kr_ryo 徒然日誌 <2005年1月23日分>

三國志製作記89〜ゲームの目的〜

いやあ、風邪のうえに仕事がきつくなるシーズン、さすがに意識が朦朧としてきて、ぐたっと寝てしまいます(_ _).oOこんな日はゲームに限ると、昔懐かしいシムシティ2000をひっぱり出してきました(^^;1994年製、Windows3.1用のゲーム、はや10年前のゲームではありますが、コンセプトといい操作性といいまったく古びてませんね。256色表示とは思えない美しさとあいまって、いいゲームはいつまでもいいゲームであります(^O^)

さて、これまで細かいことをいろいろいろ考えてきましたが、オブジェクト指向では、きちんと、そういった何がしたいかという仕様を分析していくことがそのまま開発となる、というよりむしろ、そういった分析が最も意味が大きく、最終のプログラミングはそれほど大きな意味を持たない、とのことです。

確かに分析を中途半端にしたままだと、プログラムを書き出してから、あれ、これはどうしたらいいんだろう…?とか悩んだり、結局差し戻したり(T-T)作り直したり(TдT)結局手戻りになることが多かったのです。もともと仕様や分析を重視する文系プログラマーの私としては(^^ゞやっぱり結構オブジェクト指向って向いてるのかもしれませんね…って、本当かいな(^^;;

しかし、オブジェクト指向で分析すればするほど、SWGタイプのゲームならあっと言う間に分析が完了するのに、どうしても三國志ではなかなか前に進まない、という問題があります(~_~;)まあ、SWGより細かい、ということはあるんでしょうが、SWGはオブジェクト指向でどんどかどんどか深く細かく作れそうなのに対し、三國志は進んでは戻っての繰り返し、という感じです。これはどうしたことでしょう?

多分そのせいで、なかなか三國志が完成しない原因ともなっていると考えられます。つらつらつら考えるに、どうやら、三國志のゲームの目的がはっきりしないところにあるんだと思います( ̄□ ̄;)何を今更、という感じではありますが、どうも、そのようです(*_*)なぜかというと、単純に考えれば、天下統一、つまり全部の城を支配すれば終了になり、これが目的です。ところが、史実では主要登場人物は誰も天下統一を果たせず、それどころか三國志、というように、結局どの国も統一できません。最後は晋がとんびが油揚げをさらったみたいな統一を果たしますが、どう考えても三か国とも内紛というか、自壊していったような感じです。ついでに晋も自爆しますね(^^;

英雄達にしても、曹操は本気で天下統一を狙う気があったのか怪しいですし、孫権はその保守性ゆえ、天下盗りの器にあらじ、劉備に至ってはその能力がない(--;)いや、劉備は先祖に似て、配下ががんばればそれなりにうまくいったかもしれませんが、その相手は先祖の時よりはるかに頭のいい曹操では、なかなか難しい(^^;しかし孫策ならいい線いってたかもしれませんね。そのため、孫策死後は急激に流動性が失われます。天下!というより、土着!って感じになります(~_~;)

そうこう考えると、やっぱり三國志の目的が単純な天下統一では何かが違う気がするんですよね。そしてそのせいで、仕様にも大きく影響を与えてしまっています。天下統一が目的でなければ、いったい何をすればいいの??

英雄達の動きや時代背景から考えると、彼らにも、後漢、という国が当然まだ存在するんですよね。どこまでいっても後漢王朝内の勢力争いなんです。黄巾の乱や董卓以後かなりたがが外れた感じがしつつも、それは自らたがを外しつつ、気がついたら後漢という国家制度自体がまったく無視されてしまっていた、という感じです。ただ、それも温度差があり、袁術や孫堅はすっかり群雄割拠、乱世であるという動きなのに対し、董卓や曹操と袁紹などは後漢の枠内で戦争しています。そして、まだまだ世の人士には後漢の大義名分が有効であったのです。曹操が本気で後漢朝を建て直すつもりであったのか、最後まで大義名分を利用し尽くすつもりであったのか、それは見る人によって異なります。しかし、一度たがが外れて壊れた桶は、曹操であってももう戻らなかったのかもしれません。

曹操にせよ劉備にせよ、後漢朝復興を名目に掲げています。その意味で彼らは最後まで後漢朝内での勢力争いを行っていた、ともいえます。建て直すべき朝廷がぼろぼろで権威ももはやなく、建て直すための英雄たちの自力が、すなわち新しい人心の柱になっていった、とはいえ、とりあえずその信条は朝廷復古です。単純に敵対勢力を全部攻め滅ぼして終わり、というわけではなかったのです。もちろん三国初期に至れば、もはや独立国同士、という雰囲気になりますが。

さらに、単純に領土拡張、という雰囲気でもないのが、たとえば劉備は少なくとも朝廷に認められた刺史達、劉表や劉璋をなかなか攻めず、曹操は以前検討したように、袁紹一派のように完全に敵対するまでは本気で他の勢力を滅ぼし尽くすつもりがなかった可能性もあります。もちろん甘い人物でもないので、無能なくせに逆らう奴は駆逐するでしょうが、あれほど苦心させられた呂布すら救ってみようと思った人物ですからね〜(^^;

と、つらつら考えれば考えるほど、単純な天下統一という目的がこれほどそぐわない物語もないわけです。その複雑さが、物語として面白さを膨らませているんでしょうね。で、あっさり天下統一が目的になってしまった三国時代が今度は全然面白くないのも、当たり前すぎるから、と、いうのはいいすぎでしょうか?(^^;そうなると、天下統一だけが目的の三國志のゲームというのも、ぺらっぺらな感じがしてしまうのも無理はない、という気がしませんか?(^^;;

SWGのようなゲームは、単純に天下(?)統一だけを目指す、としても全然おかしくなく、そのためにどうあるべきか、という内容も簡単に出てきます。しかし三國志はどうもそうじゃない。だからこそ、単純な天下統一と、それに至る方法、という風には分析が進まないのです(@_@)

では、どうあるべきなのでしょうか。まず、腐ったとはいえ後漢朝、これの建て直しが目的としてありえます。後漢朝の崩壊は、十常侍と何進の争いと、董卓台頭にはじまります。そう考えると、実質は袁紹の宮中飛び込みからスタートですね。袁紹は後漢朝崩壊の扉を押し開けたのです。まあ、何進といい十常侍といい、自爆のような感じではありますが(^^;後は崩れゆくのみ、ではなく、曹操が庇護し、とりあえず復興させます。しかし、まさにもはや名のみ、統治能力を失った朝廷を切り盛りするでなく、曹操は二重朝ともいえる別組織で袁紹他と戦います。曹操も朝廷にしがらんでいては、四囲の敵とまともに戦えなかったでしょう。もちろん各種権威は朝廷からもらっています。

その動きが、朝廷無視に結果としてつながり、曹操と朝廷の仲が険悪になったのは間違いありません。曹操も朝廷の介入を旧弊として排除するにできず、自らの組織を朝廷と切り離して権限を有するため魏王朝を創始せざるを得なくなります。曹操悪玉の見方で見れば、朝廷をすぐ倒せば反逆のそしりを受けるから、徐々に乗っ取ろうとたくらんだ、となります。どちらの見方であったとしても、それなりに朝廷の権威はまだあった、といえましょう。しかし権威だけで、自ら古のように統治できるかというと……黄巾の乱のとおり、古であってもまともに統治していません(--;)

と、考えると、朝廷復興の目的はありつつ、おそらくもはや復活の見込みはないほど組織的に腐っていた、外圧で倒れたのではなくて自壊した以上、漢朝復興はスローガンのみです。そのまま復興しても復興できないから、曹操のように換骨奪胎するもよし……曹操以外がんばった人がいないので、他はどうしようもないですが(^^;他の連中はいったい何を考えていたのでしょうねえ?

後漢朝崩壊の扉を開いた袁紹は、天下取りに一番近かった男です。彼は流浪する朝廷を庇護するわけでもなく、領土拡張に熱心ながら朝廷に乗り込むわけでもなく、新王朝でも開けたらいいかもしれない、という具合な感じで、軍閥化して小王朝化していきます。しかし名目は、もともと後漢朝の名門という位置づけである以上朝廷復興であって、弱小の周辺独立国(と、はいいつつ、単なる後漢朝の地方政府たる州郡)を侵略する露骨な軍閥化とは相いれません。それが優柔不断と言われる所以でしょう。族弟袁術はもふたつみっつ軍閥化傾向が強いでしょう。しかしこちらも出自が後漢朝の名門であるから人々はついてきたのに、軍閥化が露骨すぎて人心が離れます。

孫堅一族は明らかに軍閥独立指向です。孫策はあわよくば天下を狙いに行きますが、失敗。その露骨さから周辺地域と摩擦が断えませんが、次の時代を見据えた新しい王朝を築けるものと期待もあったでしょう。次世代をにらむ新しい発想が、孫策一代で強大化した理由でしょう。

劉表劉璋など、後漢の地方高官達は、どう考えても地方自立が目的だったのでしょう。中央が混乱してるから、とりあえず難を逃れて地方でおとなしくしてよう、といったところの、とりあえずの地方自立です。危ないから中央から離れただけで、朝廷を建て直そうとか、独立しようとか、そんな気概はありません。そのうち中央が落ち着いたら、出張って高位をむさぼろうというところです。旧弊、という言葉がよく似合いますね。中央の混乱が続き、弱小勢力の食い合いになった頃合いに出てきて、漁夫の利を得ようというところでしょうか。その意味では、比較第一党にでもなれば、中央に出て天下に号令するくらいのことは考えたかもしれません。皇族でもありますしね。が、いかんせん、能力が伴いませんでした。地方に落ち着きすぎです。勢力を保ったのも、豪族たちの強い支持があったからでしょうね。その意味でやはり後漢朝的旧弊そのものです。先祖の、高祖でなく光武帝並の才能があれば、もしかすると史上後漢が中漢と呼ばれ、新しい意味での後漢が開けたかもしれません。が、しかし、後漢末の混乱は歴史の大きな流れにもよります。長続きはしなかったでしょうが…

劉備。これは何を考えていたんでしょうねえ…曹操を過小評価しすぎ、というよりむしろ、後漢朝の実力を過大評価しすぎたんでしょうね。自分が朝廷に逆らう者に反撃ののろしを上げれば、みんなついてくる、と思っていたんでしょう。後漢朝の実力を過大に評価していたからこそ、独立軍閥化なんて発想はなく、そのため領土に恵まれません。仁義だか正義だかで人は動くと思っているからこそ、最後まで勢力は流動的だと考え、王になっても一将軍として戦おうとしていました。後漢朝の腐敗は君側の奸のせい、奸物を退治してしまえば、明るい正義の政治が開けると考えていたのでしょう。正義を語ればみんなついてくると思っているため、一介の武将連中には人気がありますが、領土欲にかられた他勢力からは相手にしてもらえません。政治はそうじゃないんだよ、と諸葛亮に諭されてからはうって変わりますが、おそらく最後まで義理人情と正義を貫くつもりであったのでしょう。曹操と仲良しでもあり、戦いあいもしますが、曹操が後漢朝自体を換骨奪胎するのは、正義にもとるとでも思ったのでしょうか。

そして曹操。これが難しい。後漢朝復興しか考えていなかったのか、単なる方便なのか、いずれにせよ自分の思い描く理想の政治を後漢朝の高官として実施したい、とは思っていたはずです。なんといっても周公が理想ですからね。魏公くらいならいいと思っていたかもしれません。周公は周王の身内ですが、曹操は家柄より能力重視、自分自身にもそれは当てはまり、能力がありさえすれば家柄が悪かろうとなんだろうと朝廷の高官になっても王公の位についてもいいとは思っていたはずです。が、天下を統一して新王朝を開こうと考えたかどうか。魏王位は漢室の藩屏としての単なる一身分であって、どこまでいっても漢朝の下です。乱世を治めようとは思っていたでしょうが、頂点に立つ必要がなければ立たなかったでしょう。周公は幼王を支えてがんばった人物です。能力があるから天下を切り盛りするのと、能力があるから頂点にたつのと、同じ意味にも取れ、別の意味にも取れます。曹操は別の意味にとった人物のように思われます。ま、どっちであってたとしても、自分に逆らえば討ち取る気概のある人物です。後はもう1歩の皇帝として階段を登ることができなかったか、もう1歩の階段なんてないと考えているか、の違いだけです。

と、色々みていくと、三國志と単なる天下を統一するゲームとの違いは、後漢の朝廷にあると言えます。董卓残党に迫害されていたり流浪している際はあれほど話題に登った朝廷ですが、曹操に庇護されてからは、曹操を倒す陰謀くらいしか話題にのぼりません。が、その統治範囲にしては十二分に官僚もおり、百官もそろっており、官位も授与できたはずです。もともと漢の王朝の統治機構が皇帝の私的機関としての由来を持っていたがゆえ、統治すべき領土がなくともそれなりに十分意味はあったでしょう。しかし、統治の実権は曹操の手の者にゆだねられてはいたでしょうが。

三國志が日本や中国の戦国時代と違うところは、朝廷の権威権限喪失がはるか過去の話ではないということです。まだほとんどの人物が若かりし頃は、まだ権威も権限も、腐敗すら存在していました。それが、徐々に崩れていったのではなく、一気に崩壊したという感じで、そのためまだ建て直せるようにも思えたのでしょう。劉備一派と上杉謙信は似ていますね。戦に強くて領土欲はない、好敵手の武田は曹操でしょうか…曹操と織田信長は似ているところは多そうですね…権威を利用しつつも旧弊を廃し、新しい秩序を打ち立てようとしたところなんかがよく似ています。が、信長が曹操をまねた、というのが本当のところでしょう(^^;

と、話がそれました。結局、朝廷の存在が少なからず影響を与えているとは思うんですよね。形式上はどの勢力も漢王朝内の自治政府扱いです。全土を武力で切り取らなくとも、場合によっては自然に治まったかもしれません。関羽のように、曹操には降らず、漢王朝に降るという感じです。劉璋だって、曹操が本腰を上げて攻めてくれば劉jのごとく、あっさり降っていたでしょう。残るは劉備と孫権だけです……彼らはなぜそれほどまでして戦い続けたんでしょう?

劉備は天下はいまだ治まらず、とずっと思っていたからでしょう。孫権は最初から漢王朝の自治政府という感覚ではなく、はなから独立国というイメージであったはずです。彼らは戦い続ける意義はもっています。劉表や劉璋のような漢王朝の自治政府という感覚はなかったはずです。

馬超など関中涼州の連中は、勝手に勢力争いをしていただけですね。曹操は、中原を抑えれば自然と天下は治まる、と思っていたんでしょう。しかし、すでに中原は荒れ果て、中原が天下、というわけではなかった、というところでしょうか。意外に南方が活気に満ち、将来の南北朝時代を予見させます。ところが曹操は、(漢王朝とともに、という意見のあるなしにかかわらず)中原を復興させれば、南方に逃れた人々も戻り、かつてのように中原が中心となると考えていたのでしょう。そのための復興です。しかし、時代は変わってしまいました……

と、考えると、孫策袁紹死後は、結局三国につながる分裂の時代となりえやすかったといえます。逆に、もし、袁紹や孫策が曹操に勝利していれば、天下は再びまとめようとしたかもしれません。しかし、その統一ははかなく、全土に渡って荒廃が進んだやもしれません。そして、異民族の侵入による漢民族の敗亡が大きく進む……可能性はあります。実勢実体を無視した統一に向けての軍事活動は、決定的に中原を荒廃させ、西晋の滅亡より100年早く、中原が異民族の手に落ちることになったかもしれませんね。

孫策や袁紹が曹操と戦っている頃、この頃が中原最大の危機だったのでしょう。分裂した各勢力は、北方異民族の敵ではないかもしれません。北方異民族が、漢の内戦と考えず、漢の滅亡と軍閥化に気づけば、侵略を考えたでしょう。曹操がなぜ南下を急がなかったのか、それは伝統的な対北方異民族政策に力を注いでいたからかもしれませんね。

こう考えていくと、漢王朝、ではなく、かつて漢王朝が支配していた「国」をどうするのか、どうしていくのか、が視点に上ってきます。地方の集合が国、ではなく、全体としての国、がどうあるべきか、ということでしょう。なるほど、単に全土を統一すればすむ問題ではない(^^;英雄たちは、「この国」のあり方をかけて戦っていたのでしょう。

しかしまあ、結局は全土を統一する必要があるわけで(^^;それはやはりかつての漢王朝の支配領域であり、勢力争いで分裂しているとはいえ、さらに上の意識でいけば朝廷が象徴する「国」があるわけです。太守や支配者が代わるのも、朝廷に命じられて代わるのか、戦で攻められて代わるのかでは、実はそれほど大きな違いではなかったのでしょう。いい太守だから変わらないでほしいな、と民が思っていたくらいで、結局誰が太守であってもよい、という感じでしょう。自勢力の城、という意識を民にまで植えつけるのはなかなか容易ではなさそうです。逆に、敵地であっても支配は容易でしょう。

そうこう考えていくと、何を中心にまとめるか、そこがポイントのような気がします。まとめる中心こそが、この時代のこの国では皇帝であったのでしょう。そして、領土拡張ですら、今の皇帝の政府内での強力な地位を得んがため……禅譲をうけた曹丕ですら、その地位は世襲でないかたちであっても、前の皇帝から譲られたものです。まあ、ここまでくると、蜀や呉はもはや対抗して皇位につくだけになりますが、それまでは、領土拡張ですら政府内の勢力争いと考えてよいでしょう。

それはどういうことにつながるか?つまり、勢力争いなのです。最初っから目標が天下を統一することではないのです。ということは、必ずしもすべての群雄を滅ぼし尽くすことが目的というわけでもないのです。また、勢力どうしは仇敵でもなければどちらかが消え去るまで殺し合うわけでもありません。劉jや劉璋は生き残りましたし、呂布ですら見逃されかけました。勝てないなら抵抗せず鞍替えすればすむだけであり、理由なき徹底抗戦や容赦ない殺戮が最初から想定されるわけではないのです。

なるほど、これが「天下統一」の違和感でした(^^;;ただ単に四囲皆敵なのではなく、連合同盟、それも朝廷を牛耳る勢力には仮初めでも連合して徹底して争う、というかたちでの勢力争い戦争です。三國志は、全土を巻き込んだ党派争い、中常侍や董卓からはじまって、最後まで朝廷を牛耳る最大勢力対連合勢力の争いでした…

また想定が変わりましたね(^^;;要するに、誰もが天下を統一しようとしているのではなく、同盟連合の組み合わせにより、場合によってはそのまま同盟連合が維持されたまま終わる、ということなのです。信長のようにすべてを滅ぼすのではなく、秀吉のように、各地の群雄を取り込んで統一することもありだ、ということで、かつ、大勢力といえども常に周囲と敵対するわけではなく、連合同盟を積極的に行っていき、最後は裏切り、ではなく、そのまま終わることもありえる、というゲーム、であるべきなのです。三国時代にはもはや相手を倒しつくすことになってしまいましたが、それすら、諸葛亮派、司馬懿派、魏帝派、孫権派といった形が透けて見えるかもしれません。最後まで派閥争い。ここから何かが見えてきそうです(^-^)

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