kr_ryo 徒然日誌 <2006年5月7日分>

三國志製作記138〜シミュレーションのワナ〜

いやあ、いい天気&真夏日&さっそく蚊にかまれる(`´)のゴールデンウィークも今日でおしまい(T-T)皆さま楽しくすごされたでしょうか?あーー!!っという間なのは間違いないことでしょう(^^;;それにしてもいい天気が続きました(^O^)4月がやたらと雨降っていたのとはえらい違いです。

さて、前回とっても哲学的というか、真実の上っ面をなでて真実をあてようとするくどい文章になってしまっていますが、どうやら真の鉱脈を見つけた気がします(^^;;あんまりにシミュレーションを追及するとゲームにならない、あんまりにゲーム性を追及するとシミュレーションとして変、そのバランスが問題だということです。ただ、三國志シミュレーションを作りたいわけでなく、三國志シミュレーション「ゲーム」を作りたいわけですから、シミュレーションの上っ面をなでる程度で、根本はゲームでないといけません。そこが問題です。

シミュレーションには正解がありますが、ゲームには正解がありません。強いて言えば、シミュレーションできてる方が雰囲気を味わえていい、という程度です。そういう意味では、中国の地図だけあって、武将が登場しなければ、それが春秋戦国時代物だと言っても、隋唐演義物だと言っても、水滸伝物だと言っても、第二次大戦物だと言っても、なんとでも言えるんです。兵種に戦車か騎馬か戦車(^^;に分ける程度の味付けがあってもいいかもしれませんが、それらのルールが一緒でも別段不思議ではありません。まあ、第二次大戦物なら飛行機くらいはあってもいいかもしれませんね。兵隊が持つ武器だって、槍なのか小銃なのか、どっちだって攻撃ルール上ではさしたる違いは出せないでしょう。

そこで、春秋戦国物なのか第二次大戦物なのか、その違いを表すのがシミュレーションという視点です。もちろん馬で牽く戦車に対する、内燃機関で自走する戦車とはどうなのかという違いを表すわけではなく、槍兵に対しての戦車の特徴、歩兵に対しての戦車の特徴が、その時代の中で適切に表現できているかどうかが問題なのです。槍兵に対しての戦車は、移動力があるが維持費が高く山や森には入れないとか、歩兵に対しての戦車は、これまた移動力がある云々とさらに遠距離砲撃力がある、とかです。

つまり、登場するそれぞれの要素の特徴、差異がルールとして表現できていれば、ゲームのためのシミュレーションとして適切だ、ということなのです。あくまでゲームであるため、他の要素との比較で特徴がでていればいいのです。その要素それ自体の持つ特徴を生でそのまま表現するのがいいわけではありません。ルールとしては第二次大戦物の戦車は3ヘックス先を攻撃できる、ということだけでよく、砲撃の場合と機銃の場合とを分けるとか、非戦闘時に兵隊を何人乗せれるとかは、戦車マニアか過剰シミュレーションであって、戦術級以外意味がありません…戦術級だって勘弁してほしいところでしょうが(^^;;

まあ、ボードゲームならまず無理でしょうが、コンピュータゲームだとそういう過剰シミュレーションができてしまうから問題です。できてしまうからやってしまう、というのが、まさに、自由だから全部やってしまうというのに近いんですけど、まるでシューティングのようなリアルタイム戦車射撃戦が表現できるからそう作ってしまうのが、戦術級ゲームとしていいのか、ということなんです。

別にそこまでいかなくとも、武将の「日々の」行動内容をシミュレートすることなんてまさに過剰なんですよね。私たちの毎日の出来事を振り返ればわかるように、日々そうそういろんなことが起きるはずもありません。毎日まいにち単調なことの繰り返しなんて場合もあるでしょう。そして、そういう退屈なことをまったくそのままシミュレートしたところでつまんないだけです。それを解消するために、いろんなイベントを準備したり、できる内容をいろいろ変えてみる…本末転倒ですよね。シミュレーションのワナとでもいいましょうか、できるからといってやっていいこととよろしくないことはあるんです。

完璧なシミュレーションだから完璧なゲームになる、ということとはまったく結びつきません。完璧なシミュレーションは完璧なシミュレーション以外のものではありません。それは、単なるシミュレーションです。ゲームであること。それを構成する要素の特徴がシミュレーションで味付けられていること、これが重要なんです。

どうしてこんなにシミュレーションとゲームの違いを自分に言い聞かせているのかというと、SWGの時もそうでしたが、シミュレーションの割愛を行わなければならないというところに至っているからです。文章で言えば推敲です。冗長無駄を削除しないといけないのです。SWGの時の推敲とはなんだったか。そう、艦数制限です。SWGは今となっては古い発想、お金をもって制限とするタイプのゲームですんで、艦数制限を入れなきゃ無限に増えます。本来はお金の総量を制限すべきところ、お金でなく艦数を制限してしまったのです。まあ、その発想はよくあるシミュレーションゲームでよくあるんで、そのまま採用しちゃった、というところなんですけどね(^^;;

お金は無限ではない、という以前したお話から考えると、SWGでもお金の蓄積はしない、とした方がいいでしょう。純資源ならともかく、資金であるため、政府が蓄えてしまったら経済がデフレになって悪化し、生産力を落とすくらいでいいのです。ここまではシミュレーションです。

ここにさらに、国家生産力と同必要資源までの艦種しか生産できない、とすると、シミュレーションに味付けられたゲームです。要はお金はためないんですから、たとえば生産力3の星系ならミサイル艦が1隻しか生産できない、と。他星系を攻め滅ぼして総生産力を8にしてようやく巡航艦が1隻生産できる、と。お金が8になったから生産できるんでなく、総生産力が8になったから、必要生産力が8の巡航艦が建造できるレベルになった、と考えるんです。……こう考えるとまったく別のゲームに思えますね〜(^^;;

さらに艦数制限を設けると、これはシミュレーションではなくまるっきりゲーム的制限です。というのもあれは何もシミュレーションしていないからです。これが設けられたのは、単に艦がむやみに多すぎるとゲームバランスが崩れるという理由でしかありません。ここまでいくと、シミュレーションの観点からは大問題です。なんじゃそりゃ?ということですからねぇ(--;)とはいえ、上記のような制限(というかお金の廃止)があったとしても、艦が増え続けることはありえます。そこでやっぱりゲーム的には制限を設けたくなるわけです。総生産力の倍の隻数まで、とか。こうすることで、戦艦が5隻までとかのゲーム的一律さより、シミュレーション的味付け、生産力に応じる、というような内容となり、納得しやすい、というわけです。ふむむ、ちょっとルールを変えるだけなのに、まったくゲームとして違った感じになりますね〜シミュレーション的にも納得いきやすいですし…

と、SWG ver1.5を考える前に、ですね(^^;;三國志に話を強引に戻します。ここでも、シミュレーションの観点からもゲームの観点からもお金で国力も兵力も買えるというようなことはやめるべきです。以前はシミュレーションの観点からだけで同じ結論になりましたが、先程検討したように、ゲームの観点からも、お金は無い方がいいのかもしれません。

つづいて、要素間の特徴をどう表現するか。まずは兵力と国力とです。今の新SWGの発想からすれば、国力に応じて兵力を増やすことはできると。で、その上限はというと、これも国力に応じて、ということでしょうか。以前お話したように、帰郷する兵と参加する兵とが一致する点、というやつです。徴兵上限があるとして、SWGのような艦船生産ですら、一気に生産できないものだ、というのはシミュレーションとして納得しやすい、その流れでいけば、一気に上限までは徴兵できない、とすべきです。しかし、いやいや、よく群雄は大動員をかけてるではないか?ここでシミュレーションを重視するなら、一気に上限まで徴兵できると考えたいところです。しかし、シミュレーションの味付けされたゲームルールであるべきです。それはどういう内容か。

普段の徴兵自体が、天下統一風に少しずつ自動で増えるものではない、ということでどうでしょう。つまり、徴兵はコマンドであり、国力に応じて予定徴兵兵数が決まっている、と。普段は役人が徴兵名簿をがんばって作っているんでしょう。で、太守が動員をかけると、そのとりあえず徴兵名簿に応じて兵が集まる、と。その動員は、国力に応じたものであり、準備する受け入れ側の用意の限界でもあって、一度ではそんだけが限界だ、と。もちろん多すぎて困るなら、任意の兵数でもいいんでしょうけど、お金を廃せば維持費もかからないわけですから、多ければ多い方がいい、とも言えます。ならば、固定でしょうか。しかし、巡航艦か戦艦か選べるように、騎馬や工兵などの選択ができ、その選択により兵数が変わる、というのもおもしろいでしょう。ここでも、お金に応じた徴兵量なのではなく、国力に応じた徴兵量ということで、制限をかけているが、逆にそれがシミュレーションになっているし、ゲームルールにもなっている、といえる、と。

そうすると、太守の行政能力に応じて、同じ城でも徴兵力が変わったりする、という風に話がするっと進みます。ミサイル艦や巡航艦が消耗品であるのと同様、君主にとっては兵士もやはり消耗品、次から次に雇っていけばよいわけです。そして、あんまりにも徴兵が多すぎたりすると始皇帝時代のように反乱が起きたりだとか、あまりにも大量に兵を雇いすぎると兵糧不足が起きたりだとかのイベントが生じる確率が上がるとした方が、金や米をちょこまか計算しているよりはるかに君主の脳内イメージに沿っている気がしますね。

こうやって考えていくと、内政コマンド連打もないため、あまりにあっさりしすぎのような気がします、が、パスもゲームのうちです(^^;;いわゆるゲームでパスがないのは将棋くらいなもんで、手詰まりの手慰みを考えるよりかは、パスした方がゲームとしては自然です。かえってあっさりしている方が何度もプレイしやすい、と(^-^)

ところで、よーく考えると、こないだまでは「いかにもゲーム」と言っていたくせに、今では「やっぱりゲーム」で、これこそ君子豹変す( ̄^ ̄)です(^^;Aたとえばワンターンワンコマンドを、いかにもゲームととらえるか、ゲームのおもしろさととらえるか。ゲームの制限とシミュレーションの自由とのせめぎ合いは、シミュレーション優位のまま、今や何でもできることがシミュレーションゲームのよさ、と考えられてきました。しかし結局、シミュレーションの自由はそのシミュレーションを維持するためのイベントやなんかで強引に制限を加えないといけない感じになってきました。また、過剰な自由は経済合理性ある均一行動をもたらし、自由なのに皆同じ、結局なんのための自由か、と考えるようになってきています。

そうすると、いかにもゲーム、の批判は、実はこの、シミュレーション過剰な自由によるものではないのか、という気もしてきます。皆ばらばらに打ちかかるとか、極端な内政向上だとか、結局シミュレーションのための自由の過剰な行使であったんでしょう。ゲームとしてシミュレーションの味付けをされた制限があれば、ばらばらに打ちかかりも、内政もそんなに無茶なことは起きません。結局過剰な自由の弊害が生じている、そう考えられます。お、つながりました(^O^)

と、考えると、これまでのよくあるシミュレーションゲームのような自由をもたらすコマンドの大群を準備するより、ゲームのためのシミュレーションの味付けある厳選されたコマンドである方が、はるかにおもしろいものができそうです(^O^)

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