kr_ryo 徒然日誌 <2006年1月8日分>

三國志製作記124〜今年こそ完成!(^O^)〜

皆さま明けましておめでとうございます\(^O^)/今年もkr_ryo 徒然日誌〜三國志製作記をよろしくお願いいたしますm(__)mって、あんまりよろしくお願いするのもなんですなあ〜(^^ゞいい加減完成させないと、って、はや(おそ?)見捨てられてるかもしれません(T-T)しかしながら、今までとは段違いのスピードで開発が進んでおります( ̄^ ̄)bなんとだいたいの骨格が出来上がっております。それも去年はやった耐震強度偽装みたいな鉄筋抜け建築ではなく、しっかりとした骨格がどんどん膨らむという形で膨らんでおります(^-^)それもこれもいつものことながら、デザインパターンのおかげでござる…(^^;;

多分三國志完成の暁には、HSP日曜テクニック集のように日曜はオブジェクト指向思考、とか、ワンパターンと言われてもかまわない人のためのデザインパターン、とかの入門講座でも書きたくなるくらい、オブジェクト指向様々だったりします(^O^)この豪快なスピードはオブジェクト指向、それからデザインパターン抜きには語れないくらい、でっかいプログラムも簡単に作れるようになります…そうです、三國志、めちゃくちゃでかくなっています(~_~;)

何がでっかいって、UI、ユーザーインターフェース関連がものすごく大きいのです。ひとつのコマンド操作をひとつのオブジェクトとして扱わないと、収拾がつかないくらい量が多いのです。命令の量が多いわけではありません。これまで何度も書いてきましたように、内政コマンドが大量にあるわけではありません。当然頻繁に戦争ばっかりできるはずもありませんので、内政がなければ普段はほとんど何もしない状態です。

それでも、なんとなくいろんなことができます。なんなんでしょう、これまでのシミュレーションゲームがコマンド中心だったとすれば、武将中心、つまりオブジェクト中心といってもいいかもしれません。コマンド、つまり手続を中心に見ないというのは、オブジェクト指向からすれば当然の発想ですね。そうなると、逆にコマンドの量がなんとなく増えるんです。コマンドに合わせた窮屈なルールから、武将ならこうするのが普通かな、というような感じでコマンドが増えていく、という感じといえばいいでしょうか。なんだかよくわからないかもしれません(^^;;A同じに聞こえますか?

コマンド中心だとしましょう。開墾と治水のコマンドがあるとすれば、武将は開墾と治水を行うことになりますし、城には開墾と治水に対応したパラメータが必要になります。もちろん内政力のようなパラメータは武将にも必要になりますね。で、開墾と治水によって上がる資金や生産力のようなパラメータも必要になってきます。そのパラメータが上がってない状態と、上がった状態とでのバランスを取ることも必要になります…もっとも、ゲーム開始直後は極端に低く、上げなきゃどうしようもない状態であることが多いし、上がったら上がったで下がらないため、刷り込みのように、未開拓地のパラメータをどんどん上げ続ける、というプレイはよくやりますよね〜シムシティなんかもそうで、マップに空きがなくなるまでひたすら開発しまくることになります…

そうやって、開墾や治水といったコマンドにともなって他の要素が整備されていくわけですから、武将によってできることが違う、ということができずらいわけです。開墾ができない武将、訓練ができない武将ということは、まあ、ありえるわけですけど、上げが遅いだけでできんことはないだろう、とばかり、畑を耕す張飛、荒くれを鍛える郭嘉なんて無駄な(^^;;ことをすることももちろんできます。できるならしないこともあるわけだから、しなくてもいいじゃないか、と、も言えます。もちろんその通りです。そうやってシリーズも続いていますし、何ら問題はないわけです。

しかし、コマンド中心なんです。開墾や治水はしなくちゃならないんです。で、全員できるしやらなくちゃならないなら、傾斜配分生産方式にすぐなるわけです。つまり、全武将を一気に開墾に、一気に訓練に、ということはいつだってできます。いつだってできるなら、手があくのは悪だとばかり、総掛かりでさせるわけです。で、これがシミュレーションの雰囲気をぶち壊すゲームの雰囲気にしてしまうのです。張飛にゃあ畑を耕すなんて似合いませんぜ〜猪を狩る方が似合ってまっせ〜(^^;

これがオブジェクト中心、武将中心だとしましょう。武将ができること、というのがまずあります。ひとり一芸ではないですが、できること、得意なことをさせることが一番効率がよい、というならそれを勝手にさせておくのがもっとも楽でいいわけです。まあ、全員畑で泥まみれにならなきゃならんこともあるでしょうが、そういうことが例外であって、普段は張飛は訓練、郭嘉は謀略を考えてくれた方がいいわけです(^^;;

こう考えていくと、コマンド中心型は、一見自由に見えますが、それは君主、プレイヤー様にとっての自由であって、まさに専制君主の自由です。ゲームくらいしか味わえないからいいじゃねえか、という気もしますが(^^;プレイヤー様にとっての自由は武将にとっての不自由、まさにその、青雲にかける思いとは全然関係なく、田んぼで泥まみれになってるわけです。それも、訓練するには余ってるし、手があくのは悪だし、無駄だからな〜と、専制君主のプレイヤー様が思ったとたん、十把一絡げにして開墾部隊に放り込まれるわけです。嗚呼!

始皇帝の時代がまさにそうでしたが、専制君主がそう言えば、黙ってしなければ文字通り首が飛ぶわけです。よくても地位も身分も奪われて、奴隷として働かされるわけでして、やっぱり働かされることにかけては一緒です(~_~;)そこに武将の個性も思いも全然反映されないのは当然、で、ゲームでも似たような世界になっているわけです。下手すりゃ君主武将も十把一絡げで……って、そりゃよくある話ですね。

文句を言わせるのもおもしろいでしょう、が、プレイヤー様の、コマンドが、中心です。プレイヤー様のコマンドによらず、勝手に訓練をはじめるのはいかんのです。なぜなら、そうなってしまうとプレイヤー様のコマンドが実行できなくなるからです。プレイヤー様のコマンドが終わってから、手の空いた武将が勝手にコマンドを実行する、というのも考えられなくはないですが、プレイヤー様が十把一絡げに開墾コマンドをお押しになるなら、あんまり意味はないわけです(~_~;)

むしろ、委任なんてした日にゃあ、そこもとはなにゆえに、左様に無駄なことをさせたり、手を空かせたりするのぢゃ?!と太守を呼びつけて叱り飛ばしたりしたくなること請け合えます(~_~;)そんなことはよーく経験しましたよ〜兵ひとり一人単位で命令でき、基本はコマンド待ちばかりのコサックスでさえ、鹵獲できそうな大砲を奪いに戦列を勝手に乱す兵たちを抑えるのは大変なのです。勝手に動くな〜!って。動いてほしくないときにまた、動く(~_~;)動かないといけないときは動かない(*_*)

結局、とにかくコマンド中心主義は効率が問題になります。いかに、回数を少なくして、上限値まで上げるか、と。やっぱり手があくのは悪なんです。悪は滅ぼさないといけない。秦はひたすら民も兵も法に基づき効率よく動くことで天下を統一しました。効率を最優先させることは、個性も思いも殺さなければならず、他の国民が秦を嫌ったのはそのせいです。そしてその鬱屈、できないこと、無理やりさせられることで押さえつけられた民のパワーが、秦を滅ぼしたのです。それでも、他の国なら単独で簡単に滅ぼせるくらい、秦は強かったのです。

新たな専制君主たるプレイヤー様も、ひたすら効率で武将も城も見てしまいます。呂布は嫌いでも、武力100は大好きなんです。いや、武力100が大好きなんであって、呂布はどうでもいいのです。ここでは、呂布という個性と、武力100という数値は分離しています。コマンドにとって、呂布という個性は問題にならないのです。武力100という数値が問題なのであって、呂布だろうが張飛だろうが、黒猫だろうが白猫だろうが、鼠を獲る猫がいい猫なんです。

始皇帝は、国家に対する功績があろうが、人格が優れていようが、歯向かえば殺し、従わなければ追放しました。なぜならそういう奴らは効率が悪いからです。幸いなことに、ゲームではプレイヤー様のコマンドに逆らう武将はいません。みーんな、唯々諾々です。効率がいいことおびただしく、だからこそ、少しでも能力の低い奴は邪険に扱うわけです。史実ではどんなに表裏背反だったり悪いことをしたり他の君主に忠義を尽くしていても、自分に仕えてくれて、能力が高ければ、即顕官、即上将軍、即丞相です。しかし、ちょっとでも能力が高い者が現れれば、即お払い箱です。十把一絡げにして開墾です。ひぇ〜!

そういうプレイを皆さまもしていませんでしたか?(^^;;物語上、劉備が関羽や張飛にやいのやいの言われても効率を重視せず、信義原則を守ったのは、漢の国是から、秦のような効率重視を取り得なかったからでしょう。その対極とされた曹操は、始皇帝同様1000年2000年経っても悪役です。実際は、呂布を殺せと進言したのは劉備ですし、敵方の陳宮にせよ張遼にせよ味方に引き入れようとしています。劉備だってなんだかんだいって本気で滅ぼしてませんし、関羽は手厚くもてなし、結局献帝も残したままです。粛清したのも、曹操を殺そうとたくらんだ連中であって、いくらなんでも自分を殺そうとした連中を放置するわけにはいかんでしょう。まあ、見ようによっちゃあ、優秀な連中だけ効率重視で味方に引き入れた、と言えなくもないわけですし、徐州侵攻の評判が悪すぎました。とはいえ、徐州って、呂布以降曹操の下につくわけですが、なんら問題が生じていません。父を殺された恨みをはらしたジェノサイドは、どうも嘘くさい感じはします。村を全滅させたくらいはしたでしょうが、州全体を根絶やしにする、というのはいくらなんでも話が大げさだった、というところでしょうか?また、行政改革はじめ、効率を重視していたのは間違いがなく、その辺が秦の悪夢にリンクして、曹操悪役説が素直に受け入れられた、というところでしょうか。

漢だって、いや、たいていの専制君主国家は専制君主にとって非常に効率のよい政体です。国全体とか、国民全体にとって効率がよいわけではありません。専制君主にとって効率のよい政体なんです。たまたま専制君主が国民や国全体のことを考えていれば国や国民にとって幸せですが、専制君主本人の快楽のために効率がよくなると、悪夢の国家が生まれます。専制君主たるプレイヤー様が天下を統一することを効率よく行うことを目的とすれば、副次的に戦乱が治まり、経済が発展するんでしょうけど、さて、ふと、徳治をやりたい、と考えたときには、コマンド中心主義が極端に虚しくなります。たとえば、四国一円を配下に治めたが、本土に攻め入るには武将も兵も足りず、逆に攻め込まれて延々小競り合いを繰り返していたので強大な同盟国と同盟を結んだ、と。しかしあまりに同盟国が強大すぎて、中部から西は統一、残る関東東北に勝手に進軍している、という状況。こうなるといくら四国を繁栄させようと、もはやこれまで、感がただよいます。ようやくゆっくり開発できる、と思っても、その開発自体がなんのためにやってるんだろう、と虚しくなるんです。なりませんか?シムシティならならないかもしれませんが(^^;;戦国ゲームなら、開発はいくらなんでも戦争の従。数値を上げてもあんまり…という感じになるんです。

それは、コマンドが開発も戦争も効率よく天下を統一するためのものでしかないからです。そういう意味では従順すぎる武将もコマにすぎず、ふと、孤独に襲われる、という感じです。専制君主も専制社長も孤独を味わうそうですが、まさにそれです。唯一の目的であった天下統一ができなくなると、虚しくなるんです。

と、まあ、年始の話題にしてはだんだん暗くなってきましたが(^^;;ゲームって、結局効率なんですよね。シューティングだって、RPGだって、シミュレーションだって、いかに効率よく点数や経験値や領地を稼ぐか、です。ゲームとはすべからく、そう、と。ゲーム自体が無駄の局地といえば局地といえるなか(^^;;;効率を争う、と。そう考えると、自分も含めて他人を効率よく働かさせるのって、正月をのんべんだらりとすごすのと同様、意外とイイ!のかもしれませんねえ〜(^^;;

index

〔TopPage〕

このページへのリンクはフリーです。
このページについてのご意見、ご質問などは、kr_ryo_green@yahoo.co.jpまでお願いします。
Copyright 2006© kr_ryo All rights reserved.
訪問件数