kr_ryo 徒然日誌 <2006年9月24日分>

三國志製作記151〜制限されるから楽しい〜

ふーむ、近頃はこの過ごしやすさで成長したのか、かなり見識が深まってきたような気がしますね(知力43→44)(^^;

SWGとか、他のゲームなら簡単に作れるような気がするのに、三國志だけは、これだけモデルがはっきりしているのにうまくできなかったのは、既存のものを含めて、どうも普通のルールでは三國志をシミュレーションできない、ということにあったんですね。これまで検討してきたことがようやく統合されてきたような気がします(^^;

普通に考えていけば、強い奴はより強くなるのは当たり前で、だからこそそれをやっつけた弱い奴は、すんげー謀略や、ものすごい武力を持っている、ということでひきたったわけです。ところが、強い奴も実はどんどん疲弊していて、かなり無理していた、と。だから弱い奴でも、そのはったりに気づくか、無謀にも立ち向かえば、勝機はあったんだと。

大勢力だったはずの曹操が赤壁の一戦で大敗し、この結果三つ巴時代になった、というのが通説なんですけど、よーく考えればやっぱり変、ということを何度か検討していました。もともとその前段階で、曹操が烏巣奇襲によって大敵の袁紹を一撃で倒した、というのがあります。これがあることで、赤壁でも曹操が烏巣でしたごとく、黄蓋の火計が大きく戦況を変えた、という感じに素直につながりやすくなります。

ところが曹操は荊州は計略で落としており、戦ったのは小勢の劉備勢のみ、それも結局は劉備勢は逃げてます。それ以外はまともに戦ってません。それなのにわざわざ荊州に大軍を連れてくるか?しかもその大軍が地上におらずに全部船に乗ってた?

詳しくは以前の検討をご覧いただくとして(^^;赤壁の敗戦で破れたのは、曹操の大軍ではなく、曹操のはったりだったのではないか、ということです。そういえばその後、馬超や張魯なんかが不穏な動きをするのも、大国のはずの曹操の内実が、かなりあやしいということがばれちゃったから、とも見えます。

ところが袁紹と違って曹操はさすがに優れており、決戦に敗れても別段領土が減るわけでもなかったわけです。もっとも増やすには、苦戦の上結局計略で馬超を倒してから、という事態にまでになりますが…そういえば、荊州も漢中も外交で手に入れています。以前の検討では、北方の守備で兵の動員が厳しいということを考えていたんですけど、それもありつつ、内実は、他国を圧倒できるだけの動員ができなかった、ということも十分考えることができますね。

こう考えていけば、動員兵といえどそうそう何度も大軍を動員することはかなり国土に疲弊をもたらしていくこと、その回復には結構な時間がかかり、大国といえども疲弊していれば動員が難しいこと、常備兵システムならなおさらですが、一戦して全滅なんてことはありえないし、ありえたとしたら回復不可能な被害を与えかねないこと、内政やなんかですぐに国力も兵力も回復することはないこと、こういうことが考えられるわけです。

確かに負け戦で兵はいなくなります。が、それは常備兵システム的に、兵が最後の一兵まで戦死するんじゃなくて、統率がとれなくなってバラバラに逃げ出していなくなってしまっている、というのが正解でしょう。願わくは故郷に無事帰ってくれることでしょうが、帰れずに山賊になったりや荘園に身を寄せたりして、結局戦死と変わらなくなるわけですが…

やーっぱり、よくあるゲームのシステムを通して物語を理解していたような気がします。もちろん誤解を招くような表現があったりもするわけですが、よくよく考えていくとつじつまがあわないことが出ていました。確かに物語にはだいたいよくあるシステムのモデルとされる表現が出ていたりするわけです。諸葛亮が内政をして国土が一気に発展したりだとか(内政システム)、張飛が兵をずーっと鍛えているとか(訓練システム&常備兵システム)。諸葛亮が行ったのは不公正?な法の改正とその厳格な執行であって、直接土を耕したり堤防を作ったりとかではありません。張飛が常に鍛えていたのは手兵でせいぜい数百レベル、李典とかは手兵が数千いてたらしいですが、それだって何十万の常備兵がいて訓練したおしていたわけではありません。

さてこれで、なんとかつじつまがあってきた気がします。つづいて…まだつづくんですが(--;)組織の役職にある人が仕事を行うのか、人が行う仕事に組織と役職をつけるのか、です。官僚制は前者で、曹操みたくその改革をしだすと後者になります。組織のシステムがあるゲームは前者になり、なかったら後者になります。ほんとは両方がまじっているのがいいんですけどねえ、なかなかゲームのシステムとしては難しいんでしょうかねえ?

これは、組織でする仕事と個人でする仕事を分ければいいわけです。太守業なんて本当は組織でする仕事で、わしが太守だ!といばっているだけでは、その程度の仕事にしかならんでしょうね。あちゃ、問題なしですね(^^;A

他の問題はというと、プレイヤーの介入具合をどうするかというのがあります。どういうことかというと、たとえばよくあるゲームなんかでは、兵や金を1単位で動かしたり使ったり、この城にはこいつらを使って内政、こいつとこいつは移動…なんて風に、あれからこれまで、すみからすみまで手を入れることができます。手を入れないとコンピュータ並になるわけですし、手を入れる、入れ方の巧劣がゲームの勝敗に影響を与える、という感じだからです。

1兵を動かす戦術級、1兵団を動かす作戦級に対して、戦略級ゲームは動かす単位が大きくおおまかです。その代わり、1兵1兵団を生産できます。それが魅力だったというお話ですが、その魅力を使いすぎ、生産の巧劣、ひいては生産力向上の巧劣がゲームのすべてになってしまいがちです。1兵1兵団をいかに動かすかではなく、1生産力をいかに効率よく上げるかということ、これはRPGの経験値上げに通じてコンピュータゲームの王道となります、が。

経験値上げがそのうち単なる作業になっていくのと同様、生産力上げもボタン連打に近い作業になってしまいます。複雑な内政システムなんかだと確かにその巧劣が重要かもしれませんが、ボタンの組み合わせ具合、金や人材の投入具合の巧劣を競うだけでは、「戦略」級ゲームが泣きますね。それくらいなら兵や兵団の動かしようの巧みさを競う方がよほどウォーシミュレーションゲームというものです。

で、その組み合わせなどの具合の巧劣を競うということを、まさに兵や金を1単位でプレイヤーがいじくることができるということで成立させています。この辺がおおざっぱであれば、競うもなにもあったもんじゃないですからね。そしてその細かさが、巧劣を引き立たせるとともにますます作業風にさせてしまいます。

生産力をうまく上げるのは、1単位向上に必要な最小限の金を絶妙な数決定すること、なんでしょうか?どれだけの量、人材を採用し大量に生産に投入することなんでしょうか?いや、経営はそうなのかもしれません。最小費用最大効率ですね。人材も、ほんとはお金がかかるはずなのにかからないから、どんどん雇い、どんどん利用する、ということになっています。昔の光栄の信長の野望、確か覇王伝辺りでは、武将の俸祿が決まっていて、大量に雇いずらかったというルールがあって秀逸でしたけども、やっぱりめんどうだったのか、なくなってしまいましたね。そうであったとしても、優秀な人材は三成ではないですが惜しげもなく給料を与えて採用しなきゃなりません。

話がそれました(^^;A結局、確かに費用最小化も効率経営も重要ではあるんですけども、それがすべてではありません。どこまでいってもウォーシミュレーションゲームは経営ゲームじゃあないわけでして、戦するための生産です。しかも上でお話したように、どうやら三国時代では物量で圧倒して勝てるほどの物量の差はないわけでして、だからこその権謀術数の物語であり、一騎当千の豪傑の物語なわけです。

野球にせよサッカーにせよ将棋にせよ麻雀にせよ、ルールがあるからおもしろく、そのルールというのは結局は自由の制限です。何をしてもよい、何でもできるところからはおもしろさは生じません。そして、ルールの一部ではありますが使えるものも限られています。何もかもが使えれば、これまたおもしろさは生じません。競うことのおもしろさは、制限と不足から生じています。なんでも細かくできる自由、圧倒できるほどの物量、これではゲームとしてのおもしろさをかえって損なっているのです。

そうであればこそ、やっぱりプレイヤーの介入は制限し、物量で圧倒できないバランスにし、いかに自国の生産力を上げるか、という視点ではなく、いかに袁紹を、曹操を倒すか、そちらに目を向けるようにするか、これがプレイヤーの視点になるようにすること、そしてゲームのおもしろさなんだと、やっぱり思いますね。

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