kr_ryo 徒然日誌 <2006年4月16日分>

三國志製作記136〜戦闘の行方、戦略級の自由〜

前回さっそくテストのための戦闘シーンを作ってみました。呂布と関羽が激突する、お互いなかなか簡単には圧倒できないもの、なんですが……いやあ、作ってみてわかりましたが、机上どおりにはうまくいかない(*_*)

何がどおって、武力や知力や訓練など、いろいろなパラメータがあるのはシミュレーションゲームの常ながら、それがどういう影響を与えるとか、どう変わっていくかの調整がなかなか難しいんです。たとえば、たまたま呂布と関羽なんで、当然武力が高い連中という前提です。そうすると、その武力の高さはどういう風に戦闘に影響するか。呂布の5千と関羽ではなく袁術の4万がぶつかったら、どっちが強いか。

たとえば武力は一騎討ちにしか影響しないとすれば、袁術は一騎討ちに出さえしなければ呂布を圧倒します。しかし、それでシミュレートになっているか?当然5千だろうが、呂布は一騎討ち以外でも強くなきゃいけない(^^;;だとすると、呂布の武力は兵いくら分のパワーになるのか、ということが問題になります。

これを10段階評価するとして、最高の10が兵1万に相当するとなると、呂布は兵1万5千分のパワーです。しかしそれでもまだ袁術4万にかなわない。だいたいそういう設定では、たとえばへぼ武将で武力が最低の1でも、兵1千に相当し、それはそれでかなり無理があります。うむー!

以前お話したお金と国力の交換同様、武力と兵力の互換も、作ってみてはじめて???ということがわかります(*_*)書いているだけだとなんとなくイメージでいっている面もありますからねえ〜それに兵力自体、多ければ強い、というわけでもないはずです。曹操が大軍をもってしても赤壁で負けたのは、戦場で兵をうまく使えなかったからです。そうこう考えていくと、よくあるシミュレーションゲームの戦闘でのダメージ、いったいどういう算式で計上されているんでしょうねぇ…

兵が多ければ、一度の破壊力は大きいことがわかります。しかしそれは一人ひとりの兵士の攻撃を合わせただけ、と考えることはできます。そうすると、武将の武力だって、一人きりでは兵士何人分で表す程度のものでしかありません。1万の兵に相当するからといって、本当に1万人分の攻撃をすることができるはずはありません(^^;;とはいえ、いろんな物語を読んでいくと、やっぱり強力な武将が率いるのと、三下武将が率いるのとでは全然攻撃力が違う、というのがイメージです。シミュレートです。ふむむ…そう考えると、武将の武力が高ければ高いほど、単純な兵数を超えてのダメージを与えるはず、ただ、どういう式か、そこが問題なんです。

以前お話したように、武将が前線に立たなきゃ兵士も前に進みません。歴戦の兵だって、自分から前に進むはずもなく、指揮官の指揮に従います。武力が高いとこの辺の指揮が優れているということになるんでしょうかねえ。前に進みやすいから打撃が大きいという…と、考えていくと、今度は兵の訓練はどうなるのか、というところも問題になります。武将の武力と兵数と兵の訓練と、これらの要素間を調整しなきゃ、うまく攻撃もできません、ふむむむ…

一騎討ちは比較的楽です。RPGの戦闘シーンが参考になりますからね。とはいえこれだって、常にどちらかが頸を刎ねられる結果になっちゃあいけません。いくら武将余り現象とはいえ、これではいくら武将がいても足りませんからね……物語ではよく刎ねられてましたけどね(--;)けれども、全然刎ねられないなら、一騎討ちの意味がありません。プレイヤーが呂布や関羽を出したら、血を見ないわけにはいかんでしょう(*_*)しかしながら、よくあるシミュレーションゲームのように、武力が1違えば結果は決まっている、というようなのではあまりにひどいし、かといって10も違うのにいつもあっさり負けたら、戦艦がミサイル艦に撃沈される以上に抗議が殺到しそうです(^^;;A

さらに、あまりに武力差があれば、あっさり刎ねられやすいながら、いつもいっつも刎ねられてばっかりというのもおもしろくない。ちょっとは善戦してくれよ…とも思います。また、お互い武力が高くて差がない場合、全然勝負がつかない、というのもまったく退屈です。しかし呂布の頸があっさり刎ねられてしまったら、リセットしたくなるでしょう(*_*)それでもある程度は刎ねられる可能性がなければ、手に汗握りません。この辺のバランスも、テストプログラムを作ってはじめて気付くことです。うむむ…

よくあるシミュレーションゲームでは、一騎討ちで負けても捕らえられるだけという甘ちゃんな結果が多いですけども、硬派な私は( ̄^ ̄)、というか、この手の話を読めば読むほど、刎ね飛ばすまではいわないものの、致命傷を負わせるのが自然な気がします。実力が伯仲している連中が死力を尽くして、致命傷を負わさずに相手を捕らえるなんてことにはなりません。もちろん実力差があれば別ですよ。よく、赤子の手をひねるようなもの、と言いますが、本当にそれだけの差があればともかく、K−1でもプライドでも、実力が近ければ近いほど、また、実力差があっても低い方のレベルも並外れていればいるほど、なかなかKOなんて出ないんです。逆に、実力があるもん同士なら、ちょっとしたことであっさりKOも出るもんです。物語では呂布と関羽だってそう何度も刃をかわしてません。K−1並に何度か戦えば、もしかするとどっちかがKOされたりするシーンが頻出するかもしれませんよ…(°o°;)

さらに諸葛亮や曹操など、智謀の士の扱い。体格の劣る曹操は武芸はたいしてできなかったはずなのに、戦ではめっぽう強かったですね。油断しなきゃほとんど負けません。負けたときは負けたときで、また派手に負けたのも曹操の特徴でした。諸葛亮は諸葛亮で、とりあえず大敗はしませんでしたね。諸葛亮の作戦能力は非常に疑問ではあるんですけど、これもま、イメージで(^^;;強いことにしておきましょう。ほんで、こういう連中が呂布や関羽などの武辺者の指揮する軍と戦ったらどうか。曹操は最後はなんとかどうにか馬超に勝ちましたね。しかし、真っ向から激突して、馬超に追い立てられたこともありました。諸葛亮は前線に立ってないのでよくわかりません…というか、諸葛亮の作戦能力を勘案しようとするからなんだかよくわからないことになる。

戦の機微というか、センスというか、そういうものはあるはずで、劉備が弱かったのは、戦のセンスはあっても、いつもいつも勝てない戦をしてしまうところにあります。センスがなければ生き残ることはできないでしょう。曹操だったら勝てるまで準備を怠らないところ、劉備はその辺の準備をする能力がなかったとしか思えません。逆に諸葛亮は、戦のセンスはなかったようにも思えますが、勝てないまでも負けない準備は完璧です。

この辺のセンスとは別に、戦場における個人の統率力というか破壊力というか、武辺者には勢いがあります。少なくとも敵の呂布や関羽が突撃してきた時に、智謀の士といえど慌てふためいて逃げないだけの度胸が求められます。それがなければ参謀どまりで、立派な大将にはなれません。で、諸葛亮は戦場でも鎧を着なかった(着られなかった?)ことといい、大男だったことといい、若いころの行いといい(^^;;きっと度胸はあったんでしょう。大将の資格ありです。そういう意味では、曹操といい劉備といい孫権といい、最後まで残る英雄は前線に立つ勇気がありますね。根性なしの袁術とは違うところです。

それはともかく、やっぱり武辺者は勢いで、智者は指揮力で、それなりに兵をまとめて破壊力を上げていくことでしょう。勢いがあれば多少の陣形の不備なんて気にしないし、指揮力があれば個人個人を超えてまとまって攻撃できるでしょう。とすると、同じようなものと考えるのがいいんでしょうかねえ…

こうやって戦場のシーンを構築していくと、ふと思うのが普段のシーンです。痛撃を与えきれず膠着状態の戦場で攻撃ボタンを連打するのと、普段のシーンで命令終了ボタンを連打するのとでは意味がかなり違うような気はするんです。戦闘シーンで攻撃ボタンを連打するのは、まさにいらいらっ、と、「ええい、何をやっとる!」いう感じですよね。差がないときは、あっさり終わるよりいらいらした方がイメージにあう、と。

これに対し、普段のシーン。内政も含め、いったい普段は何をやってるんだろう、というのがこれまでそれこそ何度もなんども検討してきたところです。それが命令終了ボタン連打はイメージどおりなのか?もちろん内政ボタンの連打ならまったく同じことです。

攻撃ボタンの連打と普段の命令終了ボタン(または内政ボタン)の連打とでは、こうやって比較すると、決定的に違う点が見えてきます。何かというと、攻撃ボタンの連打は、シミュレートしてる対象もプレイヤーの意図も、攻撃するしかない…という閉塞性、他にできることはない、という状態を表しています。もちろん突撃ボタンがあれば突撃ボタンを押してもいいんですけど、まわりの三下武将を見回すと、攻撃ボタンしかない、というところで、シミュレートされる総大将もプレイヤーも同じ思いを抱いてます。

これに対し普段のシーン。本来(内政も含め)シミュレートされる対象はいろんなことができるはずです。しかしゲームでは、何もかも捨て去られて(場合によっては内政コマンドも含めてなくされて)しまって、できることといえば命令終了ボタンを押すか戦争するかしかありません。これがまさにゲームにおける抽象化捨象化なんですけど、ここではシミュレートされる太守や君主とプレイヤーとでは、違う思いを抱いています。つまり、太守や君主なら本来できることはいっぱいあるはずなのに、ゲームではゲームに関係ないことはプレイヤーはまったく何もできないことになっている、と。

まあ、だからといってやたら細かい内政コマンドがあったり、街に出かけてみた雰囲気だとか、なぜか宴会だけできるとか、そういうことがあったからといって、太守や君主のイメージを表現できているとは思えません。本来そんなコマンドという型にはまらないのが普段なのに、型にはめられた普段のコマンドなんて、邪魔くさいだけです(~_~;)戦場では不自由が普通なんです。型にはめられたことしかできなくとも特に違和感は感じません。ところが普段では、型にはめられたり、何もできなかったりというのは、違和感を感じるのです。戦略級ゲームは、戦場だけでない、普段の内容をシミュレートできるから楽しいはずなのに、普段のシーンがネックに、ストレスになっている。これはいったいどうしたことか?

かつてボードゲームが華やかだった頃、多くのゲームは作戦級でした。作戦級は、歴史のIF、あの時あの作戦を取っていれば…ということをシミュレーションすることが面白さの主眼です。ただ、戦術級も含め、作戦級では登場部隊などを変えることはできません。同じ戦場でも違う部隊が登場していたら、歴史のIFでもなんでもありません。作戦の根底自体が変わっているからです。

これに対し、戦略級の楽しさは、自分で整えた軍隊が自分の選んだ戦場で戦うことができることです。ある戦場の部隊を動かすことにしか自由がなかった作戦級に対し、戦場も部隊もすべて自分で選べるのです。ここに面白さがあるんです。しかし実体はどうか。とにかく傾斜配分して最速で内政を整え、利益余剰で最強の種類の部隊を最大限揃え、質量ともに最高にして圧倒する…ここには作戦級における作戦の冴えも、戦術級における運もなく、ただただ物量で圧倒するだけしかない。戦略級の自由が、物量競争で一等になるという不自由に落ちているのが現状です。なにがこうさせたのか?

戦略級には自由があるとはいえ、それは抽象化された行動をすることでしかありません。それは、種類が少ないということなのです。例が変かもしれませんが、家を建てるということにたとえるなら、戦術級なら、木を伐りだし、カンナをかけ…ということであり、作戦級が設計図を書くということならば、戦略級は工務店に発注する、という感じです。おそらく戦略級が最もいろんな結果になるとはいえ、最もすることが少ないんです。

そして、戦略級での自由は、結局お金の量だけによってしまうということもこのたとえからもわかります。お金の範囲での自由であり、お金があれば選択できるものはすべて選択できる、と。お金が数百億あれば、思いつくかぎりどんな家でも自由に建てれます。しかしそれは、道具しか与えられない戦術級より楽しいといえるかどうか??

これまたたとえになりますが、芸能人一万円生活だろうがビフォアアフターだろうが、制限がある中での自由というものの方が、制限なき自由よりはるかに独創的で楽しいということは言えます。そして、制限のない自由は、結局制限されるまで自由にしてしまう、あらゆることをしてしまう、ということが想像されます。そしてそれは、自由なのにどうやっても同じように見える、と。まるでよくある戦略級のようではありませんか(*_*)

話を戻しますと、まったく無制限ではゲームになりません。制限あってのゲームです。そして勝つために制限いっぱいまで行動してしまうものです。とすると、お金の範囲が制限であれば、お金でできることはすべてしてしまいます。そしてお金が無限に増えつづければ、無限にできることが増える、と。よくあるシミュレーションゲームが終盤つまらなくなるのは、お金が増えすぎて制限がなくなり、誰であってもどうやってもまったく同じになってしまう状況になるからです。そうです。戦略級といいよくあるシミュレーションゲームといい、ゲームをつまらなくするのは、制限がなくなることだったのです(*_*)作戦級に対する、自分の軍団を整え、自分の領地を増やし、自分の領地を開発する、その自由と、それぞれの中身が自由にできることとは違うのに、自由にしてしまったこと、これがゲームをつまらなくした原因だったのです!

と、話が長くなったうえ、途中で変わってしまいました(^^;;ので、持ち越します。

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