不可視の風の中で
〜invisible side of SELECTION〜
-2-
約1年後…… その人物は、月岡の前に現れた。
彼女は実験体であったのに、
そんなことはほぼ気にしていないようだった。
アイデンティティの確立がしっかりしているのだろう、
と朧気に考えていたが、それだけではなさそうだ。
「……それが、真由の墓か?」
彼女は、月岡に声をかけた。
世間話でもしているかのように、気兼ねしない風で。
それでも、彼女が気を遣っているのが分かった。
……敵であるはずなのに。
野々口勝美。
彼女は、月岡に真由のことを尋ねた。
何も知らずに真由を可愛がっていた自分。
花を嬉しそうに買っていた、真由の笑顔。
命令に縛られて悲劇を止められなかった自分。
そんなことを思い出して、久し振りに月岡は悲しんだ。
久し振り、と感じる自分に、相当の嫌悪を感じながら。
だが、こう言うしかない。
「今更、俺にこれ以外の生き方は不可能だ」
それを言い終わるか言い終わらないかの時、勝美の表情が変わった。
驚いたような、怒ったような、そんな顔に。
「そんなの、おかしいよ!」
――そう言ってくれる人が、本当は欲しかったのかもしれない。
不思議にもそう浮かぶのが、その時は自然に思われた。
「お前、大人だろ?
少なくとも、もう子供じゃないだろ?」
そこで勝美はいったん間をおくと、唇を噛んで言った。
「何で、そんな……自分で考えて行動できないんだよ?
間違ったことやってるって、分かってるんだろ?」
必死に言葉を選んでいる勝美と、
その手にある、セロハンで包まれた紫の花を見て、月岡はまた思い出した。
●
「ごめんなさい……」
真由が、青ざめて謝った。
……これは、いつのことだったのだろうか?
「気にしないでいい」
月岡はかがむと、ガラスの破片を拾い集めた。
目新しいものがないだろうと、
月岡は外出のついでにみかんジュースを買ってきていたのだ。
その缶を差し出したとき、真由が一緒に飲もうと言ったので、
そこにあったビーカーをふたつ用意した。
真由はそれを割ってしまったのだ。
足下に、輝くガラスが広がっている。
「でも……」
真由が何か言おうとしたが、月岡は黙って作業に集中していた。
その矢先。
「っ…………」
箒がなかったので、手で集めていたのが良くなかったのだろう。
月岡の指が切れていた。
「どうしたんですか?」
敏感に何かが起こったのを察知して、真由が月岡に尋ねる。
初対面の人間なら、月岡の変化にはまず気付かなかっただろう。
「指を切ったらしい」
「大変です。手当てしないと……」
真由は救急箱を取るために立ち上がった。
「…………」
月岡はしばらく傷口を見ていたが、数秒後にはガラス片の方を見た。
真由はその間も、背伸びをして救急箱を取ろうとしている。
「構わない」
見かねて真由を止めようとするが、彼女はきっと振り返った。
「駄目です!」
彼女には珍しく、強い口調だった。
月岡は、その意外性に黙りこんでしまう。
「怪我してるんですから。もっと自分を大事にして下さい」
思いもしない気遣いの言葉に、月岡は呆気にとられるしかなかった。
結局、月岡は真由に従って治療を受けた。
絆創膏で丁寧に巻かれた手を取って、真由はそれを眺めた。
「……どうした?」
手はそのままにして、真由は顔を上げた。
「いいえ。月岡さんの手って大きいんだなって思ってたんです」
二人の手が重なった。
手のひらを合わせると、大きさの違いがはっきり分かる。
……真由の手は、とても小さかった。
花を花瓶に入れるときの手とは、何処か違って見える。
照れているのか、真由は月岡を見て笑った。
その時の彼女の手は、心地よく温かかった――。
●
真由が好んでいた花を、今は勝美が持っている。
その手は、さほど小さくない。
彼女は強い眼差しで、月岡を睨みつけている。
睨んでいるというよりは、真剣に見つめている、というべきだろうか。
この目を見て真由を思い出すのは、何か間違っているような気もする。
月岡は立ち去った。
花を墓に添える、勝美を残して。
――花なんて見たくなかった。
枯れていくのを見るのが、とても悲しいから。
その枯れる様子が、楽しい過去を失ったことに似ているから。
墓地を離れた後、月岡は頭に手をやって苦悩していた。
◆
以前も思っていたことだ。
静原は月岡に、常にこう言う。
「お前は私の息子なのだから、素直に私に従っていればよいのだ」
そうでないことは知っていた。
もし、静原が本当に自分のことを息子だと思っているなら、
自分は静原の名を付けられていたのではないか?
心身だけでなく、名前さえも人から干渉されて出来上がった。
それらは自分を縛り、外を見ようとすれば、何かの暗示で抵抗力を奪っていく。
他人に支配されるだけの人生。
他人に依存しないと生かせてもらえない命。
他人に…………
「…………?」
気配を感じ顔を上げると、そこに、少女が立っていた。
その髪は、強い風になびいている。
ポニーテールに白いスカート。知的な瞳。
整っているが近寄りがたい雰囲気の顔。
足下には、美しい白猫が控えている。
何度か見かけたことのある少女が、月岡を見据えていた。
月岡はとっさに精神集中し、能力の発動に備える。
物心ついたときには、既に癖になっていた。
何て殺伐とした癖なのだろうかなどと場違いなことを思いつつ、
構えも取らない少女を観察する。
「まだ悩んでいるの?」
ぴくり、と無意識のうちに身体が反応した。
「時間はもうないわ。
迷っているうちに、また、すべてに決着がついてしまうでしょうね」
少女の言った、また、という言葉が引っかかった。
「……何を知っている?」
「全体のことは大まかに把握しているわ。
……知らないはずがないでしょう?」
もはや攻撃する気さえ起こらず、月岡は少女から目をそらした。
いつものハウンドに、野々口勝美に……そして、この少女か。
精神的疲労の極みといっても差し支えはないだろう。
自分が脆いのか、それとも周りの人間達が図太いだけなのか……。
気が狂いそうだった。
それとも、もう、狂ってしまっているのかもしれない。
もっと狂えば、楽になれるのだろうか……。
我に返ったときには、少女と猫の姿はなかった。
夢だったのだろうか……。
――いや。
ひょっとしたら、自分の願望だったのかもしれない。
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