kr_ryo 徒然日誌 <2003年1月12日分>

三國志製作記10〜いったいどこが隘路ですかー?〜

新年明けそうそう、会社のイベントやら新年会やら研修やらがてんこ盛りで、先週がまだ正月休みだったなんて信じられませんねえ〜すっかり朝早く出かける生活に戻ってしまいました。けれども夜遅く寝る習慣は変わらず、寝不足と二日酔いで…(;_;)

さて、今週から(^^;は先週の予告どおり三國志制作上の蜀桟道=隘路を文章化して公開して、整理してみやうと思っております。一部chagatai様のご好意により調査いただいておるものも含まれておりますが、歴史上の疑問&ゲーム上の疑惑(?)、歴史上の表現とゲーム上の表現の対立などが整理できたらなあと思います。さて、うまいこといくかどうか…?

広域行政長官の扱い

具体的にいうと、koeiの信長の野望・蒼天録とか、三國志8にみられる軍団長という身分についてです。三国時代でいうところの牧や刺史、大都督といった役職についてですね。たとえばこれは、荊州を抑えていた関羽の役職を表現するためなんですが、この場合は刺史でもいいような気もします。しかしながら関羽は実際は総督荊州軍政という役職だったそうです。後で述べますが、この手の個人的に与えられる名称はゲームで表現しづらいし、そもそも必要でないかもしれませんね(^^;

いずれにせよ、歴史上もそうであったように、君主以外のキャラに広域行政長官とさせたいということもあれば、プレイヤー自身もただの太守でなく、劉表や陶謙が任じられていた刺史や牧といった職につくことができるというのもおもしろいかな〜とも思います。ここで仮に、刺史という職をゲーム上で表現すると生じると思われる問題点を述べてみます。

まず、どの段階で刺史になれるかです。州を構成する各郡(城)の全てを支配下に納めれば刺史になれるとすると、逆に1城でも奪われると刺史から陥落します。これではゲームとはいえおかしい気がしますね(^^;そもそも刺史は太守の監察が主要な職務でしたが、だんだん行政長官化していったようです。陳舜臣版三國志では、劉表は最初、家来も数人しかいない刺史として荊州に赴任して、得意の見た目と教養と弁舌で豪族や太守を味方につけていき、曹操に対抗できる群雄の一人とみなされるまでになりました。その子が世襲で荊州刺史につくのもある意味当然とみなされていましたね。しかしながら最初は単なる役人的刺史で、実力で君主的刺史にまで登ったともいえます。とすると、刺史は支配の結果でなく支配のための権威であるともいえます。刺史だからこそ、隣の郡の悪い?太守を武力討伐するのもOKだ、とか(^^;とすると、全州支配が刺史となれるというのでは、ゲーム上あまり特典もなく、必要がないような気がしてちょっととり得ません。また、歴史上も、益州・荊州・揚州は全て一部魏の支配地となっていたため、呉や蜀はずっと刺史が置けなかったということにもなります。

また、州都を抑えていると刺史になれるということも考えられます。たとえば成都を抑えれば益州刺史、薊を抑えれば幽州刺史であるとか。しかし、歴史上は刺史の赴任地が州都であって、主客転倒であるような気もします。また、州都は固定すればよいんですけど、時代によって変わっていますし、劉備は赴任せぬまま豫州刺史に任じられていましたね。州都を抑えれば刺史というのは、ゲーム上の表現は簡単ですが、何はともあれ州都を抑えるというプレイになってしまいそうです。また、州都の太守が刺史となるとするか、州都を抑えている勢力の君主が刺史となるかも問題です。前者はルール上はきれいですけども、プレイとしては君主が州都を離れられないという妙な現象が生じそうです。後者では、プレイヤー以外のキャラは刺史にはなれません。よくあるルールですが、これでは関羽を刺史にはできませんね。また、そこまですると華北の群雄は多くの刺史を兼ねれえますが、そうするとどうも刺史に値打ちがないような気がしますね(^^;その程度の内容を表現しないといけないのかどうか疑問です。

土地を抑えている、抑えていないにかかわらず、任命制にするという方法も考えられます。この場合誰が任命するのか、任命に足りる場合というのはどういう場合か、ということが考えられます。後漢時代なら任命権者は当然皇帝でしょう。しかし、董卓や曹操が丞相となって国政を左右するようになった場合、彼らが事実上任命しているようなものです。とすると、皇帝を抑えているプレイヤーにも任命権を与えてもよさそうですね。皇帝や丞相が勝手に任命する(これが原則)こともあれば、申請により任命されることもあるでしょう。董卓時代によくあったように、群雄が勝手に名乗るというのもよさそうです。後漢滅亡後はどこに申請するかは問題です。いや、この場合は各君主が勝手に名乗ればよいかもしれません。しかしながら、勝手に名乗ると、重複の問題が生じますし、その名乗りにどれだけの意味をもたせるか問題です。さらに、こんだけ刺史についてややこしいことになっているのに、歴史上まったく同じで皇帝による任命制で、より権限も大きかった(逆に支配範囲が狭い)太守については君主が勝手に任命するというのでは、バランス悪いですよね〜(-_-)

ゲーム上で扱われる太守との関連でいうと、刺史は結局内政を行う者としては具体的な権限があまりないんですよね。信長の野望・蒼天録などのように、軍団長が複数の城に軍事的命令を出すことのできる君主代理的身分であれば意味があります。となると、特段州の範囲にしばられる必要がありません。もっとも、複数の城に命令を出すだけの広域行政長官のその支配範囲は通常州単位でした。郭淮は諸葛亮と雍州刺史として戦いましたし、陸遜も将軍号、大都督位の他に荊州牧として荊州経営を行っていました。う〜ん、そうすると意味があるような…

前回もお話したように、コンピュータ武将が使えるならば、どんどん任せてしまってプレイヤーがすることがなくなり、コンピュータ武将が使えないならば、どんどん直轄にしてしまって、プレイヤーが何もかもすることになります。信長の野望・蒼天録のように、他の城には直接命令ができないというルールの下においても、軍団長に任さねばならないということまではいえません。君主の1軍団だけでいいはずです。しかし1軍団長の複数城の支配数に限界を設ければ、これまた軍団長が必要になりますが…いずれにせよ、コンピュータ武将の思考ルーチンによりますね。諸葛亮や陸遜が刺史として馬鹿な戦争命令を下すのを見るくらいなら直轄にしていた方がまし…

なんだかどんどん袋小路にはまっていっている気がしますね(^^;どれも一長一短、もう一度はじめから考え直してみましょう。そもそも、君主以外が広域行政長官として複数の城に命令を下す必要が本当にあるのは、内容が重要で、緊急な自体が生じた場合、すなわち戦争が生じた場合くらいでしょう。関羽もそうでしたが、どちらかというと軍事的な必要性から州全体の軍事的内政を行っていたと考えられます。漢王朝がそもそも地方には郡太守レベルまでしか置いていなかったのも、あまり大きくすると強大になりすぎるからでもあり、内政の実務を行うにも不適だったからだと思います。三国時代に至る時代では、君主の支配範囲が広くなり、各郡が独立して防備するよりも、州単位で軍団を擁して防備した方が有効であったんでしょう。しかし、物語で読む範囲では、なんだかやはり国家単位か、城単位で行動しているような(^^;荊州や雍州、豫州といった前線地域では軍事的に重要とされるため、軍事行政が州レベルで一体化する必要があるんでしょうが、その他の地域では州レベルでの行政は重要視されていない…名誉職?でしょうか?それとも本当に行政を担当していたのか…?

だいたい、日本の県と中国の県が同じサイズで、日本の道と中国の郡が同じサイズ、益州やら荊州といった州レベルでは日本全体と同じサイズになりかねないのに、その州の長官が具体的個別な内政を行っているというのもやはり考えにくいですね。う〜む、どうしよう。それでも関羽に荊州を任せてみたい!(^^;;;

ということで、なんと刺史問題だけでこんな風になって、まだまだ終わりそうにありません。結構長くなったので、今回はここいらへんで水を入れたいと思います。私もまだまだこれからも考えていきたいと思いますが、読者の皆様も、こんな風なのがいい!といったご意見があればどしどしお寄せくださいませ。。。m(__)m

index

〔TopPage〕

このページへのリンクはフリーです。
このページについてのご意見、ご質問などは、kr_ryo_green@yahoo.co.jpまでお願いします。
Copyright 2003© kr_ryo All rights reserved.
訪問件数