は仏教用語でもある分けだが、差異(質)は一の分化したものとして生成するのだと考えられている。

 教室においては『みだれ髪』の作者イコール与謝野晶子を正解とするだろうが、その逆は成り立たないことにも目を向ける必要がある(イコールとは一方通行である)。与謝野晶子は『みだれ髪』の作者だけであった分けはない。数式でも「1007030」で正解になるが305020でも表現される。藤谷美和子のCF100円でカルビーのポテトチップスは買えるけど、カルビーのホテトチップスで100円は買えません」という名言。柄谷行人はそのことを「売る−買う。教える−学ぶ」に適応して『探求T』を書いたことを思い出す……。


   5人情について、あるいは学歴と実力

 学歴社会はこれから崩れてゆくという考えをしめす識者が多い。そうかもしれないがだからと言って受験競争が無くなる分けではないだろう。実力社会が来るからこそせめて学歴でも付けていないと……と考えるのが大方の親の本音なのではないだろうか。

 例えば棟梁のところで記述した実力の社会を詳しく見てみると、就職の状況としては広き門である。アメリカの大学と同じように入るのはやさしい。成績不良でも門前払いされる事はない。しかし一人前になれるかどうかは、修行してみないことには分からない。頭の良さと正比例する分けでもない。

  <人情>とは何か。一人前に成れなかった者の生きる術として生まれ出てきたのではないか、というのが私の説である。下町の人情を理想論として言う人も多いのであるが、その発生はあくまで生活の基盤からその必要性から出たのだと思う。人間の崇高な理想像があってその実践として下町社会が形成されたなどと想像すること自体がノスタルジーに過ぎないだろう。義理人情が崩れたのは地価の高騰と過度の学歴尊重であるのは間違いなくそのことに異論はない。しかし義理人情は哲学のテーマとして生まれたのではなく、庶民の生きる知恵として発生したのである。

 職人としての腕は落ちるけど人はいい、だから景気が好くて余裕があるうちは雇っておこう。「釣りバカ日誌」の浜ちゃんがその典型であるが会社が傾けば、あるいは景気が低迷すればリストラの対象となる運命にある。今のところ浜ちゃんは安泰のようである。仕事より人柄で雇われている。学歴社会でも学歴を目安に雇った者は使えなくても高成長時代は置いて置けた、それが終身雇用の制度だったが、成長が低迷し景気が悪くなり余裕が無くなるとリストラという言葉を武器に切ってゆくという状況がつづいている。

 仕事が出来ず人柄もダメという人間の行き着くところは極道だった。取り柄のない人間を拾ってやる、つまり相手にしてくれるということ自体は「弱きを助ける……」という任侠道に外れてはいないと思う。その後が問題なのであるが……。

 私の予感では社会全体が実力の世界に移行してゆくとしても一度崩れた義理人情の復活は無いと思う。学歴が崩れても未来は決して明るくないだろう。庶民の知恵としての<義理・人情>以外の哲学が生まれるのかどうか、私には分からない。差異哲学は一般論としての哲学(同一性・理性の哲学)は展開しないだろうから個々人が自らの倫理・道徳を作るしかないという立場である、故に責任は重いのである。

 学歴社会と先に書いたが、実社会が学歴で動いている筈はなくやはりその中の実力者によって企業も社会も牽引されている。ではどこに純粋な学歴社会が在るのかと言えばそれは間違いなく学校の内部であろう。学校こそが学歴社会そのもの(モデル)である。一般社会が学歴で成り立っているから学校は学歴を付ける為にあるべきだ--というのは詭弁であって、学歴社会の典型は学校の中あり、学校こそが学歴社会を必要としている。

 つまり学歴社会という幻想が必要だったのは学校自体だったのだ。学校そのものの存在理由はとうに失われていたのである。学校は情報化社会にあってその存在理由をことごとく奪われている。独占している知識などない。瓦解の寸前まで来てしまっている。それ故に親に学歴という求心力を与え続けねばならず、子供を駆り立ててその矛盾を隠蔽しつづけているという構図が浮かぶのである。

 偏差値に戻るがセンター試験で何人満点を取ったとしても学問としては何事でもない。つまり答えのある問題を解いて満点を取ったとしても学問の進歩に寄与することは何もありはしない。答えの出ていない問題を解く以外に学問の発展はない。これは常識だろう。答えの出ている問題つまり知識は検索出来ればそれでお仕舞いである……。


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