10年以上昔、私が小〜高校生のころはボードゲーム版(すごろくのような感じ)のウォーシミュレーションゲームで遊んだり、リプレイ記事を読むのが楽しみでした。その頃のパソコンやファミコンでは解像度が荒かったため、紙の印刷の美しい表現力、広いマップにはとても及びません。ただ、遊びやすいかというと全く遊びにくく、紙のユニット(駒)を並べたりするだけで一苦労、しかもやたらと時間がかかっても、もちろんセーブロードなんかできず、風が吹かないよう掃除をしないよう保管するのが大変でした(T-T)
そう考えると、美しくて広いマップ、最大8000ユニットの一人一人に手軽に指示の出せるコサックスなどのパソコンゲームは大幅に進化しています。専門的にいうと、戦術〜作戦級のリアルタイムストラテジーゲームはその手のボードウォーゲーム発祥の地アメリカで、紙からパソコンへ常に進化し続けているといっていいでしょう。
リアルタイムなゲームがリアルタイムな戦闘戦術が重視されるのと同じように、シミュレーションゲームは古のボードゲーム版の頃から、戦術〜作戦級がメインでした。じっくり考えたり、考える時間の多くは個々の戦闘や作戦であって、それを超えた戦略級のものは少なかったと思います。実際騎士や兵士、兵器に戦車、戦艦といった個々の部隊の戦いがどこかに現れていないと、やっぱり何か物足りないんでしょう。たとえ戦略級であっても、個々の部隊の違いがどこかに現れていたり、戦略画面とは別のがらっと異なる戦術画面があったりします。私のSWGも、個々の艦種の違いがあったりしましたね(^^;
けれども昔から私は、個々具体の戦闘を超えた戦略級のゲームがやりたいと思っていました。もちろん戦術作戦級のゲームも面白いですが、どのルートで進軍をするというプレイを超えた、どこにどんな軍団を配置して、どこを攻めるかといっただけのプレイもしてみたい。SWGでは随分それを表現できました。けれども、三國志において純粋に戦略級のゲームにしようと思ったら、武将も抽象的な扱いを受けるんでしょうね。名前もないような。しかしそれはどうも作ろうとしているのとは違う(;_;)さらに各数値も細かい違いなんて無視して、経済力とか兵力も10単位までが限界になるまで抽象化されるのがよいはずなんです。個々の戦闘方法や地方の状態細かい内政状態なんかを気にして国家の戦略は立てられません。そういうことこそ、将軍や太守に任せるはずなんでしょうね。もっとも、三國志の時代の英雄君主は自ら先頭に立って戦ったり作戦を立てたりしてましたが(^^;
必ずしも戦術級とか戦略級とかの型にはめて考える必要はないですが、この発想を失うと中途半端なゲームやシミュレートになったりするとは思います。例えばどうしてもモデルになるkoei版三國志。赤壁の戦いとか白馬の戦いをモデルにしているわけでないので(そういうゲームもありますね)、戦略級のゲームとしてデザインされていると思います。個々の戦場で戦闘画面に移って細かく指示を出して戦うというのも、戦略級戦闘としてあってもよいとは思います…(もっとも、三國志8になってどの戦場も似たような地形になったのは気になりますね。以前のバージョンではどの戦場にも個性があったような?)
しかし、物語上の登場人物がそうであったからでしょうが、登場する武将は高級武将がほとんどです。まあ君主が地方太守とかの身分であったときは、まわりの臣下は高級とはいえませんけれども(^^;、その時のエピソードにおいても、将来高級になる武将で、ある程度高級な人物として登場してたと思います。劉備の旗揚げのときから兵士として従い、劉備の入蜀に至ってようやく隊長になったような人物もいたでしょうが、物語には登場しなかったでしょうね(^^;もちろん諸葛亮の下で長年働いていた丞相府の事務官吏とか、陳羣の命を受けて九品官人法の細則を考案していた法務官吏などは登場しません。いたのかどうかも今となってはわかりませんって、当たり前ですね(^^;;;逆にたとえば徐州時代の劉備の下にいた陳羣はその時代には全然物語には現れませんが、高級文官でなかったうえ、将来的に魏の人となったからでしょう。ゲーム上でも当初から劉備配下として登場することはあまりありませんね。
ここから考えると、物語に現れたからといって、ゲーム上に登場させた武将には何でもやらせればいいというシミュレートは不自然であり、逆に登場武将がいなければ何もできないというシミュレートも不自然ということがわかります。というのは、まず何でもやらせるというシミュレートについては、物語に登場した武将は高級武将であって、基本的には雑用をさせるようなレベルではないはずだからです。戦略級ゲームで武将として登場している以上、高級なはずで、単なる兵隊とか隊長といったレベルであるならば、他の兵隊とか隊長が登場しない理由がありません。もちろん物語に登場していたから…という程度で登場していることはあります。けれどもそれによって他とのバランスが崩れています。客観的に見て能力があるという理由だとしても、そういう人物が数えられるほどではないはずで、歴史に現れない優秀な人物はもっとたくさんいたはずでしょう。逆に、物語で登場していたから出ているだけの人物は、能力が低かったりして、存在意義がないことが多かったりします。陸遜などの将来の高級武将の下積時代として登場していることはありでしょうが、単なる隊長としての登場ではおかしいんでしょうね。もし単なる隊長が登場するとか、単なる事務官吏が登場すると、それに応じたコマンドを準備することになり(そうしないとそれこそ存在意義がない)、当然人手が足りなくなって高級武将をはめることになり、あげくに内政するにも武将が足りない!というプレイになってしまいます。
そう、戦略級ゲームに登場する武将は、その存在が一国を左右するだけの将軍や高級官僚などでなければなりません。そしてそういう武将達にしていただくコマンドはそれに応じた内容であって、弓矢の調達なぞではありません(だから周瑜が諸葛亮に命じたのは嫌がらせのためなんです)。そしてそれは、もちろん君主としてのコマンド全部に言えるのであって、いちいち細かい指示を出すのはおかしいのです(だから諸葛亮がいちいち細かい指示を出していたことが滅私奉公の美談として、また蜀の人材不足にも、諸葛亮個人の能力の高さとしても語られるのですが、司馬懿にしてみればもはや蜀は敵ではないと思わせる理由でもあり、皮肉な見方をする人の、事務量の少ない小国の宰相としてなら立派だという評価につながるんでしょうね)。そう考えると、三國志7〜8の内政コマンド、戦略級ゲームで抽象的とはいえあそこまで細かいレベルでの指示を出さなければならないのか疑問に思います。郡レベルとはいえ、どの武将も事務長官が勤まるレベルであるはずの者が登場するべきであって、具体的な細かい指示は長官の下の登場しない中下級役人が行うべきです。
ここから、逆にたとえ高級事務長官がいなくても、中下級の役人がいれば結構なことができる、すなわち登場武将が必ずしもいなくても何かはできるという理由となります。北伐時の諸葛亮は高級事務長官クラスをほとんど全て兼任したうえで、中級役人の業務まで取り行ったというのが物語で語られています。まあ諸葛亮クラスの武将はそうはいないでしょうが、武将がいないから何もできないというシミュレートは不自然といえます。登場しない人物がたくさんいてたはずでしょうから。それをどれだけ効率的に動かせるかどうかという問題で、可能不可能という問題ではないと思います。こう考えると、ある種のコマンドの実行には必ずしも武将を必要としないとするべきです。
戦略級ゲームという観点で、だんだんコマンドや武将の扱いが見えてきました。以前の話題で、内政をしこしこ行うプレイも楽しいというような発言をしていましたが、単純に同じコマンドを繰り返させる、繰り返すようなシミュレートはやめた方がいいですね。それよりも、常時誰かを張りついておくようなコマンド、特命的に命じるコマンドの双方があるのがよいですね。それと、中国特有の役人に対する不正の監察制度。太守は各県長等を、刺史は太守を監察する役目がありました。これを取り入れ、能力が低かったり監察がいなかったりすると、下級役人が不正を行ったりして民心が悪化する、税収が落ちるというような内容のものも取り入れたいですね。
という感じで、今まで色々考えてきましたが、どうも一からひっくり返して考えないといけないようです(^^;もしかすると、SWGのように結構手軽な感じになるかもしれません。あれ、でも戦略級ゲームって本来手軽ではなかったような…(^^;;;
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