kr_ryo 徒然日誌 <2006年12月4日分>

三國志製作記158〜英雄のめざす先〜

今週は期間限定でβ版のLNKLNCを公開ております(^^;Aといいつつ、そのうち期間未限定の正式版が出るんですけどね(^^;;だからこその、期間限定(^^;;;

さてさて。前回のお話しでは、ゲームの目的、勝利条件から、では三國志の英雄たちの目的はどうか、というところにまでスライドしていましたね。三國志の英雄たち、特に曹操と劉備は、漢朝を復興しようとしていた、ように見えます。董卓の乱以降、朝廷の権威は落ち、各地の群雄が好き勝手をするようになりました。とはいえ朝廷は朝廷。曹操が利用し、劉備が最後まであこがれていた朝廷の権威とは、さて、これはいったい何なのか?

ちょうど大河ドラマの功名が辻では、関ヶ原の合戦以降のお話をやっています。豊臣家の天下を徳川家が奪う時期ですけども、この時期の徳川家は慎重かつ大胆に天下取りを目指しています。漢朝の終焉時期もそうですけども、武力で討ち果たしたからすぐ天下が転がり込んでくるわけではない、しかしながら武力で討ち果たすことはそれはそれで重要な要素である、という感じがします。

その豊臣家だって、明智や柴田や徳川といった他家を討ち、あるいは味方に引き入れしつつ、強大化したうえでの天下です。味方にするか、討ち滅ぼすか、その際の重要な要素が大義名分です。信長にとっての足利将軍、秀吉にとっての織田家、曹操にとっての漢朝、これが大きな大義名分となっています。それは、仮にも本来の主君筋であるから、逆らえば逆臣と言われることになる、からです。

利用した者がそのうち主家を奪うことが明らかであったとしても、それはそれで、明らかに背くまでは主家としての行動です。曹操が通説どおりではなく、本気で漢朝復興を図ろうとしていたのかどうかはわかりませんが、呉にせよ劉備にせよ、曹操、ひいては朝廷の言うことを聞くのであれば、無理に攻めなかったかもしれません。徳川家にしても、島津家や毛利家や伊達家なんて怪しげな連中を抱えたまま何百年も続きます。豊臣家にしても、徳川家を抱えたまま続いていたかもしれません。そういう意味では、魏が強大で呉がおとなしくしていたり、魏が後漢を奪わず、そのまま主家を強大化させていたりすれば、三國志とならなかったかもしれません。

島津家がどれだけ反抗的だろうが徳川家は参勤交代はさせました。魏がどれだけ強大でも、呉は太子を人質には差し出しません。だから島津は討たれませんでしたが、魏と呉は争いが続きます。結局は実力の違い、ということですね。

純形式の話ながら、実質の話でもあるのが、主従関係です。誰に仕えているのか、ということです。徐州陥落後の関羽が、曹操ではなく朝廷に恭順した(ということは、後漢に逆らっていたのか?(^^;A)ということからもわかるように、ひとたび仕えたら、それに逆らうことはどれだけ理があろうと逆臣です。信長がどれだけ非道であろうと、信長に仕えた明智光秀が信長を討つことは反逆以外のなにものでもありません。だからこそ、ひとたび秀吉に仕えた徳川家は豊臣家をなかなか滅ぼすことができませんでした。毛利家が織田家を討つのとはわけがちがうのです。

そうそう、三國志ではわりと裏切り者が出てきます。が、これまた裏切り者はなかなか天寿を全うしません。だいたい実力があれば誰かに仕えたりせず独自の勢力を作りますわな。もちろんそれは呂布です。が、まあ、これも天寿を全うしてませんね。

で、その誰に仕えているか、というところで、建前上は皆後漢皇帝の臣下です。董卓の乱以前では、腐っていても朝廷の意向はかなり従われていました。辞令だけで後の英雄達の任地が変わるわけですからね。それが董卓の乱で朝廷の権威がまったく失われます。それは董卓の意向であって、朝廷の意向ではないだろう、というわけです。が、それは当然朝廷に逆らっているよう、形式上は見えます。それが董卓の存在によって、逆らうことが正当化されることになります。

ひとたび朝廷に逆らうことが正当化されれば、群雄化して、もはや朝廷の言うことをなかなか聞かなくなります。そして朝廷を体現している董卓がそれを反逆として討つことができるかどうか、ということになりますが、結局はできませんでした。それを引き継いだのは曹操です。ところが一度逆らった連中は、自由という禁断の味を知ってしまい、なかなか言うことを聞かなくなります。だからこその、董卓&曹操の逆臣説です。彼らは朝廷を操る悪逆の臣、それを討つのが大義、というわけです。

こうなると、董卓にせよ曹操にせよ、どれだけ自らの位階を上げてもお手盛りとしか思われないですから、諸侯は誰も権威として認めません。実際に悪逆の臣だったかもしれません。が、だからといって皇帝自らが諸侯を従えることも、もはやできません。なんとなれば董卓や曹操といった諸侯を抑えていないわけですから。

そうそう、董卓は暗愚といわれた弘農王を廃して献帝を立てます……わざわざ暗愚の帝を廃して聡明な帝を立てて、自らやりづらくせなんでもいいと思えませんか?まあ、皇帝を廃したり立てたりを臣下がするということ自体、不忠だ、ということではあるんですけども、やりたいようにやるのに、本格的に聡明なら困るわけですから、これは、わざわざ董卓を悪玉にしようという流説であり、諸侯が反逆してよい理由にさせしめているのかもしれません。歴史は勝者の歴史ですからね。本当は漢の忠臣だったかもしれない破れた董卓はどこまでいっても悪玉になります。

それはともかく、結局は権威は実力に裏打ちされていなければ、いざというときに化けの皮がはがされるだけになり、権威がなければどれだけ実力があっても誰も従いません。その権威。曹操が司空だろうが丞相だろうが、お手盛りと言われてしまえば権威になっていません。諸侯は曹操が実力をもって朝廷を牛耳っていること自体を、悪臣が朝廷を支配しているとして従わない理由にしています。したがって、曹操はあくまで後漢の臣として、実力をもって討伐するか、自ら朝廷を起こすしかなくなります。もっとも、袁術の例のごとく、実力なき朝廷は単なる反逆にしか見えません。そうであるならば、やはり曹操は実力を蓄え、逆らう諸侯を討たなければならないのです。

董卓にせよ曹操にせよ、それまでの朝廷の中ではさして高い家柄でなかったからこそ、実力があっても諸侯は権威を認めてくれません。ならば劉焉や劉表や袁紹や袁術はどうか。この中でもっともやる気も実力もあったのは袁紹です。しかしながら、曹操に先を越された、というより、逃げてきた皇帝を庇護する気はなさそうでしたね。自由を謳歌する方が先決だったのでしょう。三公を輩出していた袁家が朝廷を庇護すれば、これまたあっさり三公にでも推されるでしょう。そうすれば朝廷は復活するでしょうが、袁家もまた、今までどおりです。他の重臣も復活するでしょうから、群臣の一位ではあっても、英雄たりえません。自由はききません。従来の枠組みでの権威ですから。

袁家が朝廷を抑えれば、諸侯は黙らざるをえなくなりますね。が、袁家が自家に都合のよいやり方をすれば、今度は逆臣扱いされるのです。何をするにもほどほど、でしかできません。そういう意味では、董卓も曹操も、今までの慣例なりを破って、新しいことをしようとしたからこそ、逆臣扱いされたのでしょう。しかし、ほどほど、慣例、今までどおり、という政治は、結局は悪政でしかなく、第二の黄巾の乱が起きるまでです。

袁紹にしても、冀州を奪うなりして実力を有していたからこそ諸侯も実力を認めるわけです。同じように三公を輩出していた楊家(楊彪や楊脩の家)は、下手に朝廷に従っていたため、実力を有せず没落します。自由を謳歌しても、袁術みたいに、実力も能力も伴わずに滅亡する例もあります。もはや実力なくして正義なし、です。

もうひとつ、先程誰に仕えているかが大事、というお話をしました。諸侯は誰もが皇帝に直接仕えているわけで、丞相といえど大将軍といえど、皇帝の下では同僚であるわけです。身分が逆転することもあるわけで、あえてわざわざ同僚の家臣になるんでなければ、大将軍や丞相を称するものに権威を認めなければならない理由もありません。結局は実力がなければならないということになりますね。

と、ここまで考えてみて、それにしても、うーむ、またシミュレーションの深みにはまってきているような気がします(--;)ここはちょっと息抜きにシヴィライゼーションでもして、もう一回仕切り直しますか(^^;;

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