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  11 反復---累乗の力 リフレイン 脱領土化の因子

  機械的反復、即ち<癖>はそのこと=その行為自体を表現しているのではない。その裏には別のことが隠されている。<癖>と<隠されているもの>との確かな一対一対応関係はない。その都度そのケースに応じて考えられねばならない。

  例えば「指の骨を鳴らす」「爪を噛む」「眼鏡を掛け直す」「膝を揺する」などはその行為を目的に反復しているのではない。別の原因がひそんでいてその行為に駆り立てられていると考えられる。映画監督吉田喜重は(小津安二郎生誕90年のその年のNHK特別番組の中で)、小津監督の反復行為の効果的使用法を詳しく論じていた。

  不満でも不安でもいい。「指の骨を鳴らす」原因は……

  一方小津監督は反復をズレを生み出す原動力とも考えていた。『差異と反復』(ドゥルーズ=ガタリ 河出書房新社)にも明記されているのは差異と反復は結局は同じことだ、ということである。反復は差異を生み出し、差異は反復に因って生みだされる。不安を安心に変える、移行させる動因として反復=「癖」があると(このケースでは)考えらる。不満を押さえる、鎮める因子。Aから脱してBの状態に移行する。それは脱領土化と再領土化の橋渡しのファクターとしてのリフレイン・反復作用までを説明する。

  反復とはマンネリズムを生む悪しき退屈なのではなく、様々な差異を産出する母体なのである。

  反復の力を見てみよう。

  ドラマ・演劇には台本と役者が不可欠だ。役者はどのようにして役作りをし、感情移入・感情表現しているのだろうか……。「怒り」「悲しみ」「悔しさ」「憎しみ」などの場面は役者の人生と無関係に設定されている。役者はどうにして怒れるのだろうか?本読み・リハーサルとは何か?それは反復行為である。反復に因って役者は心の底から「怒り」「悲しむ」。現実の感情ではない別の感情を練り上げる。 反復が差異(演技)を産む。

  私たちは日常、意味の分からない事柄や文章に遭遇する。その時たいていの人は繰り返し読んだり、事柄を反芻したりする。やがてその不明だった意味が突然瞬間的に閃く(どうしても閃かないことももちろんある)。このケースもまた反復が差異を生む例となろう。修行僧が行なう読経は難解な文章を解読せんが為になされることも勿論ある。が一歩踏み出せば逆の場合も考えられる。意味の生産から意味の喪失へ。この場合も反復が移行の要因になっている。例えば「バスガス爆発」という早口言葉。その意味は明白であろう。しかし何回も声を出して読んでいるうちに意味は無くなってただ一連の音の繋がりを早口で唱えているだけだと感じて来る。「バスガスバクハツ」という発音のみになるだろう。意味喪失=空性が悟りへの道であるとしたら、読経とは反復による意味の消尽がむしろ主目的と云える。

  「悔い」は人に反復を強いる。しかしまた反復は人を忘却へと導く。過去の辛い記憶を癒してくれる。まったく逆の作用因として働く。不思議な力。辛い過去や悲惨な体験を繰り返し表現することによって癒されることもある。

  癖の作用と同じことがスポーツ選手の必需品となったイメージトレーニングにも当てはまる。イメージの反復が不安を取り除いてくれる。プレッシャーを和らげてくれる。何故か?大舞台の大試合を日常の我が家での当たり前の行為へと緩和してくれる効果があるからだ。適地をマイホーム化することが大きい。すべてを味方にすること。ホームとしての大地の力の結集。領土(わが家)とは人間が最大の力能を発揮する為の条件だからである。建設現場の囲い。地祭り。工場の敷地。家事労働。勉強部屋。教室。などなど。

  マイホームの庭で記者会見を行なった大棋士?が居たが、平常心であるための、自分に有利に事を進める方策であったろう。

  一つの領土から別の領土への橋渡しに反復の力が発揮される。朝礼でも挨拶でも社歌でもいい。繰り返される雨戸を開け閉めする音(これは就寝の為の家から活動の領土への移行)。ドアや玄関のチャイム。ダイヤルアップのインターネット・サーバーへのアクセス音でもいい。

  スポーツにはホームとアウェーが付き物だ。人は自分のテリトリーを外れたところではより緊張して行動する。体が硬くなっては力が出ない。適地での順応性の高さとは領土化の能力のこと。それに伴う、大地の中心の力・強度の結集とその利用度が選手のしたたかさであろう。

  反復自体にも力がある。試合のイメージを反復することは不安を取り除き、あがるという行為を減少させる。一種宗教的な効力がある(平常心を作り出す)。緊張をイメージのなかで経験しプレッシャーを緩和する方向に持ってゆくこと。それでも本番とシュミレーションは同じではないからプレッシャーに負けてしまう選手が出て来るのは仕方が無い。

  スポーツの反復練習・レペティショントレーニングは反復を目的としたものではない。それは反復から差異を取り出す行為である。自己記録の更新や技の習得。その差異を目指して反復する。勉強もそうだ。反復行為自体はそれ程のことではないが(練習実績は安心を与えるが)、差異を産む母体として輝くのである。素晴らしき人を真似るという行為も……

  

  ホームレスという言葉は正確ではない。領土・わが家を持たない人はいない。筏ハウスでもダンボールでも立派なマイホームである。

  人は何かに依存していないと不安から解消されないのだろうか?不満から我が家を出てもまた直ぐに再領土化して別のところに我が家・拠点をつくる。出家と云っても今では俗の家から宗教の領地へのくら替えにしかなっていない場合が多い。身体が最終の領土だとしたなら、放浪の修行僧とて領土を持っていることになってしまう……。

  それはさて置き、人は最終的には反復自体にすがるのだと思う。癖もそうだが、念仏もまた反復に本質があると考えて良さそうだからである。「南無阿弥陀仏」という意味よりもリフレインにこそ不安や苦を和らげる力がある。野茂選手などがウォークマンでいつも同じ歌手の同じ曲を聞くのも反復に力があるからだろう。ジンクス、いつも同じことを同じ手順ですることも。何かに依存しないこと。しかし反復の力を利用すること。組織に捕獲されたり帰属しないで心を癒すにはこの方法しかないのかもしれない。依存する対象が素晴らしいから救われるのではなく、<反復の力>そのものが人を救う。

  一人の喜劇役者がいて、彼は道行く女性に声をかけている。それも明らかにとびきりの美人ばかりに。観客は彼が相手にされないだろうことを知っている。釣り合いが取れていない、バランスが悪いと思いつつ、彼が振られるたびに笑う。しかしそれが延々と続いて行くと今度は彼が可哀相に思えて来る。笑いが反復に因ってペーソスに変わって行く。これが反復の力だ。純粋な力。別の感情を生産する力が反復には供わっている。

  まったく同じことを繰り返したとして、それを見ている人にとっては感情が変化する。マンネリズムへの移行も。新鮮で刺激的なことがある地点を境に飽き飽きする。うんざりしてくるという落差を作り出すのが反復である。つまり純粋なまったく同じことの繰り返し(反復)はないということ。

  何故TV番組にオープニングのテーマソングが必要なのだろうか?無くても済むことではないのだろうか?

  脱領土化は家を離れないと実現しないものではない。反復・リフレインが家に居ながらにして人を脱領土化に導くこともある。その働きをしているのがTVなどのテーマソングである。NHKのニュースにも……。オープニングとエンディングに流れる音楽は脱領土化と再領土化の橋渡しをつかさどっている。マイホームからドラマの世界(非日常)へ移行する要因として。それは本を開く音でも良いし、ビールの栓を抜く音でも……。内部の外部。

  CMの効果にも反復は利用されている。脱領土化のこまぎれの条件反射としての……快感。そして捕獲装置。

  物質的には身体が人間の最小の領土になっている。酒・ドラッグとはその最小の領土を脱領土化する。

  領土、それは人工のものでも良い。雑誌でも電脳空間でも……。

  脱領土化は実は人を不安にもするし、ワクワクもさせる。表裏一体の関係にある。

  反復の隙間に差異(脱領土化・閾を超えること)は産まれ、差異の先にはまた領土化(捕獲装置)が待ち構えている。外部の内部。両者の交錯のなかに人は生きている。

  脱領土化もまた差異の言い換えに過ぎないのだが……

 

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