• Note of a Difference Philosophy

    (差異哲学についてのノート)

 差異哲学という観点から文化を考えてみようというコンセプト(基本概念)で始めていますので、文章が難解になってしまうのは仕方ありません。共通の問題意識を持つことの稀れな時代です。ここでの問いかけがすべての問題を代表しているとは思いませんが、別の捉え方を求めている方の多少のヒントにでもなれば幸いです。そしてこのような考え方は既に過去のもので、とても通用しない----という未来が来る事を望んでおります。



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 後記


(98/12/08)

本屋に行けば「差異哲学」の解説書もたやすく手に入るだろう。権威のある著者の手馴れた文章により安心してポストモダンの世界にしたれる。そうだとすると、この差異哲学のサイトは初めから空しいものであったことが分かる。もちろん分かっていたことだ。負けると分かっているからやらない、ということの反対側に日本文化があるような気がしていた。文化というより日本男児の気構えが。戦時中の無駄な玉砕に似ているが、そういうことかもしれない。
 今年は色々とハードを増設してみた。失敗もあった。必要なソフト(パッケージやフリー)も揃えてみた。しかしどれも私事で他人にはどうでも良いことだろう。それに比べるとソフトの配布は公の事である。ホームページの公開も公のことだが、違った意味で自作のソフトをウェブで公開出来たら……と思った。そういう新たな欲求がプログラム言語の勉強に向かわせている。先は長いようだけれど……

 


(98/03/30)

このサイトは公開後すぐに多数の人たちに読まれることはないだろう、と思いつつ始めた。何年か後に、読んでおけば良かった、と思われるような良質なコンテンツを目指した。トレンドの過ぎ去った、季節はずれのポストモダンのそれ故に腰の落ち着いた再評価・再発見を……。一年が過ぎようとしている。徐々に差異哲学を遠くから見れるようにもなった。少なからず違和や隔たりも感じるようになっている。何かが違うと思うことも……。そこから先が難しい。漠然としていて自分の力で進んで行けるかどうか……。歯切れの悪い状態が続く。たぶんこれからもずっと……


(97/10/08)

  更新が遅れてしまった。書くべきことは既に先までほぼ頭の中ではまとまっているのであるが……。

  書き方も色々と変えてみて、試している。今回は引用を多くしてある。

  サッカーの日本チームだけでなく、政府を筆頭にあらゆるものすべてが情けないものに変様し、侵食されゆく世紀末なのだろうか。

  本文の補足として、科学的認識=翻訳=メタ・レベルは「おもいあがり」があると著者は述べている。知識人(インテリ)の人を見下ろしたような態度に対しても、だろう。戒めるべきだと……。

  身体とはほとんど常に表現の形式であり、しかも生命体(動物、医学的肉体=内容)でもある。舞台上の役者とて生命活動を持っている。二重という意味はそういうことだ。あらゆる物が記号(表現)化し、人間の価値の尺度となりつつあるのが現状だろう。

  更新をさぼっていた間に色々なページを見て励まされたり、発見があったり少しづつインター・ネットにも慣れてきた。がっくりすることもあれば、(確率は高くないけれど)楽しいことにも遭遇する。

  すべてはこれから、なのだろう。


97/08/03

  伊良部に対する風当たりが彼の初勝利によってコロッと変わってしまった。毎度繰り返されるマスコミの強者に対する態度には辟易する。徹底して無視するメディアが一社くらいあっても良さそうな勢いだったのに……。あれくらいの根性がなくてはメジャーではやって行けないのが現実だろう。作家と編集者の力関係やタレントも然り……。

  負け出してからのマナーの良くない伊良部に対するマスコミの(死刑)判決の出し方は指令語の実例として見ると面白い。かつての(横綱)輪島とか私はふてぶてしい選手・力士が好きである……。勿論実力を伴っての話であるが。

  スポーツ記者は選手と直接張り合えると思ってはならない。彼らとは土俵が違う。記者は選手の非身体的変形を記事によってほどこしているが(良きにつけ悪しきにつけ……)、選手は非身体的属性(ルール)の中で身体的変形(プレー)を続けているのである。過酷に……。

  しかしマナーというテリトリーでは伊良部も輪島も記者も……すべての人が同等に比較可能である。彼らより上に立てるという優越感も味わえる。ゴシップ記事の蔓延も心情としては理解出来ないこともないがそれは人として寂しいことではないか……。


97/07/11

  千葉麗子の「インターネット入門」(NHK教育)が始まった。一回目(7/7)で日本のインターネットの生みの親としてK大学の偉い先生が登場していた。インターネットの始まりに学者間のつまり大学間のネットワークの広がり・交流の必要性があったことは知っていた。大学間を自由に行き来出来るインターネットという標語も素晴らしいだろう。しかし何のことはなく学者や学内のことに過ぎない。つまり我々のような市井の人間は排除されている。先生は我々にそのことを(学者の特権を)自慢したかったのだろうか、あるいはその一部(インターネットの使用)を分け与えてくれた事に対する恩を売りたかったのか……。

  立花隆のページに「インターネット民主主義」なる記事があったので読んでみると公官庁の情報公開をインターネットでという内容だった。

  全世界が一つの脳細胞のように繋がるという立花の幻想はもしかしたら彼が現在大学の内部にいる(東大で講座を持っている)人間だから言えたのではないかと勘ぐってしまった。あるいは彼がすでに知のVIP待遇を享受し続けていたという証拠なのかもしれない。証券会社や銀行だけでなく、この国では強い者・有名人にはヘイコラしてVIPとして特別扱いするのが恒例なのだから……。(強きを助け弱きを挫く?……何よりも任侠心が不足している。良い意味での男心が……)

  アカデミズムもニューアカも外部を排除することで、知を独占することでしか存続出来ないのが現状かもしれない。つまり世間の目にさらせない、隠しておく事で初めて権威が生まれるという程度の研究しかしていないのではないか、文科系はもしかしたら……。

  電子図書館も学者や内部の学生しか本当の意味では使えない。著作権の壁が言い訳に使われているようだ。わたし自身は図書館で調べたいものがあるわけでもなく、特に交流してみたい学者が日本にいるわけではないので実害はないのであるが無視出来ない問題だと思う。

  インターネットが本当に開かれたものになれば、まず初めに大学が解体・再編するだろう。そして力のない学者が淘汰されるだろう。学者もその時の為に大いに人情を身に付けておく必要があろう。

  千葉麗子は偉い先生に対してどう思っているのか、彼女も有名人の一人だから平気?なのだろうか……。
   

  インターネットを始めて一ト月。その解放感よりも閉鎖性・関所・難所にぶつかることの方が印象的だった。あらゆるところ・サイトに滑ってゆけるというのも幻想に過ぎないらしい。すでに囲い込み運動がいたるところで形成され、平滑空間の条理化が、利権の秩序化が巻き起こっている。草原・原野はインターネットの網の目の届かぬ地平にしかないのかもしれない。レジャーランドというのも悪くはないが今までの表現にはなかった新しい文化に巡り逢えるまで検索をし続けねばならないのだろう。果てしない徒労の始まりが今開始されたというのが実感である。


(97/06/15)

 今回が初めてだったからか、ワープロ機能の操作に手間取っていて、本文の内容に集中出来なかった。仕方の無いことだったか、単なる言い訳に過ぎないのか。言えることはマニュアルばかりを読んでいると文章が痩せてくることだろう。まあいい。一人称の文芸に於いて、自己愛と権威(自己を必要以上に立派に見せる事)、このふたつを避けることがとりあえずのわたしの目的である。 放っておくと必ずそこに引き込まれてしまうからだが、かといって自己の短所を曝け出せばいい分けでもない。欠点・短所までがナルシシズムのテリトリーと化し、弱みを冷静に見つめ克服しようとすることこそ立派な?人間らしいのである。この国の文芸に於いては。

 紙面の構成を色々考えてはみたものの、凝り過ぎるとただ容量が脹らむばかりで観る負担がかさみ、速度と時間を考えシンプルな方が良いと思った。そういう分けで地味な中年らしい!?ページになったのであるが……。

 ボチボチ始めたというのが実感である。気負いも過剰な思い入れも中年には相応しくない----という一般的な見方に従った分けではないが、世界中のあらゆる人々に見てもらおうという野心はない。荒れ地を走る高速道路沿いの空き地に小さな屋台を確保したに過ぎないと自分では思っている。そこで気ままに実験をしている、という意識でキーを叩いている。ここは世界の果てであり且つ中心でもあるような矛盾した思いが時々頭をよぎる。中心といっても<空虚>な中心なのだが……。結局荒れ地、未開地が好きなのだろう。開墾される前の雑草地。雑多で多様な草々。

 マスコミは次々と新しい問題・ニュースを私たちに突きつけて来る。興味の大方がそこに吸い取られてしまうような錯覚に陥る。もっと重要な課題が他に在るのではないか、という恐れ。マスメディアをにぎわす問題が詰まらないと言っているのではないが、その見方捉え方が違っているのではないかという不安を感じる。


メール
sigeyosi@scan-net.ne.jp


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