三章 「満州国」アヘン専売開始

第2節 「満州国」内のアヘン市場シェア独占へ

1 「混沌とする『満州国』黎明期のアヘン市場」

●公然と営業を始めるアヘン店

 満州事変で張学良の勢力が駆逐されると、封じ込め政策で満州鉄道付属地に押し込められざるを得なかった。押し込められた日本・朝鮮の関東庁アヘンを取り扱う商人たちは、日本軍の進出と共に満州各地で商売をはじめることになる 。満州事変の前までは取締りを受けていたために隠れて営業をしていたアヘン商人も、事変後には公然と看板を掲げて目抜き通りで営業を開始することになる。奉天では日本商店の大部分が隠れていたのを大々的に商売を始めるようになったため、新規開店のアヘン店はその数は600以上、奉天城外の大西関と小西関では150軒にも達した。奉天に留まらずハルビンでは中国人街の傅家甸にアヘン店があったが、目抜き通りのキタイスキー街と大正街に500店が出店進出した。市全体で1000軒に達する。そして吉林に800軒、チチハルに500軒、営口に500軒と、煙館と麻薬店が急増する様子が、張学良撤退後の空白地に見られた。

●取締まる権利を持たなかった初期「満州国」

 奉天でのアヘン店の出店者の割合は日本が4割、朝鮮が5割、中国が1割で中国人は日本人用心棒を雇って営業の安全を確保し、「治外法権」で守られていることを照明するために幟として日章旗を掲げて経営をしていた このため、現地の人は日章旗がアヘン店を示すマークであると勘違いすることも起きていた。中国東北部に旅行した日本人が、中国の奥地まで日章旗があるのを見てこんなところまで日本の栄光が届いていることと、民衆の敬虔さに感動したことがあるという、「にほんむかしばなし」に出てきそうな笑えない話も残っている。
 この盛況ぶりは、「満州国」は政策を東北軍閥と同じようにすると宣言してしまったため、日本・朝鮮人を取り締まることができなかったことに起因する。現実に1931、32年と関東庁のアヘン専売益金が増加したことと、関東庁警察の没収アヘン量の増加からも、日本の進出ぶりをみることができる。
 満州事変の動乱のため、今まで東北軍閥下である程度のアヘン規制の枠があったが、それが外れてしまったために自由な商売活動を行っている店舗が林立してしまった。それがアヘンフリーマーケットの形成であり、そこでは関東庁アヘンであれ熱河アヘンであれ、さまざまなアヘンが「満州国」政府からの統制を受けずに流れ込んでいた。

 アヘンフリーマーケットの問題は何を置いても専売の妨げになることである。効率のよい専売を目指すなら政府が販売請け負うのが一番である。そうすると、フリーマーケットは密売市場ということになる。そうであれば専売を行うということは、まず混沌とするアヘンのフリーマーケットの管理が必要である。そして、フリーマーケットの解消のためには、政府主導で違法な業者が取り扱うアヘンは没収あるいは買い上げをして、商売を禁止すればよい。そして、そこで得たアヘンを政府が再び管理の下で売り下げれていくことで利益を上げることができるという効果も見込める。




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