kr_ryo 徒然日誌 <2006年3月5日分>

三國志製作記130〜いかにもゲーム、の功罪〜

やっぱり新しいソフトを公開すると、公開のためのあれこれの手続や、ぎりぎりまでのバグ取りなんて手間はかかります。それでもやり遂げると充実感にあふれます(^O^)そうなると終わるとどっと脱力〜になるわけでして、もともとLNKLNCは開発から完成までの期間が数時間というソフトなんですけど、その後脱力感をふみ超えての機能追加にはげむという状況になってしまいました(^^;;と、これではまたLNKLNCのお話になってしまいますので、三國志製作に強制的に戻しましょう(^ー^)

さて、とうとう130回、本家三國志演義は全120回なわけですから、もはや延長戦ですね。我ながら三國志製作記がここまで続くとは思っていなかったんですけども、ここまで長引いた理由のひとつは、ゲーム的表現をいかにすべきか、というところにあります。かつてシミュレーションかゲームかで検討したことがありましたけども、何よりも既存のゲームはいかにもゲーム、という要素が色濃く残る面があり、しかしながらそれを除去すればゲームにならない、というところがなかなかクリアにならなかったのです。

簡単に言うと、シミュレーションするためのルールの出来で、シミュレーションにもなり、いかにもゲームにもなる、ということです。あるゲームのルールをまねすればそっくりのゲームになりますけど、本来はあるゲームのルールをまねするんじゃあなく、実際の状況や戦闘や内政をまねするべきですよね。まさにそれがシミュレーションのシミュレーションたるゆえんであります。ところが、どんなゲームもシミュレーションから遠い近いはありつつも、なんかが変、と思うことはあるわけです(--;

現実をそのままそっくり転写できれば、完璧なシミュレーションといえましょう。しかし、ほとんど現実そのものに見える鉄道運転シミュレーションとかでもそうなんですが、現実のある一面だけを取り出しているんです。鉄道運転シミュレーションでいえば、鉄道運転だけに特化しているわけで、これはこれで現実の一部を取捨しているんです。鉄道運転シミュレーションで鉄道会社経営だとかファンド対策なんかはあんまりしたくないわけですね(^^;;とりあえず運転だけをしていたいんです。鉄道経営なら別のソフトになってしまいます。そして、鉄道経営ソフトなら、ゲーム中にいちいち鉄道運転なんてしないわけです。

で、その現実の取り出し具合が詳細であれば詳細であるほど、ルールが詳細煩雑になります。だから戦略を楽しみたいなら、銃の弾込め方法の差異を検討したりはしたくないんです。必要な面だけを取り出す必要があります。つまり、ある程度の捨象ですね。で、当然のことながら捨象すればするほど現実とは離れてきます。西部戦線異常なし、です。個々の兵がどうなっていようと軍団は異常なく現地にとどまっているんです。

扱う部隊が軍団なのか小隊なのかは、現実におけるとらえ方と同じなので、シミュレーション化は容易です。問題はゲームにするための捨象です。補給なんてほとんどのゲームでは捨て去られています。しかし現実で補給を忘れた作戦を立てれば、旧日本軍同様餓死が待っています(ToT)それでもゲームでは忘れてしまうんですよね〜(^^;;

補給だけでなく、部隊間の通信連絡と統率だとか、攻城戦兵器だとか、移動速度だとか、いろんな要素を捨て去っているんですけど、捨て去ったことによって、現実ではあり得ない雰囲気になってしまいます。これがいかにもゲーム、となることの原因です。補給線を現実に近いようにルール化すれば、現実に近いような動きをしないといけなくなるでしょう。無視すればどこまでも動き回れてしまい、いかにもゲーム、という雰囲気にさせてしまいます。

私がどうしても戦術マップを好きになれないのは、ヘックス戦というものがどうしても持つ、現実風に見せてやっぱり似ても似つかぬ状況が嫌いなんですよね。たった1兵の部隊でも1ヘックスを占め、敵の移動を阻止できるなんておかしいでしょ?また、移動と統率ルールをよほどしっかりしておかなければ、わらわらばらばらと部隊が打ちかかるようになってしまいます。別にヘックス戦にしたからリアルになるわけでもありません。それくらいならコサックスのようなリアルタイムストラテジーの方がはるかにリアルです。が、そんなものを作れる技量が私にないだけです(^^;;

もっとも、コサックスで大兵団を指揮するシナリオがありますけど、到底指揮なんてできませんな(~_~;)ひとりであちこち画面を動かしては指示を出し…としていたら、ええい、じゃまくさい!と思うだけになりました(*_*)別にそれで戦術が体験できるわけでもなく、単に前に進ませるだけで大変なんですから、やってられません。それが右翼部隊、中央部隊、左翼部隊という3ユニットくらいならまだ指揮のし甲斐もあるんでしょうけど、それくらいだったらわざわざ1兵ずつ動かせる必要なんてないわけで(^^;と、考えていくと、別に個々の部隊や兵なんて取捨してしまっちゃったらいい、となり、それだったら戦術マップだっていらんなあ〜となります。まあ、ここら辺は好みでしょうね。私は好かんというだけです(^^;;;

話を戻すと、結局取捨の仕方によっていかにもゲーム、にも見え、すごいシミュレーション、にも見えるわけです。補給によって現実の移動やなんかが束縛されるなら、本来補給は捨てちゃあいけないんです。部隊は軍団の旗の下に行動するルールがなければ、勝手に打ちかかっていって、なんのための軍団?となるんです。煩雑さという問題はありつつも、必要なルールはシミュレーションとなるために是非必要でしょう。

太平洋戦争のゲームは割合ルールが煩雑になりやすいんですけど、それでも残り弾薬なんてのはルール化してたら、多分嫌になるでしょう(T-T)しかし当然、いくらでも駆逐艦が魚雷を放ってたら、いかにもゲーム、という感じになってしまいますね。さらに、中途半端なルールというのはあります。日本の駆逐艦は魚雷の次発装填装置というのが実用化されており、1海戦で2回魚雷攻撃ができる、というのが、アメリカの駆逐艦と違う、大きなアドバンテージとしてありました。で、たとえば光栄の提督の決断3なんかでそれがルール化されていて、確かに1海戦で2回、魚雷攻撃できます。それが、一度海戦が終了してまたすぐ海戦が起こっても、また2回魚雷攻撃ができるようになります。どこにあんなでかい魚雷を何本も積んでいたんだ?てな感じで(^^;;

同じように三国時代の内政や戦闘でも譲れない線というのがあるはずです。馬や水軍なんかは微妙で、ゲームによってあったりなかったりしますが、あってもなくても雰囲気に変わりがない気がするのが正直なところ(^^;対して補給は結構物語上存在感がありました。そもそも兵糧に苦労したり兵糧集積地を奇襲したり、桟道を苦労して運んだりとか、兵糧が送られてこなかったりとかの場面があります。とはいえ以前も検討しましたが、兵糧がない、ということをシミュレーションするためだけの兵糧値というのはいかにもゲームという感じはしますね。0になった直後に全滅する、というのも、あまりに早死にしすぎ…?

ほとんどの作戦級以下のボードゲームでは補給や補給切れは要素として重要ですが、なぜかPCゲームでは無視されやすい要素です。ボードゲームそのものの煩雑さをなくして便利になったコンピュータゲームのはずなのに、そもそも補給要素をなくしてますよね。なぜかな?そういえば、ボードゲームなら100ユニットなんて少ない方なのに、100どころか味方5部隊、敵5部隊しか配置できない戦術マップなんてのもありますな。意外と管理しにくいんでしょうか?

もちろんSWGの艦数上限は管理の問題です( ̄^ ̄)って、エラそうにはいえませんね(^^ゞこの上限もいかにもゲーム、ですね。ただし、上限がない、ってのもいかにもゲーム、なんですよね。いくらアメリカが物量攻勢をかけても、戦艦2万隻空母4万隻を達成できたらいかにもゲーム、です。銀英伝じゃあないんですから…(^^;;じゃあどこが上限なのか、というと、国力に行き着かざるをえない。そうするとドッグの数がなんぼ、鉄鋼量がなんぼ、費用がなんぼ…とだんだん煩雑になっていきます。その辺は捨象した結果の上限、てのがあれば、まあ、現実的シミュレーション的なんですよね。で、戦艦5ポイント空母7ポイント等合計790ポイントまで、1ターン最大利用は同時に7隻までか20ポイントまでかのどちらか、とかいう感じになります。

もっとも、こうやってルールを細かく決めていくと、戦略級が作戦級に落ちていきます。本来生産や配備をも決めれるのが戦略級の醍醐味なのに、それが決められちゃったら、結局作戦しか決められる要素がないからです。それで、10ポイント使えば同時に生産できる隻数が1増える、とかの生産ルール改定が始まるんですけど、これこそがシミュレーションのためのルールがゲームのためのルールに変わる原因です。なんじゃ10ポイントって?ということなんです。そもそも戦艦5ポイント等は、戦場に登場する戦艦数が極端に増えたりしないようにするルールでした。シミュレーションのためのルールですね。で、シミュレーションのためのルールであるからこそ、ゲーム、つまりプレイヤーのためのルールを制限しちゃうわけです。プレイヤーの生産の任意性が減る、ということなんです。もちろんそれが目的だから当たり前ちゃあ当たり前なんです。そこを揺り戻して、生産ルール自体もゲームのルールにして任意性を増そうとするから、10ポイント使って生産能力向上、とかのルールが出来上がる。しかし、戦艦2隻分の10ポイントと生産性向上の10ポイントがなぜに互換性があるのか?そうなってくると、当然揺り戻してるんですから当然ですけども、いかにもゲーム、になる、と。

兵士1人なり戦艦1隻なりを徴募生産するのは、兵士、や戦艦、が現実にも同じものがあるわけですから、シミュレーションしうる話です。ところが兵士1人を用意できる人口だとか、戦艦1隻を作るだけの国力だとかは、厳密にシミュレーションしない要素です。捨象されてるわけです。別に具体的に表現してもいいわけですが、ゲームの本筋に関係が薄い…薄いんです、補給以上に。書いていてほんまにそうなん?と思ってしまいましたね〜(^^;;シムシティなんかでは建物や人口がシミュレーションされてます。三国志なり太平洋戦争なりでも、できんことはない。できんことはないが、していない。なぜにしていないか。それはプレイヤーが操作して左右するべき要素でないからです。

おかしいですわな。内政やなんかで結局左右しちゃってます。下手すると戦争よりもはるかに内政の方が細かかったりします。しかし、シムシティと違って、本質的に戦闘戦争ゲームであるから、三国志のゲームは内政はプレイヤーが左右するべき対象ではなかったんです。ところが、具体的な徴募兵数というものが、どこの土地でも同じであればおかしい。そこでその土地の兵力、というものをシミュレーションするために、捨象された国力という抽象的要素を登場させた、と。しかしいつまでたっても徐州の兵力が貧弱だとおもしろくない、とかいうことになって、兵力の従要素たるべき国力の向上を、徴兵の代わりにできるよう互換性を持たせてしまった。つまり、徴兵するか国力向上するかの選択権をプレイヤーに預けてしまったわけです。それはそれでまったく間違いではないんです。現実でも軍備にお金を使うか、内政にお金を使うかは選べられますからね。

問題は、兵力が具体的であるのに対し、相変わらず国力は抽象的で、しかも究極的には兵力の従要素でしかないことなんです。あくまでその徴兵力が妥当であることの指標にすぎない。だからこそ、シムシティがいつまでたっても終わらせなくてもまあまあ楽しいのに対し、同盟国と自国だけが存在し、天下統一できない状態で内政ばかりしていてもちっとも楽しくないのです。シムシティの市力向上は目的なのに対し、三国志ゲームの国力向上は兵力の従にすぎないので、上がったからといって、兵が必要ないならまったく必要ないんです。

しかも、本質が徴兵量の指標であるにすぎないので、どう上げるがまったく現実と遊離しているんです。そもそも捨象された指標ですんで、それを上げるのに具体的にどうするか、ということは、なんであってもいいんです。開墾をしようが治水しようが、金だけだろうが武将が参加しようが月に1回ろうが3回してようが、なんだっていいわけです。まったくの自由です。だからこそどのようにも表現できるわけで、いろんな表現方法ごとにゲームができるんです。もっとも、だんだんそっちがメインになってきて、兵数向上よりはるかに多彩なバリエーション、大量のコマンド、と、まさにこういうのを本末転倒といったらいいんでしょうかねえ(^^;;

どこまでいっても目的が天下の統一である以上、国力は兵力の担保、従なんです。本来天下統一するための戦争戦闘ゲームであるから、戦争の準備としての内政にすぎません。徳治ルールがあって、内政値が一定の水準を超えれば隣接国が味方になる、というようなものがあれば、これはこれで兵力とは独立した存在になり得るでしょう。しかし、三国志にそういうシーンがない以上、シミュレーションできません。殷周時代のシミュレーションならできましょうか?(封神演義?)まあ、結局はどの時代でも相手を武力で打ち倒しているわけですから、国力が主たりえません。あくまで兵なり戦艦なりをいくら生産できるかの指標です。指標であるからこそ、それをプレイヤーがむやみに左右することはシミュレーション性を損ねます。よくあるシミュレーションゲームが、ほんっとの最初だけ違って、どこで誰でプレイしても途中から同じになる、というのは、プレイヤーが国力を左右するからなんです。地域性地方性の指標であった国力を左右できる以上、結局途中でどことも同じになってしまうんです。

交州の君主でプレイしていても、そのうち洛陽でプレイしているのと同じような状況になるのは、そうできてしまうからなんです。史実では、交州どころか揚州ですら、孫権は人口不足にひたすら悩み、夷州台湾に人狩の兵を出して見事に失敗します。当然これを再現・シミュレーションしようと思ったら、揚州の国力上昇をルールで制限する必要があります。端的には国力上限ルールです。ただ、これだって艦数上限とどれだけ違いがあるか、ということになります。なぜなら、国力はプレイヤーの一存で上がるからです。戦艦だってプレイヤーの一存で上がるのは同じでしょ?とりあえず国力の上限まで上げられたんなら、それ以上上げれてもおかしくない、といえばおかしくないでしょう。戦艦が5隻まで作れたんだったら、それ以上作れてもおかしくないでしょう?

で、それを認めたら、地域性をシミュレーションするものではなくなります。交州と洛陽が同じ国力になります。これがいかにもゲーム、となるゆえんです。逆に認めないなら認めないなりの理屈が必要です。地域性、と言いつつ、上限まで上げられるんなら、それ以上が駄目な理由は相当難しい。となると、これだっていかにもゲーム、になってしまいます。

この解決策は、実はすでに出ています。国力は本来兵力制限の指標だったんです。兵力7000万がおかしいとして、7万が精一杯ということを是認できるための指標が国力だったんです。つまり、それ自体の制限はおかしいが、他の要素をもって制限することは、それ自体が理由になるんです。兵力が上げられないのは国力が足りないからなんです。兵力上限なんてなくとも、国力という別の要素をもってすれば制限できるんです。そう、すでに答えは出ていたんです。問題は、その国力という指標を制限する指標がないことなんです。

もちろん国力の増減をプレイヤーの任意でできないようにすればいいんです。が、戦略級ではそれは取り得ません。国力も操作できるのが戦略級の醍醐味です。だいたい国力が一定なら文官なんていらないじゃあないですか(^^;;諸葛亮だって活躍の場面がぐんと減ります。だったら兵力に対する国力のように、国力を制限できる指標があればよい、と。

言うは簡単、残念ながらたいていのシミュレーションゲームでは、兵力上限のための国力でしかないことがほとんどです。そうでなければ、国力のための国力です。内政ばっかりするはめになるのはそのためです。挙げ句にやっぱり上限があり、上限まであげるための内政と化しています。考えられる指標のひとつは人口ですが、孫権の例を見ても人口は単なる制限値にすぎなくなり、そんな半端な要素を持ち出すくらいなら、国力の増減を制限した方がましでしょう。

まずもって、兵力のための国力であるとおり、本来内政に力を入れたとしても終極的には戦争でけりをつけなければなりません。国力だろうが人口だろうが、城を勝ち取ってなんぼの世界です。1城の内政をしこしこ上げて、そこを拠点に大兵力で攻めまくる、ということができてしまうのはやっぱりシミュレーションではありません。いかにもゲーム、です。そんなことできるなら劉備はもっと強かったでしょう。織田家だって美濃を取ったから強大化したんです。尾張一国ならそのうち武田に滅ぼされたでしょう。だからこその天下三分です。曹操に今更1城2城の兵力ではかなわないのです。蜀を取ってこそ、です。1城の内政をしっかりできれば、という発想は、諸葛亮なき劉備と同じ発想なのです。勝つにはやっぱり、戦え武将たち、というわけですね(^O^)

index

〔TopPage〕

このページへのリンクはフリーです。
このページについてのご意見、ご質問などは、kr_ryo_green@yahoo.co.jpまでお願いします。
Copyright 2006© kr_ryo All rights reserved.
訪問件数