kr_ryo 徒然日誌 <2005年5月8日分>

三國志製作記98〜まずはやっぱり武将集め〜

長かったようで短かかったゴールデンウイークもとうとう今日で終わりです(;_;)間も休めば最大10日間もあったまさに大型連休、皆さまいかがお過ごしでしたか?(^-^)楽しい旅行から無事お土産とともに帰って来られていることだと思います(^O^)私はこの間の人事異動で、はじめての職場はじめての仕事、しかもとってもきっついと噂されるところとなり、明日から楽しくがんばっていこう、と(TдT)……いや、こっちだ(^O^)

それはともかく(^^;;A先月のJR西の痛ましい脱線事故はじめ、公共交通部門での事故やミスが相次ぎます。効率効率といいながら、人間が犯しやすい誤りをカバーする部分までを削ってまで生み出す効率は、結局最大の非効率の元となるだけでなく、悲劇を生みます。削りやすいところから削り、奪いやすいところから奪う、それでもって効率というのは間違っています。削りにくいところを削り、取りにくいところから取るためにいかに知恵をしぼり工夫をするか、が、大事なはずです(~_~;)

と、いいつつ、この製作記も98回を数えました(^^;;非効率といえばこれほど非効率なこともありませんが(*_*)データベースやオブジェクト指向や、まずもってDelphiのような言語を使えるようにもなってきています。製作環境はどんどんよくなってきているのになかなか進まないのは、ひとえに問題領域、つまり三國志の物語をいかにゲームとして再現するかのデザインの部分、技術でなく芸術の部分にやや才能が見られない、というか、表現力再現力に難があるというかなんというか(TдT)

こういうことがしたい、というような具体的な結果を求められる仕様のある業務用アプリケーションと違って、三國志の物語を体験したい、というような印象が与えられるように求められるゲームは、まさにクリエイティブな世界だということなのです(^^;;ところがそれを突き詰めていくと、だんだんまるで映画を作っているような世界に踏み込んでいるような気がしてくるんですよね。ゲームはゲームなので、一定のルールに基づき、定型の処理がなされることが必要です。同じ場面なんて回想シーン以外登場しない映画と違うのです。そう考えるとものすごく制約があるように見えます。逆に、映画は何度見ても同じストーリーです。変えるなんてことはできません。もちろんゲームは同じストーリーにならないのです。結局常に同じストーリーになるように仕向けるゲームもありますが、それはそれで、後から見れば同じ、というだけで、選択によってそれなりに結果は変わるのです。まあ、選択肢に意味がないひどいゲームもなかにはありますが(--;)

で、処理が定型だからこそ、様々な状況で結果が変わり、ストーリーも変わる、ということがゲームをプレイしていて楽しい点です。処理を様々にすることも考えられますが、無限の処理を準備できないので、結局先程の有限個数の選択制ストーリーゲーム(たとえばアドベンチャーゲーム)になります。しかも状況も結果も準備しないといけないので、私がプレイしても意味がないのでつまらないのです(^^;;;無限の状況を定型の処理で無限の結果に生み変えることが(シミュレーション)ゲームの楽しい点であり、そこをめざすべきなのです。そこで、その定型の処理自体がどういうものかが問題になります。

定型処理が、ほとんど同じ状況で、同じような結果を返すほんとの定型処理ならば、わざわざ手動でする必要はないでしょう。私がいわゆる内政コマンドを嫌いなのは、結果がその後にほとんど影響を与えないからです。それくらいなら自動でやってくれって(--;)そのアンチテーゼでSWGでは、内政は失敗するし、やたら大金がかかり、序盤の内政の失敗が戦略に大きく影響を与える設計になっています……けれども、失敗に必然性がない、つまり、プレイヤーに責任がないように見える点に問題がありますね(^^;;けれども、もちろん内政レベルが上がれば上がるほど開発に失敗しやすくなっているので、そういうリスクを取ったプレイヤーに失敗責任を負ってもらう、という意味では責任があるんですよね。1から2に上げるのも、4から5に上げるのも、1しか上がらないなら1から2に上げる方を選ぶべきなのに、4から5に上げた、実はその判断に責任があるんですよ(^^;;;1の星系なんて持ってないって?じゃあ、隣のよその1の星系を………(^^ゞ

さらに三國志では、この定型処理の中で武将の個性を表さないといけません。ところがもちろん物語ではドラマティックな場面しかありません。普段の張飛や李典が、酒を飲んで暴れてるか二日酔いか、まじめに勉強しているか鍛練しているか、ということが説明書きでたまに出てきたりしますけど、基本的には戦場や密議など、非日常的な場面がメインです。毎日の張飛の活動を記すような物語はあまり読んでておもしろく……いや、それはそれでおもしろいかもしれませんが(^^;;……あまりありません。ところがゲーム上での定型処理、つまりコマンドは、内政やら訓練やら、物語では数年分を10文字程度で済まされることばかりさせられます。結果もたいてい普通に数値が上がるだけですし、状況も緊迫しているとは言い難いものです。つまり、その選択によってもストーリーは何も変わらないのです。逆に、1、2回、訓練をさぼったから戦争で全滅してゲームオーバー、というのでは、確かに状況は緊迫していますが、まったく自由度がありません。かえって選択肢がないに等しいのです。

その点銀英伝4では……このゲームばかり例に出しますが、コンピュータの思考はともかくルールはまったく傑作なんですよね(^O^)……人事や配備、侵攻ルートや作戦といった大がかりな戦略について、ヒラ士官であっても、聞き入れられないことはあっても意見を出すことができますし、決めるべき役職にあれば自分で決めることができます。艦船建造や税収なんてのも、手出しはできますが、しなくても問題はありません。それでいて、わけのわからない意見からまともな意見まで、きちんと原作に基づいた雰囲気ある発言をしつつ、また意見を聞き入れなかったり聞かれなかったら悪態をつくところまで雰囲気が出ています(^-^)しかしまあ、これはきっと、原作の威力ですね(^^;;三國志では、特徴ある連中も多数いますが、特徴のない、名前で経歴が思い出せない連中も多数います。それは仕方ないですな(--;)

たった2国(フェザーンも合わせると3国ながら…、あ、クーデター政権も合わせると5国か)しかなく、マップ上の移動範囲も限定されている銀英伝4から考えるに、三國志でも人事、作戦等だけにプレイヤーが関与してもゲームとして成り立つと思います。それで十分雰囲気が伝わるか、というと、逆に、先程もお話しました通り、物語では戦場や謀略の場面がほとんどで、内政や普段の行動は述べられていません。演義が講談からスタートした以上、すかっとした話を聴衆は聞きたがるはずで、退屈になりがちな内政の要諦なんぞを話したりはしないはずなんです。それくらいなら悪役曹操(^^;の悪逆非道ぶりだとか、張飛の大活躍を聞きたいはずですよね(^^;;そのため、かえって内政やら訓練やらの普段の行いは物語には出てきません。銀英伝ではヤンが普段いかにも退屈そうにしてるとか、ユリアンがまじめに戦闘訓練してるというような描写がありますが、三国志では死の直前の張飛が士官を訓練中にぶっ飛ばしたというところくらいしか印象がありません。む、あれは普段の描写ではないですな(--;)対して北方三国志では結構調練の描写がありました。ただし北方水滸伝でもそうなので、作者の個人的趣味でしょうか?(^-^;

そうこう考えると、やっぱり内政偏重のきらいがあるんでしょうねえ〜(~_~;)自分がおもしろい内政をしたいというのと、koeiの三國志にどうしても影響されてしまっている感じがあります(^^ゞ確かに古くボードゲームの時代からみても、内政ばっかりしているゲームというのはあんまり(全然?)見たことがありません。だからこそkoeiの三國志や信長の野望シリーズの、ひたすら内政する、というのが新鮮で強烈だったのかもしれませんね。1からの国づくりで、自分の国、という意識が生まれてくるのでしょう。これはコサックスやAoEやシヴィライゼーションにも通じますね。これらはランダムマップなのでより一層国づくりをして自分の国という意識を持たせる必要があるのでしょう……これらがアメリカ産というところから見ると、大平原の何もないところから町を興すフロンティア精神が反映されているのかもしれませんね。

逆に、三国志にせよ戦国日本にせよ、テーマは内乱革命で、外に向かって広がっていくといいつつ、すでにあった国の範囲までであり、その国の再興も方針としてはありえるのです。まあ、とはいいつつ旧制度を壊していくんですけどね(^^;それでも新たにまったく1から町を興すわけではありません。すでに都市は存在しており、曹操と許昌、孫権と建業のように政治的に拡張したりすることはあっても、次から次へと新城を建てたりはしません。人民も自然増していくんではなく、すでにいます。ここから行う内政は拡張ではなく整備・改修でしょう。何もないところに新たに耕地を耕し…というのは江南では行われたかもしれませんが、すでに2000年の歴史のある国、大方の都市では税制や人の配置で足ります。屯田制だって、無主農地の接収であって、荒野を一から耕しているわけではありません。

逆に、内政がそういった町の整備、人や制度のリストラクチャリングであるならば、徐々に内政値が上がっていく、というのはわかります。ところが最近のkoeiの三國志だと、武将自ら鍬をふるって……(T-T)いやあ、やっぱりそれはないでしょう(~_~;)陳宮や張昭のようなプライドの高そうな連中が鍬をふるっているはずもなく、いいとこ指導監督で、おそらく指導監督する者の指導監督、管理職というところです。

そうであるならば、より一層、連中がうまく管理できるかどうかが大事で、個人の能力に依存することになります。それも、土地や人や経理に対する専門知識が必要で、これはこれで、兵法や鍛練や兵站に対する専門知識が必要な武将と対になり、君主がどうこう指導すればよくなる、というものではなくなります。君主のすることはできる人材を重要なポストにつけることで、優秀な文官や将軍ができる人物を副官やその他重要なポストにはめて効果を上げるのと同じ話です。

とすると、やはり重要なのはこつこつ内政コマンドを押すことではなく、人材をはめることです。そこで銀英伝4との違いが出てきます。2国対峙の銀英伝4では、初期段階シナリオで最も人材が揃っていますが、三國志ではだんだん人材が増えていきます。初期段階シナリオでははめるべき人材がほとんどいません。いくら優秀でも関羽と張飛と簡雍だけでは、君主がはめるとしても限られています。けどまあ、史実どおりといえば史実どおり…(^^;;それに、特に何もすることがなかったら時間を進めればいいだけのことですし、内政コマンドを押して命令終了ボタンを押すのと、単に命令終了ボタンを押すのとどれだけの違いがあることか…。自分で国づくりをしている意識ができる?実際やってるのは簡雍なのに、劉備がボタンを押しただけで国づくりをしていると思わせてしまうのも、武将の個性がなくなる元ですな(~_~;)

簡雍が自発的に内政を行っていき、張飛が自発的に兵をしごく(というか、多分ずいぶん後まで、兵をしごくというよりかは、町のあぶれ者達に胸を貸し、たまにそいつをぶんまわしてどうだ強いだろうワハハという感じだったような気がしますが(^^;;)からこそ、連中がきっちりやってるな、つまり、武将たちの個性が出ているな、という気になるはずなのです。毎ターン簡雍に内政を命じ、張飛に訓練を命じると、全然連中の個性が見えません。簡雍でなく陳羣であっても、張飛でなく郭淮であっても一緒なのです。それを、文官に任じた簡雍が勝手に町を回り、武官に任じた張飛が勝手にのっぱらで兵を放り投げる、それで効果が上がっていくのが、個性が出ているところでしょう。逆に、よくわかってなくて、張飛を文官に任じ、簡雍を武官に任じれば、張飛は町の治安をよくしつつ、たまに酒飲んで暴れてかえって治安を悪くしたり(^^;簡雍が兵の不平不満を聞いて回って不穏な空気はなくなるものの、いつまでたってもまともに訓練されない、という結果になるのです。失敗といえば失敗、個性的といえば個性的です。

と、なると、城や軍団の文武の担当に命じるだけで、勝手に動き回る、やはりこういう形になりそうですね。で、君主はそれぞれがすることには基本的には口を出さない、と。じゃあ何をするんだ、というと、その配置を決めたり、軍団編成や戦争、外交などの大きなことになるのでしょう。弱っちかったら非常に早くゲームが進みそうですね(^^;;曹操が人材コレクターになるのもわかるというもので、人がいなけりゃほとんど何もできません。逆に武将がいれば、いろんなことができますね。

それから、銀英伝4で特徴的だった進言制度。三国志の物語でも荀ケや諸葛亮など、効果的な進言をしてくる連中がたくさんいました。効果的な進言だけでなく、蔡瑁のように悪口雜言の類を吹き込む場合もありますな(~_~;)諸葛亮を呼び出して意見を聞く、というようなやり方もいいでしょうが、銀英伝4でもそうであったように、基本的に士官達が言いたくなってやって来る、という感じの方がゲームとしては作りやすい(^^;;し、個性が出やすい、とも言えます。いちいち呼び出したりするような邪魔臭さもありません。

とはいえ曹操にせよ劉備にせよ、結構盛んに荀ケや諸葛亮を呼んで意見を聞いていたようですが、連中も策も意味もないのに呼び出されたりしても困るでしょう?(^^;;普段はそうやって呼んでいろいろ議論したりしているのかもしれませんが、それはさすがにゲームではできません(^^;;;私も彼らが思いつくような個性的なゲーム上の議論を思いつかない、という点が難点としてあります(~_~;)

三国志のゲームで進言制度のある三国動乱では、費用がかかるものの効果が大きい特殊な行動である、という風に、進言自体が特殊なゲームコマンドです。対して銀英伝4の進言は、容れられたとしても、本来進言がなくても同じことができるシステムです。龍王三国志も多分そうでしょうが、進言内容が誹謗中傷か不満ばかりで、前向きではなかったですね(~_~;)koei三國志シリーズは進言というよりルールのお知らせみたいで、なんの影響もありません。かつての光栄三國志は、コマンドの成否がわかるかなり重要な内容であったんですが、代を重ねるごとにコマンドの失敗がなくなってしまって、軍師の進言の地位は失墜しましたね(*_*)

銀英伝4では、作戦を行うにしてもすぐには実行しないシステムなため、進言によって生じた作戦の取り消しの進言もできました。koei風の三國志システムだと、戦争の意思決定即開戦であるため、進言の効果が大きすぎます。実際、隣町どうしの戦闘であればともかく、いや、それだって準備しているのを察知されたりして、すぐには戦闘できないはずなのに、koei型は突然戦争ができてしまいます。諸葛亮も苦労したように、戦争には準備が必要です。この辺はかつて一度検討しましたが、koei型だと常にいわば奇襲同然なため、前線に部隊を張り付けなければ怖くて仕方ありません。ところが実際の物語では、銀英伝にせよ、三国志にせよ、大部隊が前線に常に張りつくことはありません。兵站がもたないからでしょうが、長い国境線に大部隊を張り付けるのは意味がないからでしょう。ローマ帝国は前線に軍団が張り付いてましたが、敵が蛮族で動きが察知しにくいし早かったからでしょうね。しかも、それでもローマ街道で軍団同士が高速に移動して集中させることもできたから、帝国の範囲からいえば軍団兵数は少なかったともいえます。いずれにせよ、koei型ゲームで前線に部隊が集結してしまうのも、あっと言う間に攻めて来られるからでしょう。進言制度とともに、以前検討したような、すぐには戦争できないようにする形にすれば、武将がいろいろ進言して再考できたりもするし、防衛を練ったりしてそう簡単に奇襲状態にはならなくなるし、戦争もパズルゲーム的な城の奪いあいでなく、国と国のぶつかり合いになりそうです。

後は、君主を含む太守が何をやってるか、というところが残りますが、長くなったので、これは次回検討したいと思います(^-^)

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