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  6・等価性の続き

  一対一対応関係から抜け出る為にテクストという考えが生まれたと言って良い。『みだれ髪』とその作者の著作権的関係が問題なのではなく、『みだれ髪』の読みこそが問われねばならない。『みだれ髪』多様体=テクストは読みを一対一から解放する。読みの複数化は差異を生産するからである。多様な読みを分化させるほどテクストとしては面白いことになる。n−1が一つの読みである。『作品からテクストへ』(ロラン・バルト『物語の構造分析』みすず書房の一章、他に『テクストの快楽』)

  作者与謝野晶子も勿論多様体である。n−1として『みだれ髪』はあり、歌人晶子も多様な晶子の一つの分化であろう。

  近代文学はおおむね自己同一性をあるべき姿として表現してきた。つまり先駆者として作家は模範を示さねばならなかった。どこに居ても同じ統一人物で在るかのような質というものを文体にこめねばならなかった。……ねばならない……もちろんそんなことは有り得ぬことで、身辺にいる人々は呆れるばかりだったろう。差異の無い人間、多様でない人間などは居ない。落差のない人間は相当な無理をしている。だから偉い?のかもしれない……。


  7・指令語 人生そして事件

  「言語活動の基本的統一性、つまり言表とは指令語le mot d'ordreである。」(『千のプラトー』 P97 ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ 河出書房新社

  私たちはコンピューターに向かっているあいだコマンドを発している。しかしここでの指令語は広大な社会活動を対象としている。言語と行動を繋ぐ力。遂行(言いながら実行すること)。発話内行為(話ながら実行すること)。非身体的変形をほどこすもの。

  指令語のもっとも顕著な例として司法の決定を上げる。容疑者-被告-受刑者と推移してゆく判決は人間を非身体的に変形する。しかし単なる呼び名の変異なのではなく、その変形は身体にまで及ぶ。つまり身体の行動に介入することが指令語の機能なのである。

  フーコーは『監獄の誕生』(新潮社)の中でミクロ物理学(攻囲された身体)を監獄の中に見、それは監獄内だけの問題ではなく、病院、学校、工場でも程度の差こそあれ内実は同じだと書いている。つまり社会全体を貫く監視装置としての監獄論を展開するのである。

  指令語の特徴としてドゥルーズ=ガタリはそれが死刑判決を伴っていることをあげる。

  「指令語とは死刑宣告なのだ。……指令語は指令を受け取るものに直接的な死をもたらし、あるいは彼がそれに従わなくても、場合によっては死をもたらし、また彼自身が別のところに死をもたらし、死を強いるのだ。『これをしろ』、『あれをするな』といった父親から息子への指図は、息子が人格の一点に受ける小さな死刑宣告と切り離せない。」(『千のプラトー』P126

  親が子に放つ指令語には小さな死刑判決が含まれている。背けば生きていけないという現実があろう。兄弟あるいは姉妹みたいな親子だと自負している人がいるが、そんなことは有り得ないだろう。いくつになっても親が鬱陶しいのは死刑宣告をちらつかせて子供を支配しようとするからである。

  最近話題になったタイソンの永久追放、選手資格剥奪という処遇はまさに彼の非身体的変形に過ぎないが(肉体に加えられる罰ではないが)、選手生命の死刑宣告である。

  友人との雑談でさえ指令語が見え隠れする(ほのめかす、というテクニック)。巨人ファンでなきゃ男ではない----。わたしの新しい髪型を誉めないヤツは死刑!だ……。俺のこの苦労を聞きやがれ。インターネットをけなす人の頭は化石に等しい。etc

  こういう下品な言い回しを並べ立てていると筒井康隆の『家族八景』や『七瀬ふたたび』を思い起こしてしまうのだが指令語から逃れることの困難さは生きて会話をし文章を綴っている限り付き纏うと覚悟しておかねばならない。ここでの私の拙文も勿論例外ではない。

  「愛は、……身体の混合である。しかし、『私はあなたを愛している』という宣言は、愛する人にとっても、愛される人にとっても、身体の非身体的な属性を現わしている。」(『千のプラトー』P102)指令語から解析するならば愛の言葉はロマンチックであるどころか互いの行動に介入する、行為を縛る荒縄でしかない。

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  評論や文芸作品・小説でもあらゆる文章に指令語は含まれている。極端に言えばこういう問題を真剣に考えない市民は死刑だ……というような脅迫強要を暗に含んだ評論がほとんどである。マスメディアはその最たるものではないか。社会問題をこれでもかと繰り出し強制するのである。松本サリン事件ではメディアが容疑者を被告へと先走って宣告・変形してしまったことは記憶に新しい。

  同じように文芸の世界も指令語の社会である。実社会と何ら変わるところはない。短歌・俳句というと風流で浮世離れした別世界に見えるが、日々作られ続けているのは指令語を含む作品である。文芸作品は非身体的変形をほどこす。一人称ではその対象は自分自身に向けられている。いかに立派な人間であるか、いかに愛されるべき存在であるか、作品によって己れを変形しようとしている。勿論旨くいかない場合だってあるが、おおむねその方向で作歌している作者がほとんどであろう。意識していない人もいるだろうが……。

  自らが自身の非身体的変形をほどこすのだからそれは自由な行為であると考えるのは間違っている。自己を自分で縛ることもミクロファシズムの範疇に含まれている。つまり多様である自己を一様な同一性としてに管理しようとするからである。

  作者の格付け(公の上位の指令語)が非身体的変形つまり身体の属性(行動の範囲)を決める。権威・利権と言い変えても良い。例えば雑誌の巻頭を飾ることはある意味で誰もがその作者にヘイコラすることを保証する。重んぜられる作家になること。芥川・直木賞という肩書き(非身体的属性)の持つアドバンテージは良く知られているが、俳人協会賞や現代短歌協会賞も狭いが同じ働きをする。ここでは身体の攻囲とは逆の行為が開かれてゆく機能である。

  既に自分が特権を行使して居ながらあたかも我々と同じスタンスで無印の人間を装いつつ国家権力に対している批評家や文化人や作家がいるが、これほどの無頓着はないだろう。メディアも十分に権力を持って居るにもかかわらず庶民のような顔をして政府などをやり玉に上げている。もしその実体(自身の特権の実態)を知らないのだとしたらお目出度い話だろう。笑ってしまう他はない。利権を持っている人間や組織ほどささいな侵害で大騒ぎする……(他にも教師や上司や親、つまり自分の行使している権力に無自覚な人がほとんどである)。

  重んぜられる肩書きを持つこと。実社会の理想とはそんなものかもしれない。ようやく引退した航空会社の大物?がいたが、彼の失いたくなかったものは指令語から来る特権であろう。会長職であるという非身体的変形が身体の属性・行動力を決定する。黒塗りの車の魅力?いや何処に居ても誰と会っても肩書きが彼をVIP扱いしてくれることを保証するのである。日本は肩書きが人間のすべてといって良いほどの国であるから。

  私たちの人生は特権を与えてくれる社会的指令語に従属したものでしかないのだろうか。自ら非身体的変形をほどこして(小さな指令語を生産して)、認知された広く通用する社会的な指令語を待つ俳人歌人たち。出世大成とは肩書きを望むこと。なぜなら特権があってはじめてこの国では行動(身体)の自由、ハイソサエティな人的交流、尊敬、財などが手に入るからである。有名人のみの友達の輪----を疑いもせずに喜んで見ていた自分を発見して腹を立てない人がいたらそれは恐ろしいことではないか。タモリよ……。

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  『千のプラトー』では指令語から逃れるには指令語から逃走するしかないのだという(浅田彰の『逃走論』はその複製であった)。でも考えてみると逃走しろ!というのも指令語になっている。だからややこしい……(死は逃走の失敗である)。

  《寺山修司の短歌を指令語からの逃走としてのみ再考して良いかもしれない》

  非身体的変形は人間だけのものではない。身体は内容を持つものなら何にでも当て嵌められる。例えば「香港」という身体に対する返還という指令語が遂行されたのは記憶に新しい(何故日本人があれほど大騒ぎするのか理解出来ないのであるが)。土地所有の土地と持ち主は指令語に因って繋がっている。土地という身体の非身体的変形が土地を持ち主に結び付け(身体的属性)、持ち主の指図に従って土地はその内容を変形されたり使用されたりする。勝手な私有地への進入は死刑判決を招くこともある。指令語「フリーズ」が無視されてアメリカで悲劇が起きたことはまだ事件として古びていない。指令語が下位の指令語を保証したり、指令語が指令権を特定の個人に与える(分与)----これは日常見られる光景である。

  「学校の女教師は、文法や計算の規則を教えるとき、何か情報を与えるというわけではなく、また生徒に質問するときも、生徒から情報を手に入れるわけではない。彼女は『記号へと導き』 ensigner 、指図を与え、命令するのだ。……  義務教育の機械は情報を伝えるのではなく、……記号論的座標を子供に強要する。言語は……従うため、従わせるためにつくられている。」(『千のプラトー』同上)

記号論的座標は一対一対応関係・二項関係と言い換えられる(記号とその概念など)。中立的な無色の情報などない。必ず指令語が含まれていると考えた方がよい。教育現場でも死刑判決を伴った指令語が見られる。落ちこぼれとは学校から半ば死刑を言いわたされた生徒と思ってよい(指令に忠実な生徒が優等生であり優遇される)。村八分的ないじめ、排除も生徒たちの下す死刑宣告であろう。レッテルを貼るいじめも非身体的な変形による指令語の実例だろう(近寄るな、という身体の攻囲=禁固刑。あるいは使い走りという使役刑)。世間一般に指令語が蔓延しているのに学校のみ指令語から逃れられるというユートピアはどう考えても夢のまた夢だろう。……絶望感が漂ってしまうのだがやはり指令語からは逃走するしか方法がないのだろうか……。

  言表-行為を結ぶ力能としての指令語はあくまで言語表現に属し、しかも変数であるという。パラメーターであるからこそ香港は瞬時に返還された。

  一般の人間が独立を宣言しても冗談で終わってしまうのは指令語が状況や社会権力と結びついているからであるが、しかし指令語は変数であり決して常数ではない。たとえばあまりいい例ではないが不倫に対する社会の評価(判決)が甘くなって来ているのは社会状況と指令語がリンクしているからだろう。不倫肯定論という新しい指令語を発する論者も増えている。不倫-死刑宣告-逃走(駆け落ち)あるいは心中(逃走の挫折)。指令語(変数)の移行によってこの図式も塗り替えられていく分けである。

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  一般社会の指令語からの逸脱として犯罪を定義することも可能だろう。浅間山荘連合赤軍や地下鉄サリン事件・ペルー大使館人質事件は内部の指令語・死刑判決をいわば遂行したことになる。社会の指令語からの離脱と内部のみの再・指令語化の過程が見てとれよう。ミクロ・ファシズムは外部の社会に対して死刑宣告を発しつつ、自ら死(滅亡)に突入していったのである(内部だけの記号の体制の確立が指令語の持つ変数という性格をここでも証明している)。個人の犯罪である神戸須磨区の事件やかつての幼女の連続事件も社会的なコマンドからの離脱が上げられるだろうし、彼ら本人からすれば事件は死刑宣告(根拠のない私刑)の遂行でしかないのかもしれない。

  上下・左右の指令語の飛び交う日常の隙間に我々は生きている。ほんの少しの指令語からの逃走(文化)を求めて暮らしているという状況自体が実は凄まじいことだと思う。犯罪はまたしても「弱気を挫く……」という劣悪なものであり、更正するにはすでに手後れではないかといった性格のものであろう(監獄の理念---犯罪者の更正・矯正の無効化の実態をフーコーは実例を上げて詳しく分析している)。マスコミもまた「弱気を挫く……」報道で常に被害者にはきつく、上位(少年法)には弱い。あの出版社の腰砕けは何なんだろう……。

  一線を越えてしまった瞬間が実は事件だったのではないか。動物と人間の境を飛び越えてしまった時、指令語は人間に向けて発せられ、遂行された。つまり封建的身体刑の実践である。彼はそこで絶対君主の権力を行使し、処罰権を手に入れたことになる(この辺も『監獄の誕生』の前半に詳しい)。学校とも友人とも家とも世間とも別な記号の体制、新たな指令語の存在。挑戦状はその宣言・布告であったろう。事件は潜在化し見えにくかった指令語の体制(処罰権)を予期せぬ形ではあったが顕在化して見せた---というのは事実だろう。しかしそれだけの目的でなら他にもいくらだって方策はあったと思う……。

  「言語は情報的でも伝達的でもなく、情報の伝達ではない。こういったこととはまったく違って、一つの言表から他の言表への、またそれぞれの言表の内部での、指令語の伝播なのだ。一つの言表は一つの行為を実現し、行為は言表において実現されるからである。」(『千のプラトー』P100

  インターネットを通過する情報も指令語であろう。中立的な情報など一行もない(しかしインターネットは逃走し続けるネットワークだとも言える。目的地に辿り着くことよりもむしろリンクやジャンプをし続けることこそがインターネットの本質だからだ)。

  村上春樹の気の抜けた?文体は指令語に対する抵抗だったのかも知れない。逃走する文体の構築、このことが差し当たっての表現者のテーマなのではないだろうか。マイナー言語!マイノリティー。(言表から言表への)間接話法から直接話法を引き出してくること。n−1……。


 

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