不可視の風の中で
〜invisible side of SELECTION〜
-1-
目を開けて、はじめて見たものは、無機質な白。
何もない床に置かれた、冷酷な機材。
愛すべきものも愛されるべきものも何もない、無表情の世界。
白い布を身にまとった人間達が、歓喜の色も露わに近寄ってくる。
――白い色は嫌いだ。
◆
静原に指示され、月岡はとある部屋に向かっていた。
冗談じゃない、と思った。
どう考えても、自分には全く不向きなことだ。
談話室を通り過ぎ、新しく用意されたそこへとたどり着く。
月岡はそこで歩みを止めた。
冷たい音を発生させ、扉が開く。
殺風景な部屋。
子供の住む環境にしては、あまりに無個性すぎる。
自分以外に対して、無個性と感じるのはおこがましいか……。
そんなことを考えながら、月岡は狭い部屋を見渡した。
「? …………」
部屋にいたのは、幼い少女だった。
ピンク色のワンピースは、冷たいコンクリートに咲く花のようだ。
少女は、こちらを見るなり後ずさる。
愛らしい顔には恐怖が浮かんでいた。
月岡はそれに気付かず、少女に一歩踏み出した。
少女が後退する。
接触が出来なければ意味を成さない。
そう思って、月岡は少女を覗き込むように少しだけ身をかがめた。
少女は左右を見ていたが、逃げ場のないことを痛感したのか、
とうとう泣き出してしまった。
やっと月岡も、少女が自分を恐れていることに気付いた。
怖がられるような行動をしたつもりはないんだが、と心中首を傾げるが、
自分の容貌を思い出して納得する。
厳しい顔つきをしているサングラス男に見下ろされたなら、
幼い子供にとっては相当なものがあるだろう。
泣いている少女を前にし、月岡はとまどっていた。
……沈黙を守っていたし、無表情のままでもあったが。
◆
月岡が通路を歩いていると、男性が近付いてきた。
陰鬱な心持ちになる。どうもこの男は嫌いだ。
「また、会いに行くんですか?」
金髪にスーツ姿。
自分とは違い、用途不明のサングラス。
胡散臭くも一応は丁寧な物腰。
……ハウンド。
彼と顔を合わせる度に、何か皮肉を言われる。
年上ということもあり、こちらは何も言わないことが多い。
しかし、そうすればますます毒舌はエスカレートする。
嫌われているのだろう、と月岡は認識していた。
「…………」
沈黙を肯定と取ったのだろう。
ハウンドは口元に歪んだ微笑を刻むと、滑らかに言ってくる。
「あなたにそんな趣味があるとは、思いもしませんでしたよ。
……人間に興味を持つこともね」
ハウンドの仕草は、
あなたのことなど分かり切っているのですよ、といわんばかりだ。
見えない程度に、月岡は眉をひそめる。
素直に人間の命令に従うモノ。
脳内強化タイプ唯一の成功例。
経過の様子を観察される実験体。
そんなものとしてしか自分を見ない相手を、好きになろう筈はない。
だから人間は嫌いだった。
「……何が言いたい」
「いいえ。
妹なら、当然ですか。
自分はこき使われ、妹は優遇されていても、
やはり可愛いものなんでしょうね」
「…………だったら何だ」
妙な解釈をされた挙句、忌憚なく皮肉を浴びせられ、
分かったようなことを言われ続けたせいか、月岡は更に苛ついてきていた。
ハウンドはそれに気付かない様子を装い、更に続ける。
「まあ、構わないでしょう。
彼女が、あなたを兄とは知らなくとも。
痛々しいサンプルが、あどけない子供に癒しを求めたとしても」
「、…………」
反論しようとして、言葉に詰まった。
単なるエゴのために、彼女に会っているつもりはなかった。
……けれども、それは、本当だろうか。
思えば、自分はどこかで他者との接触を期待していたのではないか?
あっさりと乗せられた月岡を見ると、
ハウンドは興味をなくしたように声をかけた。
「それでは、私は用があるので。
……行ってらっしゃい」
そのまま、彼はどこかへと歩き去っていく。
しばらくの間、月岡はハウンドの背中を見送ることしか出来なかった。
何度か訪れるようになったそこへ入ると、
少女が嬉しそうに出迎えてくれた。
「月岡さん!」
静原真由。
以前、泣かれてしまった少女だ。
ろくな話し相手がいないせいか、慣れてきたのか、
彼女は月岡を好ましく思っているようだ。
「今日はお勉強ですか?」
真由は屈託なく聞く。
他人と何かをすることが、彼女にはたまらなく楽しいのだ。
月岡はたまに、そんな真由に勉強を教えてやることがある。
小学生レベルの簡単な内容だが、真由は熱心に学習している。
……そういえば最近は、あまりしていないかもしれない。
今日は絵本を読んでやるつもりだったが、
真由の言葉で月岡は思い直した。
本棚にある教科書を取り出す。
本棚を見ると、することがないせいか、
真由の部屋にある本はあらかたぼろぼろになっている。
教科書を手に載せ、その表紙を改めて見る。
自分もこれと同じ教科書で勉強したな、と月岡は思い出した。
だが、これではなかった気がする。
これは、自分の使ったものの新訂版だろう……。
「月岡さん? どうしたんですか?」
真由は、問いにも答えずに教科書を取り出した月岡を変に思ったらしい。
「いや……。理科をやるか社会をやるか、迷っていただけだ」
下手な嘘だ、と月岡は苦笑したくなる。
しかし、追及も茶化すこともせず、真由は笑って答えた。
「社会がいいです」
何故か、真由は社会の勉強が好きだった。
自分とは違い、真由は社会の本ばかり好んでいる。
月岡はどうしても社会を好きになれなかった。
「真由……どうして、そんなに社会が好きなんだ?」
ふと、聞いてみた。
今思えば、聞かなければよかった。
「だって、面白いでしょう?
私、こんな世界を見たことは殆どない……。
見ていたのは、ほんの短い間だけだったんですもの。
……ここにいたら、あまり外に出ることもありませんし。
外の世界は……私にとって、憧れなんです」
真由はどこか遠くを見るような表情で言った。
籠の中の小鳥のように。
それは、答えるというよりは楽しい寝言のようなものだ。
祈りにも似た、そして自覚のない、哀しい言葉。
世界は冷たいものだとしか考えていなかった月岡にとって、
真由の台詞は意外なものだった。
社会の学習すなわち、外の世界へのアスピレーション。
外界との接触を遮断しようと躍起になっている月岡とは、正反対の考えだ。
どうして社会の勉強を嫌いだったのか、
月岡はようやく理解した気になった。
真由は微笑したまま、続ける。
「きっと本当に、温かいんでしょうね……」
一度目を閉じてから、呟く。
聞こえなければ良かった。
……彼女はこの時、何も知らなかったのに。
「……家族とか友達とか、きっと」
◆
小さな、名もなき墓地。
誰かがここに墓参りをした形跡はない。
孤独な墓所だ。
さして上等とも思えない、ありふれた墓標。
……まるで、死者への思いを表しているかのような。
月岡は一人、そこに訪れていた。
身を切るような冷たい風が、墓と彼の間を通っていく。
彼女との別離を表すように、冷たく。
何ともいえない感情に、月岡は目を細めた。
忘れられた者の眠る、寒いような悲しみに。
こんな場所に、安らぎのようなものを感じる自分への嫌気に。
自分は彼女に、何が出来たのだろう?
自分は彼女に、何を期待していたのだろう?
彼女の死後、すべてが狂っていたことを知った。
……真由は利用されていた。
奴は何も疑うことのなかった彼女を利用し、道具として使い、そして、殺した。
ささやかながらも安らぎのあったあの時間が、
ずっと続くと思っていたのに。
自分も真由も、本当に狭い範囲しか見えていなかった。
真由の死体は、知らない間に研究者達に埋葬されていた。
その場所を職員から聞き出し、月岡はここへ来たのだ。
ハウンドの援護など、多少遅れたところで支障はない。
どうせあの男がしくじることなどないし、それに……。
…………。
気がつけば、そんなことは考えていない。
少女の墓を見つめても、
どうしようもないやるせなさと、
自分への嫌悪しか浮かんではこなかった。
何も思うことがなくなるまで、月岡はただ、そこにたたずんでいた。
風が彼を襲い、服や髪をなびかせていく。
その外見は鴉のようだ、と自分で何となく思う。
風は吹き続けている。
「風、か…………」
Invisible Fang.
そう呼ばれていた彼には、どうということもない。
風なんて、本来見えないものなのだ。
そのようなものが見えてしまう方が、きっと不自然だ。
――自分のような存在は。
……その時、何かが壊れた気がした。
ゆっくり、儚く、そして……切なく。
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