kr_ryo 徒然日誌 <2005年1月30日分>

三國志製作記90〜勢力と派閥〜

シムシティにはまってしまってさあ大変(^^;;区切りも終わりもないゲームというのは大変です。あれこれあれこれいじっていじって……なんとなく盆栽をいじるおじいさんの気持ちがわかってきました(^^;;

さて、前回三國志は勢力争いだ、と連呼していましたが(^^;勢力争いということは当たり前で、もうちょっと違う、これは派閥争いですねえ〜(^^;;要するに、現代の国民戦争とか民族紛争のように凄惨な殺し合いをするのではなく、同じ国民同士が威嚇し合っている、そんな感じです。威嚇するにしても、実際はにらみ合ってるのは上だけで、下の民衆同士は全然にくみあったりしていないでしょうね。狭く考えるからにらみ合う、広く考えれば同じ国。まあ、現在も市町村合併になるとあーだこーだ言い出すので、枠組みというのはやっぱり大事なのでしょうねえ〜(@_@)

さてさて、今まで陪臣とか君臣関係とか朝廷とか、縦のラインで考えていたんですが、よーくよく分析して考えてみると、派閥の寄り合いが最も実際に近いように見えます。初期時点では、勢力自体が派閥ですね。三国時代ともなると、国の中でまた派閥ができる。さすが3人よれば3つ派閥ができる国(^^;

漢の高祖がそもそもそういう人物でしたが、こういう状況では、派閥を大きくできる、忠誠の対象が重要になります。最も重要なのは血筋家柄だったんでしょうが、能力重視の曹操が風穴を開けていきます。無差別級の劉備なんてのもいます。が、大概はまあこいつならまとまるか、という、小派閥の外の、ちょっとだけ違いが出る人という感じの人がトップにつきます。小派閥の中の人物だと、どうしても他の派閥の納得がいかない。そういう小派閥同士の外にいる、多少色や意味のついた人物であれば、飾りとしてもってきやすいのです。劉表なんてまさにそれです。皇族でもあり刺史でもあり、荊州各小派閥をまとめるにはもってこいで、劉表自身もそれを狙っていたでしょう。

孫権は逆に、小派閥を乗り越え武力で勝ち取ってきた孫策の跡を継いでいます。孫策ならそのまま大派閥に向け戦い続けたでしょうが、孫策の見た通り、孫策が勝ち取った小派閥をまとめる能力には長けていますが、外に出て膨張することはあまり得手ではなかったようです。もちろん内をまとめるのにやや難があった孫策は、滅ぼした相手に滅ぼされました。外へ外へと進むことのできた孫策&周瑜のコンビなら、曹操といい勝負ができたでしょうに……

後漢自体が派閥=豪族をよくまとめることができた光武帝による寄り合い所帯でしたから、その傾向はよくよく考えたら後漢末にも非常によく残っていたはずです。ただ、元は豪族ながら、学識やらなんやらで中央に出ていた連中と、地元に残っていた連中とでは、全然扱いが違うようです。たとえば、荀ケなどもともとの中央高級官僚系の人物と、李典などもともとの豪族出身系の人物とでは、待遇も身分も違っていたようです。李典なんて自前で何千もの兵を揃えていたのに、高級文官より身分が下と見られていたので、必死に勉強していたらしいですね。袁紹袁術兄弟も、親が高官だったため箔がついていますし、曹操も親父が金でですが太尉に昇っていたことが大きかったはずです。ポスト至上主義ですな。

劉備なんて後漢末のごたごたがなければいつまでたっても蓆売りだったでしょう。その意味では中級官僚出の諸葛亮の方が実は身分的には上であったかもしれません。皇帝の外戚が常に勢力をふるっていたことに対する反動から、血族より学識、そういう状況も一方ではありましたからねえ〜

さて、こういう状況をゲームに落とすとなると……ふむ……派閥ってなんでしょう??(^^;;;こういう問いかけがオブジェクト指向分析では大事なようです(^^;;派閥と勢力と武将との関係から、派閥を分析してみましょう。

まず、派閥と勢力が一致する場合があります。諸葛亮入閥(^^;まで、劉備勢はまさに劉備に惚れた熱い漢どもの集まりです。関羽張飛はもちろん、ちょっとクールな趙雲だって劉備大好き野郎共なのです。逆にだからこそ、個人のカリスマに頼った劉備勢の勢力拡大は難しかったのです。世の中熱い野郎共ばかりじゃあないですからね。陳登など出身地に根をはる人物は、劉備の徐州経営には協力したでしょうが、劉備が落ちてからは行動をともにしません。徐州派、でしょうか?その割に住民虐殺の前歴ある曹操につきますが…?

君臣関係だけでとらえると、陳登はどこまでも劉備を追っていかなければなりません。麋竺麋芳は追っていきますが、これは劉備大好き野郎共だった可能性があります(^^;しかし、陳登は別段劉備と君臣関係をむすんだわけではないつもりだったんでしょう。刺史の一人として仕えただけのようです。そうすると、劉備派には入閥していませんが、劉備勢力には入っていたと言えます。

伊籍も劉表勢力内ながら、劉備大好き野郎になっていますね。あっさり鞍替えしてますし。劉表死後は、劉表勢力内の多くの将兵が劉備派に入っています。曹操は劉jを降伏させていますが、劉表勢力のすべてを手に入れることはできませんでした。もっと考えると、劉表勢力内に劉表派と劉備派があったようなもんですね。そう考えると移管がスムースにいったのもよくわかります。

司馬懿はもちろん魏帝勢力下にいますが、露骨に自派閥拡大を図ります。夏侯覇なんて魏帝勢力から追い出される者まで出る始末。曹爽派もそこそこ優秀だったんでしょうが、司馬懿派にはかないません。諸葛恪だって派閥と言えましょう。諸葛亮も結構そのきらいがあります。まあ、ほとんど1人で背負ってますが(^^;

こう考えていくと、勢力と派閥は、勢力の中に派閥がある、という関係です。で、派閥のボスと勢力のボスは一致することもあればしないこともある、と。また、勢力のボスは具体的に命令を行うことができるのに対し、派閥のボスは私的な命令はありえるでしょうが、勢力としての命令を行うことができません。いいとこ、勢力のボスや命令権者に口利きをするくらいですね。また、派閥には入らないが勢力にはいる、という武将も多いでしょう。たとえば先の陳登です。逆に、派閥にいてるんだから、ほとんど勢力の命令は聞かない、という人もいるでしょう。関羽なんてそうでしょうね。

勢力だけで考えると、よくある国盗りゲームになります。派閥だけ考えると、戦争が出てこなくなります。派閥に取り込むだけですからね。司馬懿の国盗りゲームは派閥だけでできそうですが(^^;;諸葛亮が攻めてきた!というのは単にイベントになりそうで、まったく別のゲームができてしまいそうです(^^;;戦争とか城攻略とかよりも、政敵をいかに倒すか、戦争そのものよりそれにより功績がいかに上がるか、という視点になります。両者をミックスさせつつ、派閥の意義を考えてみましょう。

勢力だけでは国盗りゲームになり、武将も単純に能力だけで比較される機械か道具のように見えます。しかし、派閥の考えを入れると、こいつはよくごますってかわいいから使ってみよう、とか、、、思いますか?(^^;;思えばばんばんざいです(^^;;;しかしそうですかねえ…少なくとも勢力の君主であれば、誰であっても同じでしょうが………勢力内ではあるが、自派閥に入らない、自分の肩書に応じている、と見える部下はいそうですね。劉備にとって、曹豹より失敗ばかりする張飛の方がかわいいのは間違いないでしょう。まあ張飛は武勇が桁外れだからともかく、けれどもやっぱり民政には曹豹を使うかもしれません。

蔡瑁が劉備を危険と見たのは、もちろんその能力と部下を見てのことでしょう。劉表だって内心そんなに歓迎していなかったかもしれません。劉備もぎりぎりまで劉表を頼ってませんし、上流階級出身の劉表はどこの馬の骨かわからんと劉備のことを見ていたでしょう。そう考えると、劉表は能力だけ見て劉備に何かさせることはなかったでしょう。そう考えると、同じ勢力でも派閥内優先のように見えます。

以前陪臣の検討をしましたが、派閥もかなりこれに近い関係に見えますね。陪臣は要は勢力内派閥内武将という感じです。君主といえども、重臣の派閥内武将に直接命じにくい、そういう関係です。派閥内武将に何か命じようとすると、派閥のボスが出てきて、私が話しておきましょう、とか言うのです。我が派閥内武将がごときチンピラに君主様が直接お命じになることはない、と持ち上げおだてかけながら、実際は君主が直接命じることができる範囲を減らしているのです。形式的には派閥内武将に命じることができるながら、実際には、命じられる範囲は派閥のボスだけなのです。そんなことはよくありそうですね(^^;;もちろん派閥のボスは、派閥内武将に対しても、君主に口が利けるのはボスのこの俺様だけだと箔がつきます。顔ってやつです。なんだかヤクザ社会みたいですがどうもみんな同じような関係なのかもしれません(^^;;

と、考えると、全ての武将が君主直結という関係は派閥を無視した実際にはなさそうな関係のように見えます。曹操は結構どの武将にも直接命じたではないか、ですって?そりゃあ簡単です。曹操自体が朝廷内派閥で、自派閥にみーんな取り込んでいたのです。人材コレクターは派閥人材取り込みコレクターなのです。派閥拡張に熱心だったんでしょうね。逆に袁紹は、勢力拡大には熱心ながら、自分の派閥、という関係はあまりなかったような気がします。彼は人の言うことを聞かないと言われていました。その勢力に加入した目先の利く連中は袁譚など言いなりになる子どもを中心に派閥を作りますし、忠臣といえるような田豊達の意見をやっぱり袁紹は聞きませんし…そう考えると、派閥内武将は派閥内武将で、自分の言うことを利く身分の高い人物を求めるような傾向がありますね。関羽にせよ張飛にせよ、兄弟以上の仲良しさがあっての義兄弟です。むむ…忠臣と派閥は微妙にずれる印象ですが、色合いはありながら忠義は派閥のボスに向けられている可能性は高いです。

ここで登場人物を整理すると、勢力があり、その勢力のトップが君主で、その下に勢力内武将がいます。勢力内武将の中には派閥を持つボス武将もおり、ボス武将の下に派閥内武将がいる、と。建前上は君主武将は勢力内武将すべての君主ですが、派閥内武将にとっては君主の君主という感じで、実は忠義が向くにはやや関係が薄いといえます。また、指揮命令も君主はボス武将を通して派閥内武将に命じる関係となります。君主が直接全勢力内武将に命じるのは、建前はともかく実際は時間や能力の関係で難しい以上、勢力が大きくなれば派閥でもつくってピラミッド型組織にしないと維持が難しいでしょう。そして私的な派閥関係を公的な官僚制度に仕立て上げれば、指揮命令が簡単になりつつ、派閥と違って簡単に異動もできる、と。だから、諸葛亮がちゃんとした官僚組織化を整えたときに、関羽や張飛などの旧来派閥型組織で生きてきた人物達には、劉備に直接あえない、水臭い関係と見たのです。張飛にとっては同僚も部下も兵士もみーんな劉備ファンばかりなのに、劉備にあえなくする官僚組織は冷たく見えたことでしょう。けれども、劉備がいちいち顔を覚えられるレベルの組織ならともかく、勢力を巨大化するつもりならば、官僚型ピラミッド組織にしなければ動かすことができないのです。

これまたけれども、その割には諸葛亮は後に結局自分で全部やってしまいますね(^^;;まあ、劉禅に直結できるだけの有能な人物が少なく、自分がボスとしてほとんど全官僚分の事務処理を決定判断しなければいけなかったからでしょうが…

そうこう考えると、官僚制度と派閥は機能が似ているところがありますね。しかし官僚制度は作ろうと思わなければできないのに対し、派閥は勝手にできたりします。そう考えれば、まずもって勢力自体が派閥からスタートして、勢力としての派閥が大きくなり、そのうち官僚制度を導入して組織化する、と。さらに巨大化すると、その勢力の中にさらに派閥ができる……そうやって入れ代わり立ち代わり組織が活性化?していくのかもしれません。

では派閥の機能は…うーん、長くなってきたのでまた次回検討しましょう(^^ゞ

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