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8 質と量について 質と量は別のものであるが、その関連性は意外にも大きい。同質な物が集まって量を作り出すのではなく、量が質を決定しているというのが差異哲学の見方である。正確には量の差異が質の差異を決定する。 原子の周期率表を見ていると、陽子と電子の《数的差異》が物質の質を決めていることが解る。物質を細分化してゆくと、物は質から解放され量や数的な記号に移行する。電子・陽子はまだ重さを持っているが、重さより数・個数の組み合わせ方がここでは存在の有り様を決定している。 物は観察する単位によって質を変える。金属の性質の測定から金属の不変性は導き出されない。「差異は存在する」物と物との間に。差異は正確には非存在である。間にあるものとはそういうことだ。しかし差異は決定的なものである。「存在は差異である」性質が物質を形作っているのではなく、素粒子の数の並び(関係=比)が……差異が存在を作り出している。水素原子だけの世界では差異は存在しない。水素と例えばヘリウムの隔たりが差異であり……多様な世界を作り出してゆく。 ビット・マップ・イメージ(ファイル)のピクセルも同じように考えられる。絵のイメージ、質を決めているのは数的様態の差異(三原色の配分)と組み合わせの量である。8ビット、16ビット、24ビットカラー……。そして800×600や600×480のドットの数の量が木目細かさを決める。勿論ピクセルの配分(関係=比)が絵・画像そのものの形を作り出している。 逆に考えると量の分割は質をも変えてしまう。例えばボリュームを絞れば別の音楽に移行しまうことがある(ハードロックは音量によって成り立っていると言って良い)。TVで観る映画にスクリーンの迫力はない。 コンピューターの速度(量)もコンピューターの性質を変える。インターネットの転送速度(秒当たりの量)がホームページの質を規定している。また記憶量の差(FD、CD-ROM、DVD)という総量の非連続性が質の差異を生み出す(量が画質を決めている)。テキスト、ゲーム、映画の情報量にそれぞれ対応しているだろう。速度の量、即ち新幹線や高速道路が生活や旅、流通や産業の根本まで変えたのは当然のことだった。 テクストの考え方は作品を引用の織物・組み合わせである、と観ることである。(今読まれている私の文章もほとんどが引用である。そう自覚しつつキーを叩いているのであるが、ほんの少しの微差でも偶然に生まれてくれればと思っている)。質は不変ではなく量的組み合わせで決まる。言語を音素に分解して考えることも可能なのである。 一人の時と、たくさんで群れている人間、その同じ人間が別な者に変身してもおかしくないのである。暴走族や暴徒はだから何をするのか予測がつかない。暴動の中で一人一人の人間が別人となってゆく。量が人の性質をも変える力を持っているのである。 9 二重分節 表現の形式と実質、内容の形式と実質事件が起こる度にバーチャル・リアリティーのことが言われる。幸いまだインターネットがらみの犯罪は起きていないらしく(ビデオや劇画のような)規制への動きは少ないようだ。そのうちにきっと起こるだろうが、警察はそのチャンスを虎視耽々と狙っているのかも知れない。 本題に入ろう。バーチャル・リアリティーが優れているとしても表現と内容は決して重なることはない。『千のプラトー』の第三章「道徳の地質学」では二重分節という言葉で世界をまず表現と内容とに分ける。長くなるがその部分を引用してみよう。 「内容と呼ばれるのは、形式化された素材のことであり、したがってこれはその実質と形式の二つの観点からとらえなければならない。ある個々の決まった質量が「選択」されるかぎりにおいては実質の観点から、またそうした一群の質量が一定の秩序のもとに選択されるかぎりにおいては形式の観点から、とらえなければならないのだ(内容の実質と形式)。表現と呼ばれるのは、機能的な構造のことだろうが、これはこれでやはり二つの観点からとらえなくてはならない。そうした構造自体のもつ形式の組織という観点、そして、これによって各種の複合物が形成されるというかぎりでは実質の観点である(表現の形式と実質)」(p63) 内容とは物の複雑な状態。またはその混合である。それは実質と形式というものに分けられる。これが二重分節である。生命体では遺伝子が表現の形式で身体が内容の形式に相当する。細菌とウィルスの差は細菌が身体を持っているのに対しウィルスは遺伝子しか持たない。つまり人間の身体(内容)に寄生し人間の細胞を横領し乗っ取るのがウィルスというわけである。ウィルスとはまず表現形式として存在する。 「核蛋白質の配列は、一定の相対的に不変な表現と不可分に結びついており、この表現をとおしてそれら個々の配列は有機体を構成するさまざまな複合物や、器官、機能を決定している。」(p63) 食べ物や水分(栄養分)の消化・摂取による新陳代謝は動植物の生命活動(内容)としてはいうまでもない事だろう。ここでは遺伝子がより重要である。 人間の場合、表現=形式は35億個の塩基の対=遺伝子であろう。遺伝子とは相対的な差異(数的な関係=比)によって成り立っている。複合物とは有機的身体のことである。 人間の身体(内容)は物質としては5百円くらいの値打ちしかないという。炭素とかカルシュームとか……に分解してしまうと。生命細胞という秩序(形式)の観点から見るとまったく違った価値が生まれてくる。 勿論自然界の地質の堆積作用や褶曲活動も実質や形式(二重分節)を持っている。自然も歌をうたっているのである。内容=形式は他の内容=形式との相対的な比較(差異)によって表現に移行する……孤高の富士山(火山)の内容=形式(形式化された物質)は他の山の内容=形式(褶曲山脈)に対して圧倒的に美しい。 「実質とは形式化された物質以外の何ものでもない。形式は、一定のコードと、コード化、脱コード化のさまざまな様相を含んでいる。一方、形式化された物質としての実質は領土性や領土化、脱領土化のさまざまな度合にかかわっている。ところが、まさにこの二重の分節は、そのどちらにもコードもあれば領土性もあり、おのおのがそれなりの形式と実質をともなっているのである。」(p60) もっとも我々に関わりのある領土とはまず身体であろう(身体には勿論規則性としてのコードもある)。そして家、学校、会社、テリトリーなどが領土性と云われるものだ(これらにもコードがある)。コードはパソコン用語にもなっている。二重分節の複雑さとは表現と内容のどちらにもそれら(のコードと領土性)が伴っていることである。例えば芸術的な表現には人工の領土性が必ず伴っている。表現の場とは領土である。商業雑誌とか文壇とか画壇とか……。人の拠り所が領土を人工的に形成してしまうのだ。世論・口コミのネットワークも領土化に根差している。CHATルームも伝言板もフォーラムも……ホームページもHomeつまり家という領土から始まっている。電脳の人工の領土化。 + +
+ 無機物や有機物・生物界から人間の世界への移行にはずれがあるが基本的には同じである。 人間世界の表現(表現はむしろ日常飛び交う言表・記号の体制にウェイトが置かれている)。バーチャルは表現形式が内容(現実の)形式に近づいたのでは決してない。同形性は認められても決して交差することはない。現実に近づいたと思わせる《質》を獲得しただけである。表現の質とはそういう意味であろう。例えば本が紙という物質(実質)で出来ているということではない。紙とインクで出来ているがそれは表現の実質のことで本の本質はあくまで言語表現の形式であろう。そこから得られる質であろう。画布と絵の具でもいい。絵の本質は絵の具(素材)ではなく色の組み合わせによる形式=表現である。形式から来る絵の質。絵の質とは他の絵の形式、例えば風景画、人物画、抽象画、ポップアートなどとの関係からその差異として導き出されてくる(表現の全体から引き出されてくる)。バーチャルも一つのジャンルに過ぎない。リアリズムとは現実を正確に写し取ったと思わせる一つの質であり、近代文学とは作者の同一性を思わせる形式の獲得にすぎない。小説、評論、エッセイの作者はどこに居ても同一であると思わせるような文章の質を書ける人だということになろう。 写真は現実を写し取ったものだと考えられているが、内容の世界を記号(表現)で完璧に置き換えることが出来る(表象=再現前化、レ・プレゼンタシオン)と思われていた時代をフーコーは古典主義時代(17世紀から18世紀)の特殊な出来事として封印した。そのことはすでに良く知られている(『言葉と物』)。そして『知の考古学』においてフーコーは言説という概念によって言説実践(表現)と非言説的実践(内容)との間の独立性と相関関係を論じた。ずれのある相互の関係である。そのずれが現実を写し取るという夢を砕くのであるが……。言説(ディスクール)という概念にはすでにそういう意味が含まれている。 もっとも難しいのがその相関関係の具体的な現れ方である。個々のケースを分析してみなければならない。知力のフルの活用、個々の事象で旨くいくかどうか解らないというのが正直なところである。 例えば監獄というものの内容=形式に対応する表現=形式は「監獄」という語(表象=再現前化)ではなく、犯罪者や犯罪行為であるとドゥルーズ=ガタリはフーコーを解析している(『千のプラトー』P87)。 「監獄という物がある。監獄とは、一つの形式、『監獄−形式』、一地層上の内容の一形式であり、他のもろもろの内容の形式(学校、兵舎、病院、工場)と関連している。ところで、この物あるいは形式は、『監獄』という語にではなく、まったく別の語と概念にかかわるのである。例えば、犯罪行為を分類し、言表し、翻訳し、実行しさえする一つの新たな仕方を表現する『犯罪者、犯罪行為』といったものに。『犯罪行為』とは、『監獄』という内容の形式と相互に前提し合う表現の形式なのである。」(p87) 私なりに解釈すると、犯罪行為と監獄生活は等価ではない。ずれている。指令語、社会的権力が強引に両者を結び付けているに過ぎない。昔は犯罪行為と仇討ちが相互に前提し合っていた。江戸時代が遅れていて今日の監獄がより整合しているのではまったくない。相互前提は理想を云っているのではない。現状を解析した結果である。内容と表現の差異・落差を忘れてはならない。両者は決して等価ではないということを……。 「表現の形式とはもろもろの語に還元されるものではなく、地層とみなされる社会的領野に出現する言表の集合(それがまさに、記号の体制である)に還元される。内容の形式は、物に還元されるものではなく、力の形成体としての複雑な物の状態(建築、生命プログラム、等々)に還元される。そこにはいわば、たえず交錯し続ける二つの多様体が、つまり表現の『言説多様体』と内容の『非言説多様体』が存在するのだ。そしてそれは、内容の形式としての監獄がそれ自体その相対的表現をそなえ、つまり、監獄に固有のものであり、犯罪の言表とは必ずしも一致しないあらゆる種類の言表をそなえているために、それだけいっそう複雑なのである。逆に、表現の形式としての《犯罪行為》はそれ自体、その自立的内容をそなえている、というのも、それはただ単にもろもろの犯罪を評価する新たな仕方を表現しているだけでなく、犯罪を実行する新たな仕方をも表現しているからである。内容の形式と表現の形式、監獄と犯罪行為は、おのおのその物語、ミクロな物語、その切片をそなえているのだ。」(p87) 相互前提では犯罪行為が新たな犯罪行為の仕方をも表現しているのだという。内容の世界に介入して行くこと。セクハラ、ストーカーという犯罪行為の表現が新たな犯罪を引き起こしてしまうことは通り魔の連鎖反応と同様に事実だろう。通り魔やストーカーの新たなバリエーション、これはバーチャルが現実に近づいたからではない。表現と内容の世界が互いに独立しつつも相互に前提しあっているからである。表現が内容に近づいたからではない。両者が紛れたからでもない。 「……ストア派である。彼らは、身体の行動および受動(『身体』という言葉には、最大の広がり、つまり、すべての形成された内容という意味が与えられる)と、非身体的行為(言語による『被表現』である)とを区別する。内容の形式が身体の組み合わせによって成立するように、表現の形式は被表現の連鎖によって成立するのだ。ナイフが肉体の中に入り、食物や魚が身体に入り、葡萄酒の滴が水の中に注がれるときには、身体の混合が起きる。しかし、『ナイフが肉を切る』、『私は食べる』、『水が赤くなる』といった表現は、まったく異なる性質の非身体的変形(事件)を表わしている。」(p106 〜P107) 「------そして、表象もまた身体である。…… 身体的でない属性を表現しながら、また同時にこれを身体に帰属させながら、人は表象するのでもなく、指示するのでもなく、いわば介入するのであり、これはまさに言語の行為なのだ。表現と内容という、二つの形式の独立性は、これによって反駁されるのではなく、逆に確認される。もろもろの表現、または被表現は、もろもろの内容を表象するのではなく、それらを予感し、それらに逆行し、それらを緩慢にしたり、また加速したり、分離したり、または結合したり、あるいは切断したりするために、内容の中に挿入され、介入する。瞬時的な変形の鎖は、つねに連続的な変容の組み合わせの中に挿入される。」(p107) 表象が身体である、ということからマニュアルが何故つまらない文章になっているのかが説明される。マニュアルは表現からではなく内容の世界、機械から、機械に従属して生まれ出てきた言説だからである。非言説多様体の一部なのだ。 表現、被表現の働きとしては、コマーシャルの役割、ブーム、景気の低迷報道とその加速、デマによる商品の買い占め、などいくらでも例はあげられよう。 「表現の形式と内容の形式の独立性は、二つのあいだにいかなる平行関係も、一方の他方による表象も成立させることはないが、逆に、二つのものの細分化、表現が内容に挿入され、一つの特徴から、他の特徴へと人がたえまなく跳躍し、記号が物自身に働きかけると同時に、物が記号を通じて拡張し、展開していく仕方を確立するのだ。」(p107) 記号としてのブランドは物自体を支配してしまうくらい決定的な力を持つケースも見られる。ルイ・ヴィトンやシャネルのみでなくアムラー?やシノラー?たまごっち、ルーズ・ソックスが社会現象にまで発展したことなど注目すべきだろう。 また一度出来てしまった(物にまつわる)監獄制度が犯罪者に対する処罰の仕方を拘束しつづける(拡張し展開していく)ことも見逃してはならない。霞ヶ関の建物とて同じことが言える。都庁のあの姿も……。 犯罪行為は社会の秩序を乱す、反社会的な行為であるからその償いは社会に対する奉仕活動がもっとも適している処罰である---と考えられていた時期もあった(『監獄の誕生』)。アメリカの判決には社会奉仕何日と付いてくるがその方が整合的だろう。刑務所の数が足りない、また訴訟社会だからということを割り引いても懲役より理にかなっていよう(それは等価性が信じられていた時代の言説だからである)。しかし完璧な等価性は有り得ない(程度の差があるだけである)。 フーコーによれば監獄制度とは社会全体の制度の一つとしてそのバリエーションに過ぎないことになる。学校や病院や工場や兵舎と同じ制度仕組みで度合が違うだけ、というわけである。 彼の問題にしているのはミクロ物理学、身体の攻囲による権力。つまり規律訓練の権力である。学校・病院・工場・兵舎・監獄、みな訓練で人を矯正してゆく。近代社会全体が同じ一つの認識によって成り立っているから度合による偏差しかない制度が出来上がる。内容=形式としての建物とその生命活動のあり方に実は縛られつづけている近代社会という考え方……。家や植民地を足せば人間はどこに居ても基本的にはたいして代わり映えのしないことが解る(監視社会・管理社会)。
表現の形式と実質との関係についても見てみよう。 「表現の形式的特徴は、さまざまな形式的言語の中にしか存在せず、形式化すべき一つあるいは複数の実質をともなうのである。実質とは何よりもまず音声的実質であり、それがさまざまな有機的要素を、単に咽頭のみならず、口と唇、そして顔面の顔全体のあらゆる機能を作動させる。」(p81) 演劇は身体活動(内容)に見えるがその身体は既に表現者としての役者の身体である。身体=表現の形式。生命活動をしている肉体ではなく表現の形式として我々は見ている。犯罪行為・犯罪者も(肉体という実質を持っているが)その本質は犯罪行為、犯罪の形式=表現と云えよう。有機的なものから無機的な劇場とか犯罪では証拠調べの凶器とかも形式化された実質である。世界は表現と内容に厳密に区分するというよりも重なりつつ介入・挿入し合っている---二重分節とはそのようなものだろう。 「科学的世界は、……十全に脱領土化された記号体系への翻訳として、つまり言語に固有の超コード化への翻訳として出現する。こうした超コード化ないし超線形性の特性こそが、言語には単に内容に対する表現の自立性があるだけでなく、実質に対する表現形式の自立性もまたあるということを説明してくれるのである。つまり翻訳が可能なのは、……同じ一つの形態がある実質から別の実質へ移行しうるからだ。」(p82〜83) 表現の形式化はまず実質(音声)を伴って実現されるのだが、そこにとどまっている分けではない。そこから離陸し遊離し浮遊して行く(超コード化)。 表現による内容の世界の認識可能性(科学)を問題にしているだけでなく、認識された世界を印画紙にフィルムに紙とインクにと置き換えられること。実質が移行すること。このことは既に表現の形式が実質に対して自立性を獲得している証しだと言っている(形式のみの存在)。実質の移行とは例えば印画紙からの更なる移動性。印画紙からパソコン画像へ、画像から印刷へ、また画像をデータ化(数量化、ビット化)しフロッピーにコピーしたり変換したり貼り付けたり出来る、ということが表現形式の自立性、紙や磁気素材(実質)からの自由(脱領土化)をも現している。実質にこだわらない、何物にも依存しないというメタ・レベル(超コード化)への翻訳可能性を証明するのである。 「人間のあらゆる運動は、およそ最も暴力的なものでさえ、もろもろの翻訳を前提しているのである。」(p83) 表現形式の実質(素材)間の移行だけでなく、翻訳(科学的認識)は内容(身体行動)への介入まで射程に入れなければならない。あらゆる運動は言語活動と絡みあって言語内行為として実行される。知的な行為のみではなく、人の行動はいつも知を基盤にしている。言語が行動を指図・命令していると言い換えてもいい(指令語の世界)。最も暴力的な戦争でさえ情報収集とその分析がいかに勝敗を決定するか、湾岸戦争が明らかにしていたが、それは古代の戦闘でも日本の戦国時代でも、サッカーの日韓戦でもいわば自明のことであろう。Jリーグの中に韓国選手がいて、韓国リーグには日本選手が居ないということ。情報戦では既に負けていたのである。日本の隠し玉、呂比須(ロペス・ワグナー)のデータは韓国Jリーガーに因ってもたらされてしまったと推察される(同じチームだったようだ、ベルマーレ平塚)。余りいいことではないがJリーガーからアジアの選手を排除するくらいの覚悟が必要だったのかもしれない。情報戦として。韓国リーグに日本選手を入れて合法的に情報を収集しなければいけなかったのかもしれない。韓国のストライカーがアマチュア選手だったとはまさに隠し玉だったような気がする。そんなことをしなくても勝てる実力があればいいのだが……アトランタ・オリンピックで日本チームがブラジルに勝てたのも情報量の差が一因であったと思うのだがどうだろうか……。Wカップは国と国との戦争だとは良く云われる。日本全体のその認識の甘さが選手に乗り移ってしまったのは事実だろうし、そこに敗因もあったろう。認識とは恐ろしいものだ。実力を生かすも殺すも情報(科学的認識=翻訳)次第なのである。 「『見えるものを口で言ってみても無駄である、見えるものは言われることのうちには決して宿りはしないのだ。』……すなわち、読み書きの学習における表現の形式化(それに固有の相対的内容がある)、および事物の学習における内容の形式化(それに固有の相対的表現がある)。」(p88) 作文とかノン・フィクションでもいい。表現の形式の評価は現実に対して為されるのではなく、他の作文や他のノン・フィクション・文芸作品に対して相対的に行なわれるべきであることを言っている。作文の内容とは書かれたことの事実なのではない。他の作文に対しその作文自体が差異としての内容を持つのだ。相対的内容とはそういうことであろう。差異・比較が固有の内容を作るのである。富士山が南アルプスに対して相対的に表現となることに対応している。
バーチャル・リアリティーの内容(相対的内容)の評価とは現実の事物に対して(近づいたとか良く似ているとか)為されるものではなく、他の表現の形式に対して初めて特徴的な内容を持つと考えて良い(記述の内容、物語)。他との差異が表現の質を生み出す。差異が性質をそして特質を作り出す。そして(相対的)内容までをも作り出す。固有の内容とは差異の別名でもあろう。 《補足》 内容(非言説多様体)の独自の言説とは何だろう。内容の言説とは例えば業界用語で成り立っている、と言えようか。TV局のやらせとか未放送のVTRを宗教団体の圧力に屈して見せてしまった問題でのTBS側の歯切れの悪い論理。やらせの釈明の原理などに現れているものだ。それに対する放送(倫理)に関する言説の側。これには放送評論家だけでなく文化人や世論やマスコミ、作家や法律家など……が参戦して議論をかわしている-----という領野がある。結論からいうとTV局側の資本の論理、視聴率という経営のシステム(効率)にまつわる理論とは領野が違うのである(TBSの訴訟に対処するという非生産的無駄の排除)。表現の領野とは議論が噛み合う筈が初めからないのである。解決は有り得ず、力で捻じ伏せる式の言説の内容への介入が見られた、というのが結末としてあったろう(TBSのワイドショーの消滅)。 国民を隠れ蓑にした批評家たちの言説と大蔵省の訳の分からない住専処理の攻防のケースもそうだった。代議士・政治家さえ手が出せない大蔵省という建物にまつわる独自のシステムにおける大義名分?の、実は自己保全に過ぎない言説(一切の責任遁れ)が繰り返されていたのは誰の目にも明らかだったろう。今回の行政改革の案(何時の間にか消えていた一番の目玉である大蔵省分割案)への抵抗でも見られた。言論界という政治言説の領野とは土俵が違う言説が大蔵内部を支配していて、議論がまったく噛み合っていない現実。そしてそのゴリ押しの強さ!! 言説・表現の領野があるべき姿の追求によって為されているのに対し、TV局や大蔵省は非言説多様体に付随した別の言説を持っていたのだ。 俳優は表現の肉体を持って表現の領野で活動しているように見えるが、そのプロダクションは資本の論理で役者を商品として見るのは当然のことである。スキャンダルが起きる度に事務所は商品価値を優先し、下がらぬように奔走しているではないか。リポーター側は報道の自由?という理想論で追う。 映画のプロデューサーと監督との確執も同じである。前者が経営でものを言い、後者がより良い表現という立場で発言するから解決は不能に陥ってしまう。解決は永遠になく妥協あるのみ。力あるのみ(監督と球団側も……!?)。 編集者は原則的に出版社側の売れるという論理で作家に対しているだろう。作家は良い表現という表現の領野の言説で対抗する。そこにも表現と内容の非連続な領野の溝が顔を出している。文芸にまつわる言説、つまり批評家を中心とした作品評価の言説空間が出版業界の生き残りの論理と噛み合わなくて当然なのである。視聴率やベストセラーが目的の言説と表現の理想の原理は力関係で押し合うしかない、そして互いに介入し合っているのである(利用し合ってさえいる)。内容側である筈の編集者がいつのまにか表現者の領野・背後に立っていることもあって、そういう人が名編集者としてクローズアップされたりするものだ。 未放送VTRを力ずくで見せさせた宗教団体の方法がまさに力、圧力であったのは当然である。言論の正しさより言説が圧力とならねば内容には介入出来ない、というのが現実であろう。 まさに圧力……。政治力なのである。(97 10 11) 《補足の補足》 堺屋太一によれば、通産省では毎日残業と称して(職員は)議論に花を咲かせていたそうである。この場合の彼らは職員の拘束を離れて言論の言説の領野でものを言っていた、と推測される。行政職での省内の紋切り型の言表から零れ落ちた思いを仲間にぶつけている構図が見えてくる。つまり同じ人間が二つの言説の領野で板挟みになって生きていることが解るのである。 編集者も同様に出版社内部(内容)の効率(利害)から出て来る指令と私的な出版に対する理想、文化をめぐる言説多様体での個人の立場という二つの領野に挟まれて生きている。二重というのはそういう意味である。 フォーカスの利益で純文学や児童文学の出版をまかなっていても不思議ではない。ドラえもんで本社ビルを建てた出版社もあった。純文学の雑誌は業界誌に過ぎないと云われて久しいが、だからといって卑屈になる必要はない。純文学は出版社の看板なのであり、今でもイメージとして出版社を支え、社の存在理由を担っているのだから……。良いと判断した作品を出版し、それが売れれば一番いいのだが、最近はタレント本に見られるように計算できる本ばかりが目に付く。 言論界の言説と内容に付随する言説だけが対立するのではない(対立というより噛み合わない)。言論言説の領野内での意見・見解の対立・抗争・論争も(フーコーは)同じ領野の部分だと言っている。対立も呑み込んで一つの言説多様体なのである。与党や野党や立場の違う評論家やマスコミ・世論の対立・抗争・同化をも含めて……一つの言説多様体の領野なのである。(97
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