kr_ryo 徒然日誌 <2006年9月17日分>

三國志製作記150〜圧倒できない物語〜

嗚呼!困った┐('〜`;)┌って、のっけから困ってますけど、何が困ったかというと、しばらくぶりの更新でなんだったか忘れたわけではなく(;^_^A前回自信をもって、ルールは少なくていいんだ、攻める指示さえすればいいんだ、といいつつも、ほんとにこのルールでいいんかいな?ということがわからないんです。まあ、内政コマンド連打はもうしない、ということや、情報制限によって確かに君主風な感じは生み出せる、ということはできるんですけど、それ以上に、このルール、こんなルールで、あのドラマチックな三國志を再現できるんかいな?ということなんです。。。

結局これまでいろいろ検討してきましたが、三國志製作の最大のネックは、単純なルールだとそのうち圧倒して終わり、という一本調子なゲーム展開になってしまう、それじゃあいけない、ということなんです。強い奴とは、もちろんプレイヤーであっても、です。他のゲームならそれでもかまいません。もっともSWGは、建艦制限でそれを制限してます。が、結局はやっぱりそのうち国力で圧倒できます。

ところが、盛者必衰の理のごとく、三國志の物語では、なかなか強い奴が最後まで生き残りません。むしろ、董卓、袁紹、曹操と、次から次へと強い奴が交代していって、しかもその曹操が最後に勝ったわけでなく、三つ巴になるところがいい感じなわけです。つまり、強いから圧倒できるというわけでは必ずしもないんです。だからこそ、三國志のルールは、普通のルールでいいのかどうか心配になってくるんです。だんだんみんな強くなって、叩き合って、強い奴が残って、圧倒して、終わり、そうではないんです。だとするとそうなるルールでは、この三國志では、いけないんです。だから、ルールが難しい。

歴史的にずーっと悪く書かれていますが、希代の政治家軍略家である曹操が、実はもしかすると手加減していたかもしれませんが、結局統一できなかったこと、これが物語としておもしろいわけです。そういう意味では、朝廷や董卓や袁紹などの強い奴が次々退場していく。よくよく考えると三國志はすごい不思議な物語なんです。諸葛亮にしても司馬懿にしても、最後までやり遂げられなかった、それだけ統一が難しかった。単に強い奴が次から次へと城を落として終わり、ではなかった。反三國志がおもしろくなくて、三國志がおもしろいのはその辺にも違いがあるんでしょう。

圧倒できそうな奴が圧倒できない。弱い勢力でも優れた計略や武力でも勝てる。これがまたおもしろい。特に劉備ですね。とにかくよく逃げる。けれどもそれは、相手が圧倒的な力で、負けるのが当たり前のところで逃げ、そうでないところではなんとか戦っている。で、またそれが強い。関羽や張飛や趙雲や諸葛亮、こういった連中が最大のパワーを発揮して、簡単にはやられないどころかやっつけたりする。実際はきっと冷や冷やもんだったんでしょうけど、肝の据わった劉備は逃げるときも戦うときも決断している。逃げてもさほど文句は言わない…って、これは吉川英治版の劉備ですな(^^;陳舜臣だとか柴田錬三郎だとかが描く劉備は、ちとやらしーくなってますが。

それはともかく、こういう劉備像が、勢力拡大型ゲームでは多分うまく表現しきれません。弱小勢力で逃げまくって、いつの間にか勢力を回復してそれどころか巨大化する、と。やっぱり三國志の面白さのひとつは、つぶされない劉備、ですな。落ち延び、を表現するべきなんです。放浪の旅を表現した光栄の初代三國志は、だからこそ傑作なんでしょう。

とはいえ、単に放浪するだけが劉備ではない(~_~;)馬超だって呂布だってがんばったわけですし、そういう意味では曹操だって最初は弱小小軍閥だったわけです。劉備との違いは、劉備がひたすら逃げまくった、というところでしょうか(^^;;多分領土に対してそれほど欲がなかったんでしょうか。もしかすると中央指向、いやいや、演義や吉川版で書かれたように、本気で理想を目指したのか…なんにせよ、最後の本拠が落ちておしまい、というわけではない連中はしぶとい。

そうそう、三国時代になる前は、城は単なる足がかかりであって、固定した領土という発想はなかったはずです。そういう意味では、三国時代になるとやっぱり発想が異なってきます。いや、劉璋の益州もそうですかねえ。まあ、劉璋といい劉禅といい、君主がころっと落ちたら、部下がどうしていようとどうしようもないわけですが。

話がずれてきましたが、そうです、三國志の物語のドラマチックさは、こういうしぶとい連中がしぶとく生き延びて、生き延びるどころか力を増していって、簡単にはつぶせなくなっていくことで生まれています。やっぱり強い勢力が圧倒する物語ではないんです。そういう意味では先祖の劉邦と項羽の戦いもそうでした。圧倒的な秦が滅び、天下が乱れて、これまた圧倒的な項羽の楚に対して…対して、やっぱり劉邦は逃げまくってましたな(^^;けれどもやっぱり力を蓄え、そのうち圧倒した、と。やっぱり、強い奴が圧倒して終わり、では物語になりにくいんでしょうね。当たり前すぎてあまりにつまらない。

ただ、それにしても三國志はあまりにころころ主役というか、強い奴が変わります。もしかすると、強くなるうちにかなり無理をしていたのかもしれません。そう考えると、意外に強いというよりかは、強く見せかけているだけ、という考えにかなり符号する出来事が見受けられます。弱い奴が必死にがんばった、というより、強い奴は実は見せかけで、ほんとは内情は火の車、と言えなくもないんです。というのは…

董卓は当初かなり馬鹿にされていたものの、近隣にない圧倒的な武力で一時天下を握ります。この辺は陳舜臣氏の秘本三国志では、兵を繰り返し出入りさせて多く見せかけるという計略をしていることになっています。それを裏付けるかのように、諸侯連合ができると関を守るだけだし、あげくに洛陽から逃げ出してます。その後諸侯連合の内紛に乗じて各個に攻めるかと思いきや、放っておいたまま、結局自滅しています。当初の防衛作戦ですらかなり無理をしていたのかもしれません。

袁紹はその家柄により割と楽して強大化しますが、当初は計略で冀州を奪ったりしていました。その後の強大化は、わけのわからん奴(曹操)よりまともだと思われて味方が増えていったわけですけども、ほぼ一撃で粉砕されました。その後は曹操が攻めなかっただけで、実際は馬鹿息子どもが兄弟喧嘩している間に滅亡します。

曹操だって、短期間にがんがん攻めてがんがん大きくなったように見えますが、袁紹と戦うまでは中規模軍閥相当ですし、袁紹と戦った後もその領土を簡単には併呑できていません。馬鹿息子どもとしばらくやり合い、ようやく北方を手に入れています。本来これで他の勢力を圧倒できるはずが、意外に簡単ではなかったのでしょう。劉表死後にようやく荊州併合を、それも外交でおさめ、ここでようやく兵力が回復した、とも見えます。それも降伏した荊州兵によって、で、これまた見せ金ならぬ見せ兵で孫権をおどすも、赤壁で返り討ちに合い、あっさり荊州も放棄しています。

その後は馬騰や馬超や韓遂は倒すも、かなり苦戦、漢中もどちらかというと無血占領。赤壁で懲りたか今度は益州は攻めず。しかしながら劉備軍が登場するとまたも負けます。ここから考えるに、曹操軍というか、中原の兵はかなりの確率で大きく減少しているということが考えられます。広大な曹操の領土でも、大軍を興すのはかなりしんどかったと。そもそも曹操が大軍を率いたといっても、実際のところ10万もいなかったのでは?徐州侵攻は数万、袁紹相手に7万、荊州や江州や涼州攻めには10数万といいつつ実際は不明。だいたい馬超や韓遂にかなりおびえています。馬超たちは確かに強かったのかもしれませんが、領土から見れば、赤壁前は馬鹿にしていたはずの孫権の方がはるかに強いはず。だいたいそんなに強い相手なら、さっさとつぶすべきでしょう。が、向かってくるまでほってました。

ということを考えると、大国だろうと、圧倒ということはできず、ずーっときりきり舞いばかりしていた可能性があります。それもこれも、動員できる人民の逃亡と減少によるものでしょうねえ。まるでSWGの建艦制限みたいですが(^^;方法は違いますが、結果として大国だろうとさほど大軍は興せていないということが、結局三國志を三國志たらしめ、ドラマチックさをました、というところであれば、うん、こういうところをルール化すべきでしょう。大国でも圧倒できないゲーム、これが三國志のルールであるべきなんです。

ついでにいうと、諸葛亮にしても、じっとしていたら魏は当然国力が回復し、あっと言う間に蜀なんて併呑されてしまうということを気づいていたはずです。だから無理して北伐したんでしょうけど、やっぱり劉備の荊州侵攻作戦の失敗が最後まで尾を引いたと暗澹たる気持ちだったはずです。益州の戦乱はさほど大きくなかったから、中原以上に動員余力があったはずなのに、孫権攻めで大敗。このツケは予想外の国力回復の遅れとなります。しかし同じ時間をかければ魏の回復の方が大きくなる、と。それで無理した挙げ句に馬謖の失敗で貴重な兵をまた失う。その後は魏延の長安奇襲作戦を拒否したように、兵を失わない戦ばかりします。これが真相でしょうか。

国力、つまり民も兵もいずれ回復します。しかし、すぐには無理です。お金をかけようがなんだろうが無理です。本当は苛政をやめれば民は荘園から戻ってくるんでしょうが、戦乱ではそれも厳しい。古代中央集権国家の崩壊と荘園制の萌芽の境目の時代が、その境目、つまり何もかも余裕がないことが、大国でも他国を圧倒できない、あのドラマチックな三國志を生んだ、そう考えると、なおのこと、内政ばかりして他国を国力で圧倒するというプレイが歴史どおりにならない、ということを思い浮かべれます。

実際は、乏しい資源を奪い合い、大きくなってもさらに乏しい資源をかき集め、未開の地へ進み、少し回復しては戦争して消耗し合っていた、というのが三國志を三國志たらしめていたんでしょう。やっぱり攻めまくらなければなりませんわ。それも、いかに消耗せず攻めるか。曹操が註を残した孫子にあるように、城を攻めるは下策、謀をもって敵国を降伏させるのが上策、ですなあ〜!

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