kr_ryo 徒然日誌 <2006年10月15日分>

三國志製作記154〜膠着がコワイ〜

ここしばらくプログラムからルール面のお話を続けています。あいかわらずの一歩前進二歩後退(ToT)それでも自力でなんとか気づきを得ているところがまだ救いであります(^^;A

それにしても、どこまで考えてもやっぱり根源的な問題を解決できるめどが立っていないため、どうも怖くてプログラムできない、という面があります。コワイ。何が?それはようやく思いついたことと、気づいていたがなんとかなるかも…と甘い期待を得ていたものです。何のことかさっそく言っちゃいましょう。何もすることがないことと、コンピュータはしょせん考えることができないということです。なんじゃそりゃ?

まず、何もすることがないこと。どんなゲームでも、操作することはいろいろあります。まあ、ぼーっと眺めておくだけのゲームもありますが、それだって定期的に何らかの操作があります。それがなければ単なるスクリーンセーバーですな(^^;;操作することが楽しいんであって、将棋でもオセロでも囲碁でも、手番に何もできないなんてことはもう負けてるのと同じなんです。ところが戦略級シミュレーションゲームでは、必ずしも操作しなきゃならないとも限らない、と。

これが戦術級や作戦級なら、すでに戦闘状態に入ってるわけですから、相手に応じてなんらか操作する必要があります。少なくとも移動させることができます。ところが戦略級であると、必ずしも操作する必要がないことがあるわけです。だいたい戦争は国の大事であって、移動するかのごとく簡単に攻めまくるというわけにはいきません。必然、戦争していない時期の方が長かったりします。

そうだとすると、その間は何もしないことになってしまいます。もちろん生産や開発や外交なんてこともしますが、しょっちゅうやるもんでもないでしょう。ところがすることがないことはよくない、ということになると、生産にせよ開発にせよ訓練にせよとにかくなんだかんださせてしまうルールになってしまいます。こうやって細かいことをさせることになり、戦略級のくせに細かいという悪循環になります。

だからといって、細かいことは何もさせないルールだと、そう頻繁に攻めることのできない中小勢力プレイでは、ほんとに何もすることがなくなってしまったりします。それはそれでもっと弱い勢力を叩くとかいう方法もあるんですが、三国志の三国時代のように膠着しちゃう大勢力が三つ巴になると、本当は膠着します。そうなると…ゲームとしてはつまらないんですね。何もすることがないわけですからね。もちろんそれはそれで推移や油断を油断なく眺めるということもできるわけですが、、、ねぇ…(--;)

SWGはもともと膠着することを意図したゲームですが、三国志は少なくとも三国時代になる段階で膠着してもらわないといけません。圧倒して終わりもよくないながら、各勢力が均衡しすぎて完全に膠着しちゃうとそれはそれでよくありません。ちっともシミュレーションになってませんからね。

そう考えると、曹操や孫策のように、がんがん攻めるタイプが台風の目というか歴史を動かす連中ということになります。なんだかんだいって攻めないと話になりません。やっぱり戦争中心ですか。曹操だって孫策だって、コツコツ内政をした結果圧倒できたわけではありません。苦心しながらもがんがん攻めながら次の手を考えていたわけです。劉備にはそれが欠けてましたね。

ん、いつも反三国志がおもしろくない、といっているのと違う話になってきてますが(^^;結局戦略級のコマンドの中心は戦争です。開発値アップでも訓練度アップでもありません。孫子は諫めるでしょうが、弱小勢力でも攻めて攻めて勝ち続けないとつぶされるのです。やっぱり三国志は内紛であって、春秋戦国時代のように独立国家勢力でないからでしょう。三国時代になっちゃうと国家間戦争になるため、ぐっと戦争は少なくなったはずです。その前は、とにかく勢力拡大です。権謀術策だろうが権力指向だろうが、とにかく攻めること優先でしょう。

もちろんこれは一度の敗戦で滅亡することと隣り合わせです。いや、滅亡というより、勢力を失うという感じでしょうか。呂布や劉備が何度も根拠地を変えて再起している、あれがイメージです。つまり、敗戦によって城を失うとしても、頚を刎ねられる、というような滅亡ではなく、ああ、負けちゃった、覚えてろ!という敗戦です。次の根拠地を探して放浪する、これが初期の物語のイメージです。曹操だって似たようなもんですね。

それが中盤から後期にかけて、根拠地を失うと滅亡という雰囲気になります。袁紹や劉表や劉璋、赤壁前の孫権なんかはこれですね。そういや孫策は、父孫堅の死後、勢力も兵も家臣も奪われながら再起しているのに、孫権は自力で勝ち取ったわけでないのに失うことを恐れすぎです。この辺は人物によるんでしょうか?馬超は西涼を失っても再起をかけてがんばってますしね。

そうするとここら辺は、まさに人物によって変わってくるというか、英雄の志をもって常に独立しようとするか、たまたま勢力を拡大していったが、必ずしも独立しようとしているわけではなく、そうすることが有利だったり、できたりするからやっている、という連中にわかれる、ということでしょうかね。ふむ…

話がおもしろいので脱線しまくりましたが(^^;;むりやり元に戻すと、そういう、独立魂のない連中のようなプレイだと、結局何もしない、ということが常態になります。曹操なら無駄かもしれないが可能性があればやっておくような謀略なんかも、こういう連中はしないでしょう。それなのにできるというルールを作っちゃうと、物語ではあり得ないような権謀術策どろどろの展開になったりします。できるからやっちゃうんです。

で、これがコンピュータはしょせん考えることができないという問題です。いまだにまともな人工知能は開発されません。が、将棋やチェスなんかのプログラムはかなり強力になってきています。それは最良の答えというものの可能性があって、確率と評価の問題で最善を計算することができるからです。ところが、何でもいいから考えるということはできません。あくまで評価を数値化することができ、それを計算することによってもっとも高い評価のものを取る、ということしかできません。

コンピュータは制限された状況で評価することができる状況では最善の方法を選ぶことができます。そういう意味では、自由を制限することがよりゲーム的だという検討結果は、よりコンピュータに向いている、コンピュータ的だ、ということでもあります。それは、コンピュータが次の手を打ちやすいというだけでなく、物語的な展開もでやすいということが言えるからです。

完全に自由な状況というものでは、コンピュータは途方にくれます。すべての評価ができないので最善の手を打つことができないから、何も選べない、と。選んだ答えも評価が完全でないので人から見れば怪しい結果になる、と。もちろん将棋もチェスも最初はそうなんです。が、これは人間同士も同じことであって、その中でも有利になりやすい展開という定石が生まれます。そうできたなら、コンピュータは定石を選ぶという評価しやすい状況が生じていい感じになります。ところがシミュレーションゲーム、これは必ずしも展開が一定でないため、定石ができにくい。

結局コンピュータは計算機であって、状況と対応に評価式が与えられてこそ判断、というか計算ができるものでしかない、と。シミュレーションゲーム、特に何をやってもいいというくらいコマンドが多かったり、どこを攻めてもよいというような状況であれば、えいやでランダムに選ぶか、乏しい情報で計算して評価するしかない、そうであるからこそ、頭が悪いとしか思えない方法を選んでしまったりするわけです。つまり、考えていない、と。

これを避けるためには、シミュレーションゲームであっても、コンピュータが最善手を計算しやすいコマンドが前提でルールを作る必要がでてきます。そうだとすると、あんまり自由でない方がいいわけですね。まずは負けないようにこつこつ内政コマンドで国力改善、というようなプレイが強いられたりするのは、そうすることが有利であるという展開がコンピュータが計算しやすいので、そうなっているだけかもしれません。

そう、内政コマンド連打システムは、何もすることがないというような状況を改善することとともに、コンピュータがアホなことをする、という状況も回避できる、プログラマーにとってかなり便利な方法なのです。なるほど、私がなかなか連打制に変わる方法を見つけられなかったわけだ…これはすごい方法ですね。

まあ、必ずしもそれだけが、プレイヤーが何もすることがなくて退屈だったりとか、コンピュータがアホな方法を取らない方法というわけでもないと思います…多分(^^;Aそれを考えなくちゃなりません。ああ、問題点はわかった、しかし解決策が、いるんです(≧▽≦)

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