kr_ryo 徒然日誌 <2006年4月23日分>

三國志製作記137〜ゲームのためのシミュレーション〜

前回戦略級の自由とゲームの自由とが違うんではないか、というお話をしました…って、そこまではお話してなかったのに、勝手にまとめてしまいました(^^;;そうです。戦略級の自由と、ゲーム上のコマンド制限は異なるのです。なのに、なぜか、自由に自由にできるようにゲームは発展していきました。コマンドも少なくものすごく制限のある不如帰がいまだに記憶に残るだけでなくプレイされてるのに、最新版のよくあるシミュレーションゲームは、まるっきり消耗品です。こう考えると、コマンドが自由になることは、シミュレーションとしては正しくても、ゲームとして間違っているのではないか?シミュレーションとゲームのせめぎあい、この辺はずいぶん以前に一度検討したことがありますが、やっぱり重要なのでまたもや考えてみましょう。

シミュレーションといえば運転操縦シミュレーション。完璧な運転操縦シミュレーションならば、現物とまったく同じことができるでしょう。だからといって運転操縦シミュレーションゲームがまったくの制限なしだったら、ゲームとしてはつまらないでしょう。というより、ゲームとして成立しません。たとえばある経路どおりちゃんと目的地に時間どおりに到着する、こんな制限があるからゲームとしておもしろいんです。単なるシミュレーションならば制限なんていりません。ゲームだから制限があるんです。

完璧なシミュレーションは、シミュレーションの中において自由です。制限はシミュレーションされる対象に内在しているだけです。飛行機なら操縦桿でしか操縦できず、海には入れないとか、君主なら自国の武将には命令できるが他国の武将には命令できない、ということです。命令できることは何でも命令できる、ということがシミュレーションの究極です。氏ね違った死ねと命じることすらコマンドにあることが究極です。…という、コマンドもあるゲームもありますな(^^;koeiの最新版の三國志11では武将同士に結婚を命じることもできるらしいですね。内政については何の言及もないのに、こういう新しい自由はちゃーんと箱に書かれています。へえ!まあ、君主がすることとしてありえないことではないですが、物語にそういうシーンってありましたか??君主シミュレーションとして、自由が増えたとはいえ…

まあ、それはともかく、戦略級ゲームでは、与えられた部隊与えられた戦場というような制限もありません。もちろん、与えられた立場与えられた領土というような制限はあります。しかし、与えられた領土を開発し、軍隊を整え、攻めこんで領土を増やすという自由があります。劉備が最初から周辺諸国を平定していってもいいんです。蜀しか攻めれないとかそういう制限はなくてもいいわけです。劉備という君主がすることができることを整える、そこがシミュレーションです。

じゃあゲームとしてはどうかというと、劉備ができることの制限があった方がいいわけです。むやみやたらと攻めれない、そういう制限がある方が、ゲームとしてはおもしろい場合もあり、また、結果として劉備の人となりのシミュレーションとしては適切です。

ゲームといえば、将棋や囲碁、麻雀やトランプでもそうですけど、制限の固まりみたいなものです。できることは一度に一手しかありません。にもかかわらず、ゲームとしては無限の手数、無限の展開がありえます。ところが、自由にかついろいろな行動ができる、よくあるシミュレーションゲームでは、かえって同じような展開になることが多いのです。制限がある方が様々な違いが現れ、自由な方が同じようになってしまう。イメージとしては逆なんですけど、実体はこうなんです。生物の進化もそうです。様々な環境、つまり環境制限があるからこそ様々な種に進化します。自由、つまり同じ環境では、種は進化しないでしょう。なんと、制限こそ多様性の現れなんです。

こう考えると、よくあるシミュレーションゲームが、最初は様々な状況であっても、制限がお金の量でしかないことから、お金が増えれば増えるほど自由、つまり同じ状況になってしまうことがわかります。しかもお金の増加にはたいてい制限がないことから、他のパラメータに制限を設けることになります。

また、たとえばコマンドが自由に使えれば、使えるだけ使うでしょう。制限がなければ他の制限に当たるまで使います。そうなれば毎回、誰が誰でやっても同じようにしかなりません。制限があるからこそ、独自性も出せれば変化も生じます。制限が厳しければ厳しいほど、独自性が出ます。結局、ゲームとは、制限することなんです。逆に、シミュレーションとは、自由なんです。そのためあまりにシミュレーションを追及すれば、ゲームにならないんです。

戦略級ゲームの楽しさは、あらゆることが自由になることではないのです。戦場における指揮や作戦の自由を超えて、戦場外のこと、内政や生産、戦争が対象になっているので、作戦級や戦術級に比べて大きく自由といえば、自由といえます。しかしそれは、自由なんでなく、操れる対象が違うというべきです。たまたま似たような対象で、範囲が広がっているから自由になったように見えるだけで、実際は対象が違うだけです。同じたとえは前にも出しましたが、精密な鉄道運転シミュレーションと、運行している状況も見える鉄道経営シミュレーションとでは、前者より後者が自由になっているわけではないのです。対象が違うだけです。作りによっては、前者の方がより「自由」かもしれません。少なくとも運転することそれ自体については、前者の方が自由にできるはずです。

そう考えていくと、戦略級ゲームだからいろんなことができるとは考えない方がよいのです。戦略級だから戦場のことだけでなく自由にいろんなことができなければならない、というわけではなく、自分で内政や軍備を行い、戦争して領土を拡張するというゲームだ、ということにすぎないのです。いろんな内政ができることが重要なのではなく、ましてや戦争も内政も自由にできることがいいのではなく、内政か軍備か戦争かどれか選ぶという制限の中で、勝ち抜くというゲームなのです。

たとえば、光栄の三國志シリーズは最初は、1国1コマンドでした。それが1国1武将1コマンドになり、1武将が全国対象コマンド実行できたり、1武将が1ターンに何度も行動できるようになりました。しかし、しかし、そうやってシミュレーションとしては進化していったのでしょうが、残念ながらゲームとしては面白さが下がってきたとも言えます。それは、ゲーム性、つまり制限がなくなってきているからです。確かに1国1コマンドはまさにゲームで、シミュレーションとしては非常におかしい。シミュレーションとすれば、ある程度のコマンド内容なら月に何度も実行できなければおかしいんです。しかしそうするとゲームとしてはつまらなくなるんです。コマンドの結果はたいていいいことであれば、できるコマンドはできる限り全部やることになるからです。コマンドの制限があるから、コマンドの実行にも癖も出、好みも出、結果の優劣も出るというものです。制限がないなら、全部やっちゃうだけで、個性も何も出ません。根性で全部実行するだけです。そうなってしまうとゲームにはなりません。

そうそう、制限がないといえば武将プレイ。君主プレイならありえないほど自由ですよね。どういうことかというと、別の勢力へ転出することです。捕らえられたり出奔したりして他勢力に入ったりします。で、ゲームの目的はとりあえず自勢力が全国統一することです、、、どの勢力にいようが、死にさえしなければ、最後は統一しそうな勢力に入っていればいいわけです。現実でもそうです。豊臣恩顧の大名を見ればよくわかります。しかし、ですね、やっぱりこれでは本質的にゲームになりません。負ける、という状況がほとんどありえません。あえて好き好んで真田丸にでもこもらなければ、負けません。逆に武将プレイで、自分が君主で天下統一するという状況しか勝利しない、というのであれば、最初から武将プレイにしないといけないのか、疑問に思えます。

結局、戦略級ゲームを、作戦級などより、よりシミュレーションすること、より自由になるように考えていく、という方法が、ゲーム製作としては間違っていたんでしょう。シミュレーションゲームはどこまでいってもゲームであるべきです。ゲームとは、ルール、制限、なんです。そのルール、制限が、当時の状況をシミュレーションしていること、でしかないのです。シミュレーションのためのルールではなく、ルールのためのシミュレーションです。そういう意味では、シミュレーションゲームと言いつつ、三國志だろうが現代戦だろうが同じルールであるものは、ゲームかもしれませんが、シミュレーションゲームではありません。単なる陣取りではなく、ルールが、その当時の状況をシミュレーションしていないといけないのです。しかし、シミュレーションのためのルールではないんです。あくまでゲームのためであって、日々の武将の行動を精緻にシミュレーションするためにコマンドを整えてもゲームとして面白くはないんです。

しかしですな、そうはいっても現実のシミュレーションではない、ルールのためのシミュレーションとはなんぞいな、という問題が生じます。意味はわかるが、じゃあ中身は何か?たとえばSWGはとりあえず戦略級シミュレーションゲームです(^^;;しかし、遠宇宙遠未来のシミュレーションって、なんじゃあ?ということなんです。そんな「現実」は存在しません。いいとこSFのシミュレーションで、宇宙巡航艦や宇宙戦艦が生産できる、ということがシミュレーションなんです。これが槍兵でない、というところが重要です(^^;;で、巡航艦が資源8、戦艦が資源12で生産できる、ということがゲーム、ルールです。で、8対12が本当に適切かどうかがゲームのためのシミュレーションです。現実には存在しない以上、イメージでしかありません。8対240が適切か、8対10が適切か、ゲームのためのバランスだけでなく、戦艦というもの、巡航艦というものをイメージして決める、それがシミュレーションです。現実に存在すれば、もっと簡単でもあり、もっと難しくもあります。簡単なのは、シミュレーションとして正しい、間違っているという現実という指標があることです。難しいのは、シミュレーションとして適切な指標がわからないことです。私の場合、SWGが簡単に作れ、三國志が難しいのは、現実にイメージできるとしても、そのイメージのルールとしての表現が現実として正しいのかどうかわからないためです。

そうやって混乱していくと、より現実において正しい、ということを指標にしがちになり、ゲームのための指標としてのシミュレーションが、シミュレーションのためのシミュレーションとなってしまうんですよね。ふむ……現実に存在しそうなことをあまりに追及しても、ゲームとしておもしろいかどうかは別問題です。シミュレーションとしてはへんてこりんながら、ゲームとしておもしろく、結果として雰囲気が出ているならシミュレーションゲームとしては問題ないんです。特に戦略級シミュレーションゲームでは、現実の人間の行動がイメージしやすいがため、シミュレーションであるよりむしろ、よりゲームであるべきなのかもしれません。そうしないと、ゲーム性を無視したシミュレーションになってしまいます。

シミュレーションは味付けでしかない、三國志に宇宙戦艦が登場しない程度くらいのイメージでいけば、SWGルールがそのまま三國志にはまっても、本来おかしくはありません。後は、三國志であるという点をシミュレーションできるような事項を付け加えればすむ、本来はこれくらいでいいのかもしれませんね…(*_*)

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