kr_ryo 徒然日誌 <2006年6月4日分>

三國志製作記142〜最大のミスシミュレーション〜

いやあ、前回はほんっとにいろんな話をしました(^^;;それだけで1回分の検討レベルの内容が3つ4つ、しかしまとまってようやく新しい知見が開けたというところ。要は、よくあるシミュレーションゲームのように、各城に数千数万の常備兵がいることは、おかしい、と。これがもっとも間違ったシミュレーションなのかもしれません(*_*)

というのも、各城に常時数千数万の兵がいるから、そこを攻める直前の城には数万数十万の大軍が集まる、と。で、勢力レベルでなく城レベルの軍政内政管理システムを取っているがゆえ、少なくともある城に数万数十万の大軍が存在できることになる、と。そうすると守備側も負けじと兵を集めるがため、数万数十万の兵がにらみ合う場所ができてしまう、と。

さっさと決戦すればともかく、そうでなくてまごまごすることもできてしまう、とすれば、結果としてどの城も、数万数十万が常時存在することができる物資が必要になり、大軍が集まるための補給ルール(というより、補給切れルール)がないがゆえ、ある一城で大軍の補給ができてしまうだけの大規模内政整備が前提になり、毎月の内政コマンドの種類と回数が増え、城の内政さえしていれば、一城で大軍の補給ができるようになってしまう、と。こういう悪(?)循環が、よくあるシミュレーションゲームの発展の歴史なんでないでしょうか(~_~;)なんと、日頃の疑問が解消した気分です(@_@)

一番大きな問題は、数千以上の大軍がある城に常時存在していること、です。これにより、大軍の訓練が常にできることになり、城に補給切れがないだけの物資を集めるか、それが煩雑ということで内政をものすごくして補給切れを起きないようにする、という発展の仕方を遂げます。

物語も、確かに決戦時に大軍がいて、普段から訓練しているように読めます。それが間違いの元。決戦時の大軍と、普段訓練されている兵は、別物、というか、普段の訓練された兵は決戦時の大軍のほんの一部なんです。だから、大軍といえど、弱いことがある、と。武将が一騎討ちで負ければすぐ逃げ散る、と。

曹操はそれがわかっていたから、官渡の戦い前には袁紹に無理に合わせて動員しなかったんです。どうせ無駄飯食いで、いざというときに逃げるくらいなら、最初から少数精鋭の動員で持久戦しよう、と。結果として決戦を避けたことで、袁紹の補給が限界になり、狙われる位置にまで前進させた補給拠点が攻撃されることになります。

また、群雄は物語初期の領土が少ない時分にも、平気で数万の大軍を動員させています。兵がすべて常備兵だとすると、領土が少なくても数万の常備兵がいることになります。そうすると、それを支えるのが内政とばかり、内政コマンドが充実し、一城で保持生産できる物資量の限界がどんどん増えます。

もちろんこれは、その城の動員全兵力を動員し、近い隣町を攻撃するがゆえの錯覚で、普段から常備兵として存在していたわけではないのです。一時の動員でせいぜい数日間の戦闘なら、物資もさほど必要ではなかったでしょうし、下手すれば手弁当で済ませたかもなのです。

だいたいゲームでは、内政コマンド連打による内政充実でようやく数万の軍が常備できることになることが多いですが、物語上はそんなことはしていませんし、物語のごくごく初期時点ですでに大軍で決戦したりしています。内政コマンド連打が効果を持つような頃まで待っていたようには思えません。むしろ逆に、物語後期になっても、兵数はさほど変わっていないようにも思えます。これはどうやら誤解によるシミュレーションに基づくルールの誤りですね。

むしろ、大軍の補給ルールの方がはるかに問題でしょう。曹操にせよ袁紹にせよ諸葛亮にせよ、とにかく補給には悩まされていました。ある城が一城で大軍を保持できるような内政を整えている、というのが補給ではありません。全土からかき集めた物資を、戦場まで送り届けるのが補給です。ましてや兵の移動より簡単に大金大米をクリックひとつで移動させることでもありませんし、戦場にある米の量がなくなるまで戦うことでもありません。継続的に送り続けることです。これがシミュレーションしようとすれば、まあ邪魔くさい。補給軽視は旧日本軍だけでなく、ゲームにも表れています。

本来の補給ルールが、一城における生産量アップにすり代わり、同時に一城における常備兵の増大につながる、と。これがよくあるシミュレーションゲームの発展の方向です。生産量アップに関するハードルとして、多彩な内政ルールが現れます。また、一城における常備兵の増大が、個城同士の戦いの様相を帯び、勢力対勢力というよりかは、城対城の兵の物量&将の質の争いになり、結局個城を攻め続ける、という印象になってしまうのです。

どうやら我々は、シミュレーションしているつもりで間違った発展の流れに乗ってしまったようです。内政コマンドを充実させることが誤りなのではなく、常備兵が多すぎることと補給ルールのなさが、結果として常備兵を維持するためのルール整備として内政コマンドを充実させる方向に進ませたわけです。内政コマンドの嵐は原因ではなく、実は結果だったのです。大元は、常備兵ルールと、補給ルールのなさ、です。決戦で登場する大軍が常備されていると考えるから、その程度の大軍の補給は常になされていると考えられてしまい、だからこそ内政を整備させることで補給の代替とすることになったのです。

確かに、大軍を常備させるための内政、という風に見れば、内政ルールの充実はそのシミュレーションによるものです。しかし、大軍は常備されていない、となれば、内政にめちゃくちゃこだわる必要もなくなります。どう考えても、物語上は、ゲームほど内政はこだわられていないんです。なのに内政はしなきゃいけない、とされていたのは、内政がされないと、補給ルールがないもんですからいきなりなんの制限もなく常備大軍が発生してしまうからです。そうすると、城に比例した戦力配分になり、最初に数城持っていればあっと言う間に1城群雄の数倍の戦力差でもって撃破してしまうことになってしまいゲームになりません(--;)

とりあえず内政をさせて、それに応じた常備大軍、ということにしないと、ゲームスタートの瞬間から軍拡競争か物量攻勢になってしまって、シミュレーションとしてかなり無理がある、と考えられたのでしょう。その結果が、ゲーム初期の国力最低状態であり、ゲーム後期の金余り兵余り現象につながるんです。

なるほど、常備兵ルールをなくしたとたん、過剰な内政ルールも、それに伴う金余り現象も、極端な大軍も、その他諸々のシミュレーション的におかしい諸問題が解消されます(@_@)これらは常備兵をシミュレーションしようとしたとたんに生じたルールなんでしょう。そのため、常備兵なんてなかった、というだけで、まったく違うルールが考えられます。そして、シミュレーション的にも正しいものだ、と。

とはいえ常備兵がまったく0なわけはありません。敵国と向かい合っている前線の城、というだけでなく、一城一群雄の初期の時代は、それこそ隣り合った敵同士が、いつ攻めてくるかわからなかったわけですから、それなりの防備を常にしておかねばなりません。まさに常備、です。

けれども、敵が軍を起こせば、それはそれですぐに知らせが入り、防備のために城内に動員をかける、と。敵が準備して攻めのぼってくるより、兵を動員して城や城外に配置する方がはるかに早かったことでしょう。そういう意味では、やっぱり常備といえど奇襲されない程度の最小限度の兵、と考えられます。

複数城を持つ中勢力程度になった場合、今度は敵が奥地の本拠地で兵を整え、進軍してきても前線の城では気付かない可能性があります。その程度の勢力になれば、敵対勢力に間諜でも忍ばせるべきではありますが(--;)そういう事態に備えてあらかじめ大軍を準備しているのはかなり無駄です。とりあえず攻めこまれる恐れのある城は独自に動員し、近隣の城に救援を求め、本拠地に報せを走らせる、というところでしょうか。で、本拠地でも軍を起こして救援に向かわせるのです。救援が間に合うまでは、持ちこたえてもらわなければなりません…持ちこたえないこともありますが(~_~;)

大勢力になると、前線から本拠地が遠くなってしまって救援がまったく間に合わなくなることも考えられます。そのため、州都などに防衛拠点を設置して、まずはその防衛部隊が動員して出撃する、ということが考えられます。ふむふむ。

さて、こういった状況をゲームに表現するのがまた、難しい(^^;;常備兵スタイルはプレイヤーにとってもデザイナーにとっても簡単です。どんどん足していくだけですし、今どれだけの兵力があるのかすぐにわかります。この辺は武将の能力を数値で表すのとよく似ています。

能力にせよ兵力にせよ数値で表現するのは、コンピュータにおいては非常に簡単です。逆に、数値以外の方法でプレイヤーに悟らせるのは、かなり手間がかかります。たとえばグラフィックで表現したりするわけですが、これはこれで数値の一種とも言えます。さらに、手間がかかるわりに数値よりはるかに情報量が少ない。そこまで手間をかけるくらいなら、数値を表示させる方が楽です。だいたいその情報の本質が数値ですから、数値を数値で表現するのは当たり前といえば当たり前。

問題は、プレイヤーが本来その数値をすぐに把握できる性質のものなのかどうか、ということです。能力が数値で表現できるとしても、それをわかることができるかどうかは別問題です。みながみな、それぞれの数値をわかりあえることができれば、この社会はまた、まるきり違ったものになっているでしょうね(^^;;つまり、そんなことわかるわけはなく、だからこそ誤解も生じると。

もちろんわかることもあります。何度かやってみて結果を知ることです。テストを繰り返せば、本質を数値化することもできるでしょう。実験を行う、科学的検証の基本ですね。この場合、失敗を許容する必要があります。一発勝負では、結果を知る以前に破綻することもあるのです。そして、実験においては失敗は成功の母。失い敗れるわけでなく、データをひとつ得、成功に近づくわけなのです。当たればいい、というわけではないのです…

ということから考えると、受験における模擬試験のように、ゲームにおいても本番の戦争に対し、模擬戦闘を繰り返して、能力や適性を判断していくべきもののはずなのです。その結果の積み重ねがあってこそ、場合によっては数値化できるほどの能力の把握ができるわけです。さらに、新参者はあまり重視されず、古参武将がよく使われる、ということにもなるのです。そりゃあ、能力があっても、よく知らん者を大事な場面で使えんでしょう。龐統をどうしてすぐ使わないのか、というと、よく知らんうえに使えそうに見えなかったからです。我々がどうしてすぐ使わないのか、と思うのは、龐統のすごさが事前に語られていて、知っているからなのです。

ということを考えると、結果の蓄積によって、知る、ということが本来のプレイヤーへの情報提供方法になります。もちろんあらかじめ数値化されている、たとえば人口だとか、現にいる常備兵などは数値表示されてもいいでしょう。しかし、動員兵力だとか、補給がどこまで続けられるかとかは、やってみないとわからないこともありましょう。こういった、やってみてわかることを記録する、ということは、そういうことがシミュレーションとして大事、と考えていないと非常に邪魔くさいわけです(--;)だからといって、そういう記録をプレイヤーに覚えさせる、というのは、今度はプレイヤーにとって非常に負担なわけです。この、結果の記録、というものをどちらの負担で行わせるべきか、というと、たいていそれをやめて、はっきり数値化しとこう、ということになるんでしょうね…(^^;;

もちろん、たいていの場合プログラム側が適切に表示できていればいいんですけど、お仕着せのプログラムではプレイヤーの必要な情報は分析できない、ということもよくある話です。また、ゲームをすると頭が悪くなる、というのも、この、覚えること、考えることをゲームプログラムがしてしまう、ということにもあるわけでしょう。頭のよくなる、というゲームがはやっていますが、これは覚えたり考えたり思い出したり、頭を使う方法を提供していることにあります。

ふむ、やや長くなりそうな話題なので、とりあえずここで終え、また次回検討してみましょう(^^;;

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