三章 「満州国」アヘン専売開始

第3節 アヘン獲得に奔走する「満州国」

  
2 朝陽寺事件と熱河アヘン


 「満州国」のアヘンの専売は関東軍の中でも高い関心事で大いに議論され、そこでも根本的に専売アヘンの不足が問題とされた。そこで関東軍から入手源として名前があがったのが熱河であった。アヘンの専売体制設立の大きな役割を担った古海忠之は、「関東軍が亜片産地たる熱河省を侵攻すると同時に、亜片政策は財政収入確保の緊急必要を理由とし、早くも採用せられることになった 」と証言しているように、熱河作戦の必要をアヘンの面からも見出しているのみならず、熱河をアヘンのひとつの大きな流入源とみなしていた。

●秘境・熱河

 ところが、熱河は日本にとって秘境の地と見なされていたていた。というのも熱河では1921年にケシの栽培が解禁され、アヘン吸飲も規制されていなかったため、仮に商人が密売アヘンを持っていっても、あまり収益を上げることができなかったために、日本・朝鮮人は好んで進出しようとしなかったために、日本側にとって縁遠い地域とみなされていた。そのため、従来戦争開始の口実として使っていた「日本居留民の保護」という名分では、熱河には侵攻することは難しかった。そのため、熱河支配者の湯玉麟の名前を「満州国」の建国宣言に加えたり、熱河省長兼熱河軍区司令という肩書きを与えたりして「満州国」の体制になんとか組み込もうとしたが、湯はそれを突っぱねた 。これを受けて「満州国」を建国者たる関東軍はすぐに熱河に侵攻することは難しいと判断し、「満州国」は湯玉麟を熱河の取引を通じて取り込もうとする方針を採った 。

●石川権四郎拉致

 そこで「満州国」が熱河アヘン入手のキーマンとして任命したのは石本権四郎である。彼はかつて関東庁にいた時代にペルシャアヘンが大量に余って関東庁が窮すると、中国人商人への大量売り下げに成功したという功績があった。そのときに功績に対する見返りとして熱河アヘンの取り扱いを認められて彼は財をなした。即ち彼は熱河での活動経験があるだけでなく、湯玉麟とも個人的に交際があったので、熱河アヘンの買い付けに行く者として適任だった。
 石本は命を受けて4月半ばに交渉のため承徳に向けて奉天を発つと、7月のはじめには買い付け交渉は成功した。ところが、交渉が成功し帰路の朝陽寺で石本権四郎が義勇軍に拉致されるということで、この交渉は頓挫した 。この拉致事件を朝陽寺事件という。

●朝陽寺事件を呼び込んだもの

 朝陽寺事件は熱河のなかで湯玉麟の手の届かないところで反満抗日の義勇軍が蜂起した事件である。これは私の推測だが、義勇軍の中には満州に残った張学良の部下たちもいたと思われる。これは石本権四郎が「満州国」側にアヘンと利権とをもたらすものだと知った義勇軍が、石本を拉致してアヘン輸送計画を頓挫させようと狙ったものではなかろうか。
 なぜ義勇軍側に情報が流れたかというと、石本の熱河訪問は隠密行動ではなく、比較的公然の情報であったからではないか考える。朝陽寺事件は日本でも東京朝日が「アヘン取引交渉のため」と石本の熱河訪問の意図と交えて報じられていた。民間の新聞社が容易に手にいれることができる程度の情報であったのだ。その記事を見て驚き慌てた外務省が内務省に「満州国」のアヘン専売の記事の差し止めを命じたほどである。もし、そうでなければ熱河側の日本を憎む人間が張学良や義勇軍に情報を流したのかもしれない 。要するに、熱河では中国側の抵抗が強く、いまだ日本・「満州国」を歓迎する状況ではなかったことを象徴する事件であった。

●朝陽寺事件の後始末

 石本の拉致は「満州国」と熱河の間に軍事的緊張を生み出した。ところが「満州国」としては軍事行動を起こそうにも北満で反乱が起きていて、およそ熱河に軍事力を裂くわけには行かず、さらに悪いことに折しも7・8月と高粱の繁茂期を迎えて奇襲攻撃の危険があって軍事的に不利な状況であった。更に偶然人事異動の時期にあったので、これを機会に熱河に攻め込むには分が悪かった。石本救出のために関東軍は熱河に侵入すると熱河軍と小競り合いが起きたが、「満州国」としては穏便に済ませたかったので湯政権と「石本の釈放」と「北票支線の交通統制」の約束を取り付けると、7月22日には朝陽寺から早々と撤兵した。
 しかし、義勇軍側が石本の解放に応ぜず、8月19日に直接交渉に向かった「満州国」の一団が汽車で襲撃されると、悪化する熱河情勢の中、もはや石本の救出はおろか熱河アヘンの入手もあきらめざるを得なかった。東北における張学良政権崩壊後にも残った東北軍閥の影響力をうかがい知ることができる。


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