kr_ryo 徒然日誌 <2006年11月12日分>

三國志製作記156〜あくまでゲームか〜

前回の検討で、再び気づいてしまったシミュレーションとゲームの問題(~_~;)残念ながらどこまでいっても完璧にシミュレーションすることなんてできっこないですから、やっぱりあくまでゲームでしかありません。どれだけ画像がきれかろうが、ルールや機能がいろいろ事細かに設定されていようが、あくまでゲームです。

というのも、明確な目的、勝利条件が存在するからです。シムシティのように続けること自体が目的なゲームもありますが、それはそれで目的です。ずーっと続けることができる状態になった段階で終わり、なわけです。プレイもルールも、その単一の目的達成のためにあります。目的が複数あったとしても、有限である以上同じです。

であるとすると、ルールはその目的を簡単には達成できないようにする制約の条件でもあります。目的達成のためのルールでもあり、目的制約のためのルールでもある。つまり、与えられたルールでもって、目的を達成するということがゲームであるわけです。そして、そのルールがどういうものであるかが、そのゲームの特性を示します。軍隊の移動だけでなく軍隊の生産も含めば戦略級シミュレーションゲーム、宇宙戦闘機が前へ前へ進んでいくならSFシューティングゲームというような感じです。

そのルール、実は増やせば増やすほどゲームから離れてきます。エクセルが何か不特定の目的をなんであれ達成するために、いろいろな機能を増やすというのと近くなっていくのです。

別の言い方で言いましょうか。ルール、すなわち手段が増えれば増えるほど、目的達成への道のりが増えます。東京から大阪へ行くのに、走っていくとかヒッチハイクだけでいく、というのはゲームになります。しかし、なんであれどの手段であってもいい、早くたどり着ければいい、となると、おそらく新幹線か飛行機かどちらかしかなく、ゲーム性は著しく落ちます。それでもスタート地点によっては、空港か、駅かどちらに早くたどり着けるかという意味ではゲーム性はあります。しかし、それでは大阪に着くこと自体はかなり目的としては薄まります。

さらに、お金をいくらつかってもいいし、情報もとり放題となると、もはやゲームというより、いかに最短ルートを最短時間で検索できるか、乗換案内がきっちり正確かどうかというだけになってしまいます。これではいくらいろいろなルートが選べられようと、正解は1つしかなく、もはやゲームではありませんね。

どのルートを使ってもよい、ただ、乗り物はだめ、というならばゲームになります。そして実際、プレイヤー(ランナー?)はいろいろなルートを考えることでしょう。ところが、どのルートを使ってもよい、何に乗ってもよい、となったとたんにゲームでなくなります。まあ、その乗り物、多分飛行機に乗りさえすればよいわけで、どのルートを使ってもよい割りにはひとつだけしか答えがなくなるんです。不思議なことに、著しい制限を課した方が様々な方法が考えられるのに、制限がなくなったとたん、ひとつの方法しかなくなります。自由のパラドックスとでも名付けましょうか(^^;;

そしてこれは、よくあるシミュレーションゲームが、どうやっても誰でやっても同じ結果になる、という状況になる原因をよく表わしています。どの勢力でプレイしても、結局最初がちょっとだけ違うだけで、そのうち優秀な武将を揃えて、いつの間にか能力がトップクラスのいつも同じ顔ぶれの連中だけで進軍し、同じようなルートで攻めまくって天下を統一する…なぜそうなるのか。それはまったく制限がない、いや、制限がないに近いがごとくコマンドが多いためでしょう。シミュレーション性を高めるために、様々な制限をなくし、そしてできることがないという制限自体も機能を増やすことでなくしたがゆえ、誰がどうやっても同じ結果になる。そうです。やはりこれは自由のパラドックスです。

シミュレーション性を高めるためにした内容が、本来様々な個性や特徴があった連中や勢力が、すべて同じ一本道に乗ってしまう。どうやってもなんであっても同じである、これは自由がありすぎる、制限がなさすぎることによって生じたのです。

たとえば三國志で、一度手下にした武将は滅亡しても絶対他の勢力の手下にならないというルールを設けたとしましょう。そうすると勢力によってかなり違った展開になるはずです。シミュレーションとしてはどうしてそういう制限があるのかについてややきついところですが、ゲームとしてはかなりおもしろくなる可能性はあります。

そこで当然出るのがSWGの建艦制限(^^;;まあこれはどう考えても理由はありません。ゲームだからです、としか言えません。まあプログラム上の問題もあったんですけどね。が、そのルールのために単なる圧倒パターンにはならない、というメリットがあります。

こういうゲームのためのルール、つまり制限のためのルールと、シミュレーションのための機能、これはどうも対立しています。シミュレーション性を高めるために機能を追加していくことと、なんらかの行動を制限するためにルールを設けることは違います。兵の通常の訓練、鍛練、決死の訓練というように様々な機能を設けること、訓練は1ターンに1回しかできないというルールを設けること、これは方向性が真逆です。

なんとなく見えてきました(◎-◎)シミュレーションシミュレーションとがんばっていけばいくほど、ゲームが作れなくなるのです。本当はルールをそれと気づかないようにうまい具合の制限を課しつつシミュレーションしていくという方がよいんでしょう。が、そうそううまくいくわけでなく、それがシミュレーションから外れると失敗することになる、と。SWGでいえば、宇宙戦艦やミサイル艦で戦力が違うというルールはそれっぽいということでシミュレーションとマッチしているんですが、建艦制限はそういう制限がなにかをシミュレーションしているわけでなく、ルールであることがぎらついてしまう、と。

そういう意味ではシミュレーションであるルールであることが大事なんですね。ルールのためのルール、プログラムのためのルールではなく、シミュレーションのためのルール。たとえばいくら物語に表現されていたとはいえ、本当に100万の軍勢を組織できるわけではなく、いいところ数万数十万、それも30万とか明確な数字ではなく自然に上限になるようなルールであればシミュレーションとマッチします。これが上限が30万です、というようなルールであると、なぜ30万なのかということで疑問が残るわけですね。29万9999人ならよくて30万1人ならいけないということの理由は何か。

そう考えると、理由を言わなければいけないようなルールはよくないルールなんでしょうね。戦艦と巡洋艦の戦力の差は何も言わなくてもわかりますが、戦艦は5隻まで巡洋艦なら8隻までという制限の理由は、なぜかを言わなければまったくわかりません。が、徴兵だろうが建艦だろうが、本来無限に増やすことはできないはずで、そこがシミュレーションされるべき内容です。そのシミュレーションされるべき内容のためのルールがあるとするならば、5隻とか8隻とか制限を設けるんでなく、なぜにどんどん増やせられないかを考えるべきなんでしょう。

三國志で考えてみれば、徴兵制限ですね。一城に10万人以上の兵力が集まってはならないというようなものです。これを10万人と直接制限せずに同じ効果を発生させたい。そこが問題です。まず、10万人も一挙に集中したら、テントなり小屋なりを作る場所がなくいきなり野宿になってしまうこと、民家に押し寄せるとしてもそもそも余分な場所などないはずであること、食糧や物資を準備するのが、人間を準備するのと同じくらい手配が必要であること。他にも便所の問題なんてのもあります。下水がないわけですからかなり不衛生でしょう。なんにせよ、集中させたら環境が悪化するわけです。そういう意味では、この辺の能力がない指揮官ならば戦う前に兵が野宿で食糧もなく疫病に襲われてもろもろになっている、ということが考えられます。

コンピュータゲーム化したいボードゲームで、ローマ帝国をテーマにしたものがありますが、これなんか軍が集まれば集まるほど反乱を起こす可能性が高まるというルールがありました。ローマ帝国の行政の基本は分割して統治せよ、でした。同じような話で秦の始皇帝が天下統一の戦いに送り出した将軍が、反乱を恐れる始皇帝に殺されないようにくどいほど恩賞をねだる、なんて話もありましたね。

兵を集めれば集めるほど、無能な将軍なら兵を損ね、有能な将軍なら反乱を起こす、これなら10万の大軍を催すこと自体がなかなか恐ろしい話になって、10万まで!なんて無粋なルールを作らなくて済みますね(^^;;じゃあSWGはどうしてそうしなかったか?そりゃあ、宇宙艦隊ったって数十隻なんだから補給くらいできるでしょう、という感じで…もっとも銀英伝は補給失敗、というか補給限界を超える、というシーンがありましたねえ。さすが数十万隻。あれくらいになると10万の兵とあんまり変わらなくなりますね〜

ということで、だんだんそれっぽいルール作りができてきそうな、予感(´∇`)

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