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<強度> 一次的な感動 感動とはどういうことを現しているのだろうか。 「《私は感ずる》……この真に一次的な感動がまず体験するものは、強度〔内包〕や生成〔何かになること〕や移行だけなのである。」(『アンチ・オイディプス』p32) 強度・生成・移行とはそれぞれ差異の言い換えである。 <私は感ずる>とは<事件><出来事>に遭遇することである。その再現(表象=再現前化)とは「ドゥルーズ的な強度の概念からすれば、表象とは、通過する強度の痕跡にほかならない。」(『現代思想入門』永澤哲 JICC出版局) <私は感ずる>とは逆の因果律を現わしている。<逆の因果律>とはミステリーの構成として日々消費されている形式である。 「推理小説は……たいていの場合、殺人や窃盗の部類に属する<何か=未知数>がすでに起きてしまっているのに、起きたことは、模範となる探偵が規定する現在時の中で、これから発見されるように仕組まれている」(『千のプラトー』p221) 事件(ニュースの類い)の場合、結果が先に示され、原因(犯人・動機・全容・経過・自然など)は後から徐々に明かされてゆく。<強度>・強い度合・強烈さの体験もまた同じように結果(強度)が感覚としてまず身体を通過し(経験され)、原因(表象)はその後の反省として(痕跡として)再現されるという過程をたどる。 <強度>には「強い度合」(強烈さ)と「強さの度合」の二つがある。「強さの度合」には比較的弱い度合も含まれることになる。「物」「生き物」には本性上の形相(他と区別する上での性質)の他に得られる<度合>というものがある。 「偶有的形相にはより多くとかより少なくということがある。……より多く慈悲深いか、より少なく慈悲深い、またより多く白いか、より少なく白い、より多く暑いか、より少なく暑いといった具合に……。」(『千のプラトー』p292) 「度合」とは少なくとも二つの要素間の差異としてある。異質なものどうしの間に<差異>は生じる。温度は等質なものの単なる数値の目盛り、同質なもののレベル差と考えがちだが、「水」は温度により氷ったり水蒸気になったりとその本性上の性質すら変えてしまう(=物質の相転移。温度そのもの----は自然界には存在しない。宇宙空間・真空には温度がない。温度とは水温のように必ず何かに付帯している。そして温度=<強度>がその様態・質を内から支えている)。温度自体に差異が含まれ、むしろ<差異>や異質なものどうしが強度を作り出しているのである。私たちは人に接する時まず第一に相手がより明るいとか、より(色が)白いとか、また押し出しがより強そうだとか、本性上の差異・性質・性格を知る以前に直感的に把握している(人が生きて行く上でこの判断は命取りになることもある)。偶有的形相とはある特定の場面でだけ偶然に生じてしまう<度合>である。一度きりだからこそ<事件><出来事>と云われる。強い度合・強烈さもこの<事件><出来事>に属する。しかし「形相そのものに、……ゆらぎや振動があるということ」(同上)も事実であろう。 強い度合、強烈さ----例えば天婦羅油が跳ねて腕や手に落ちてしまった時、初めに感じるのは強さだけであろう。熱ささえ後からやって来る質的感覚だろう。油が冷たいと錯覚することもだから奇異なことではない。氷やドライアイスに触れて熱いと感じることも不思議なことではない。感覚はまず強さを、強さしか感じないからであり、熱い(冷たい)、油(氷)といった表象(判断)は強度のうしろから、痕跡として付いて来るのである(度合が強い程そうなる)。感動して涙を流すという行為も強さに対しての反応であり、喜びでも悲しみでも悔しさでも身体は同じ対応を示す(「ドキッ」とする、「身を乗り出す」「鳥肌が立つ」「絶句する」などもそうである)。原因が先にあってその強さの(中性的)度合があるのではなく、強さがまず身体を揺さぶるのである。原因を特定する<知>は後からやって来る。むしろ<強度>の方が(質的表象)差異を産み出しているのだと言える。強度=nだとしたらn−1と考えられよう。nはゼロではなく、強度=多様体として。《私は感ずる》の<強度>には〔内包〕とカッコが付けられている。<内包>とは何か。 外的に展開された運動(エネルギー)の<強度>と身体の受容能力としての<強度>=〔内包〕とをまず区別しなければならなかった。本性上の形相つまり「物質としての質」や「知覚された質」の方こそ「強度を前提としている」(『差異と反復』ドゥルーズ 河出書房新社 p345)「質のものでかつ延長のなかではじめて、強度はさかさまになって現われる」(同p355)「カントの理論によれば、強度〔内包〕量は、種々の度合において、空隙なき質量を満たしてその内容をなすものとされている」(『アンチ・オイディプス』p33)「……〔強度〕の広がりが、強度を延長に関係づけ、強度は、その延長〔空間〕のなかではじめて、それ自身の外で質にくるまれて現われるのである」(『差異と反復』p343) 質的差異(と延長)が<強度>によって生み出され、しかもその<強度>は取り消されてしまうように見えて、実は内に包み込まれているということが読み取れよう。『差異と反復』におけるドゥルースは差異を三種類に分けて分析している。一つは数的様態の差異(差異的=微分的な関係=比)で理念(イデア)として捉えられている。次に先にも取り上げた本性上の形相・質的差異が実在としての多様な世界を形作っている。そしてその両者の間に<強度>としての差異が存在する。「差異の差異」つまり数的差異を運搬(フランス語では差異と運搬は同じ言語で現わされる)するもの、数的差異を質的差異(形相)に現実化し変換する力・エネルギーとして。そしてその現実化する過程で運搬の途上で齟齬を(差異を)発生させる動因・要因として考えられている。「数的差異」と「質的差異」は似ていないのである。原因と結果が整合して旨く思考できないのである(……その差異を神秘と言い換えても良い)。分子式H2Oの形態と水の性質の因果的繋がりが見出せないのである。遺伝子と有機体(生命体)も同様に似ても似つかない。遺伝子情報、二次元的数的様態の差異が何故三次元有機体を形成出来るのか、という謎(神秘)を解く鍵・要因として<強度>は思考されたようである。一つの卵細胞を分裂・分化させ、部分・隔たり・距離・広がり・諸器官の差異を生産する<強度>。<強度>は有機体の諸部分となってさかさまに、取り消された形で現われる。<強度>は消滅した分けではなく、深さに於いて巻き込まれ<内包>されたのである(ドゥルーズ=ガタリの差異哲学は疎外の哲学と違って自然物と人工物、有機体と無機物を同様に扱うのが特徴である)。 三種類の差異のうち最もプリミティブな差異がこの<強度>であり(ここからは私の勝手な想像に過ぎないのだが)、無限大に近い過剰・考えられうる最大の<強度>が(超高温・超高圧・超高密度の)ビッグ・バンであろう。数的差異も質的差異も元はと云えばこの<強度>・ビッグ・バンから派生してきたものであろう。すべての物質や有機体・生命体に内包されている<強度>はビッグ・バンの天文学的数字を分母としたもののほんの一部に過ぎないだろう。しかしそれは紛れも無く宇宙創造の力に繋がっている「入れ子構造」であろう。人も動物も自然も星も宇宙エネルギーの一部を捕獲し、内包しつつ存在し、またすべての流れ・変化の原動力として<強度>は存在しているのである。 運動は言うまでもないが、その対局にある不動にまで<強度>はその力をさかさまに働かせている。橋の強度、素材の強度などと言われる材質の「強度」も宇宙的な<強度>の捕獲であり、「強化」と呼ばれているものだ(逆説的だが建築物・構造物のいわゆる強度はその解放、つまり破壊の時点で初めてその度合が明確に顕在化する)。
<強度>とは何か。 例えば風の速度(風速=強度)は分割によってその性質を変えてしまう。水が水温によって相転移するのと同じように。そよ風なら爽やかに、強ければ台風の如く強烈さそのものになる。一つの<強度>自体隔たり・異質なもの・多様なものを孕んでいる。強度の総体とはさらに多様であり、複合体を(多数多様体を)形成している。内包(あるいはビッグ・バンの)強度とはその錯綜体を指し示している。分割すれば必然的に<差異>・隔たり・距離を生むのである。 <強度>が引き起こす「強度〔内包〕的な感動」を(ドゥルーズ=ガタリは)情緒(抒情・弛緩)と区別して「情動」と呼んでいる。エソロジー(動物行動学)ではこの「情動」が重視されていると言う。 「個体を触発する〔情動をおよぼす〕……強度は、個体の外の部分からも、個体自身の部分からも到来し、個体が行動を起こす能力を増大させたり減少させたりする」(『千のプラトー』p296)動物(植物・人間も)は常に強度----例えば光・匂い・音・温度・速度など(の度合)に晒され、それらを感じ取って、それらに触発されつつ生存している。獲物の匂い・体温・音などの外的<強度>が情動を触発し、その情動(強度的感動)の強さが攻撃の能力・行動力を決定するのである。 情動・内包強度とは何か……<強度>の繰り広げによって身体は生成されると先に書いた。その過程で取り消されたように見えた<強度>が身体に巻き込まれているとも書いた。通常は潜在している<強度>が内包強度である。その内包強度が再び顕在化して引き起こされる感動が情動であろう。内包強度は何度繰り広げられても減ることはないという。 受容する<身体=内包強度>を、外からやって来た《強度》が通過するとはどういうことなのであろうか。 先に一つの<強度>は多様体であると書いた(一が即ち多である世界)。強度の集合とはさらに多数の多様体、差異の複雑に絡み合う<錯綜体>であるとも書いた。身体=錯綜体を通過するとは受容能力=内包強度の新たな発生・繰り広げを意味する。繰り広げの振動(差異・力)が強度的感情=<情動>を生むのであるが、すぐに<強度>はさかさまに(ここでは感覚される)質に(n−1)にまたぞろ包れてしまう。注意すべきことは<強度>は外からやってくる場合でもその<強度>は物質的・有機的・運動的な<強度>とは限らないこと。 「語」でも「概念」でも「絵」でも「思考」でも「問い」でも何でも<事件><出来事>として受容する側の身体がその対象を<強度>・強烈さと受け取ればその対象は<強度>になる。<強度>に生成変化すると言っても良い。不変的な絶対的な一般的な触発<強度>はない。エレベーターに乗っても、ピカソを観ても身体<内包強度>が反応しなければその対象は<強度>にはならない。あくまで受容側の問題である。 動植物と違って人間は過少あるいは過剰を常に引き起こす存在だろう。受動的情動から能動的情動(行動能力)へ移行する過程で不均衡が入り込む。原因・結果の等価性の方こそが幻想であろう。 外からの刺激への反応だけから行動するのではない。動物の犬にも成長過程で仮想の敵を倒す訓練行動をしているのを見掛けるのはその為である(敵への直接的でない対位法は表現と考えられる)。強度の過剰反応を含めて身体の部分から、内からやって来る強度(情動)も探求せねばならないだろう。<内包強度>から自発的自家放電として能動的に発せられるものとは……。一般には衝動・(フロイトなら)欲動・リビドーと名付けているもの。それよりも未分化でより原始的なまだ名付けることさえ出来ぬものが<内包強度>そのものの本来的な様態だろう。原因を持たないより深い内発的な力、差異の突発の隆起。 身体に巻き込まれている<内包強度>が錯綜体であり、多数多様体であると前にも述べたが、それ故にもともと差異、落差を含んでしまっている。何時如何なる時に差異が発生し、揺れ出し、動揺したとしても不思議なことではない。『アンチ・オイディプス』のテーマはそのことに関連していた。もともとフロイトが欲動を欠如の穴埋めと考えていたことに対してこの著作は書かれているからである。ドゥルーズ=ガタリはそれを肯定的な強度の隆起(繰り広げ)と捉えている。 強度=内包を東洋的な言語に置き換えるとしたらそれは「気」だろう。「気」も<内包強度>もまだその対象を持ってはいない。それが未分化の状態だ。卵がそうであったように<強度>は異化・分化の過程で特定の感覚として表象される。飢えだったり欲動だったり、美的感動だったり、……内外を問わない。 「気功」が有機体内に眠っている「気」(宇宙の本源)を再び甦らせて動かし、身体組織の諸器官とは別の、自由に「気」の流通する身体の実現目指している(ヨガや禅の身体)のと同じように、<強度>=〔内包〕も《器官なき身体》の実践に於いて解き放たれ、宇宙の力と合流すべく本源的にもがいていると考えられる。 我々はいったい何を享受・消費しているのだろうか。 <内包強度>、即ち身体をこそ消費すべきだった。身体の<強度>的状態をこそ。 <強度>の体験とは「我」を忘れてしまうくらいに強烈な<出来事・事件>である。「我」の方こそ<強度>の残りものとして付いてくる。<強度>地帯の消費に伴って残りものの自己が身元として保証される。自己同一性から差異としての自己・移行する自己・残りものの自己・強度的な自己へ、身元保証の内容が移行してゆく。「強度の旅」とは連続する強度地帯での移行する自己の消費のことである。 (分裂症患者のもがき・苦しみと同じように)我々が感じる一次的感動(強度との遭遇)とは(対象の)欠如や不在では決してなく、むしろ<強度>の充満、身体の充実・充足を意味し、我を忘れつつも《残りものの自己》という確固な身元保証を手に入れることになる。青春・若さとは空虚な季節(大人が勝手に作り出した物語)なのではなく、心身が揺れ動けば揺れ動くほど満たされたものだったのだ。 不在・欠如が欲望を作り出すと考えれば苦悩は欲望の対象の獲得によって解消することになる。強度の哲学の強さはそこに解決を見出さないことであろう。あらゆる修行が欲望のコントロールの体現を目指すのは道徳的な理由からではない。我慢・忍耐力を付けることが第一義なのでもない。欲望=強度は肯定的だからである。欲望を(差異を)対象に因って解消すること、つまり欲望を否定的(欠如に因って説明すること)に満足しないからである。身体のなかで<強度>を解放することを目指すからである。修行者が欲望を例えば馳走の獲得によって解消しないのは戒律のためでは決してなく<強度的身体>の実現の為である。家=領土を捨て、食欲・物欲・色欲・名誉欲から離れるのはそれらを押さえ込む為ではない。それらの差異=エネルギー・不均衡を<強度>として身体の中で自由に流通させ、身体を解放する為である。 飢えさえエネルギーに変える。ボクシングのハングリー精神とはむしろ今述べていることに近い。体を<強度的身体>に変換する為の食欲の制御。あらゆる<飢え>を欠如として、埋めるものとしてではなく、肯定的なエネルギーに移行させることが選手の訓練であろう。パンチの速度。フットワーク。ガードの強さ。ほとんどのスポーツ選手と同じように身体は有機体から速度=強度体へと移行、生成変化を遂げる。 ヨガ・禅の身体への改造。《器官なき身体》の実現。それらを別の快楽、<大楽>と名付けてもいい。<極楽>と呼んでもいいだろう。 脱線してしまうがいくら考えてもその<大楽>と衆生済度とが実は結びつかないのである。行者の自己救済にはなっていても、そのことが慈悲の行動とか社会救済に直接結び付くとは思えないのだ。 (慈悲は<大楽>とは無関係に存在すると思う。) 実践智とは身体を通過した体験智である。それは一見して外部と遮断しているように見えるかもしれないが、《器官なき身体》の実現は宇宙の生成と繋がっている。内部にある外部----であろう。意識にとって<強度>とは他者性として顕われるから。
表現活動が人間に与える情動、それは表現が現実の再現に近づいたから、というのではない。表現が<強度>として受容され(生成変化し)情動を触発するのである。 身体が<強度>に移行することと、自身が<強度>に生成変化するのとは同時に起きる。 <強度になること> 生成変化すること。 決して<強度>を「権力」と混同しないこと。<強度>その力を魔力として横領する「権力」を求めないこと。 |