埼玉県伊奈町に伝わる伝承によると、伊奈氏に仕える代官・大河内久綱には女子があったが男子はなく、産土神(伊奈・氷川神社)に祈願したところめでたく男児が出生した。慶長元[1596]年10月30日(29日説あり)のことである。亀千代と称した。後の松平信綱である。(『小室村誌』)
久綱が仕えた伊奈氏の陣屋は、土塁と空堀をめぐらした砦になっていて、障子堀(15個入り饅頭のしきりのように格子状の畝のある堀…適切な形容を思いつかない)が発掘されている。この障子堀の構築は後北条氏が得意としていた。
慶長の頃、代官の大河内氏が川越に屋敷を構えたという言い伝えが川越にある。この大河内氏は一般に大河内久綱であるとされているが、久綱の父・秀綱の可能性も考えられる。
亀千代は氷川神社の別当寺・吉祥院に入学。当時使用した硯箱と短刀が後に寄進され、今に伝わる。
当時亀千代がよく参拝していたという天神社は、現在氷川神社の境内に移転され、伊豆天神社と呼ばれている。
その後、亀千代を改め長四郎と称す。"長四郎"は養父・松平正綱の通称なので、養子になった後改名したものであろう。正綱が長四郎を改め右衛門佐を称した慶長8[1603]年以降の改名と考えられる。
慶長5[1601]年9月15日、関ヶ原の合戦。
松平正綱が先年家康より拝領の鎧を着用して参陣する。
慶長6[1601]年、叔父・正綱の養子となった。(『大河内家譜』)
徳川家康は、慶長5[1600]年の関ヶ原の合戦以降〜駿府城を拠点にするまでは、伏見城を拠点とし、年末年始を江戸で過ごしている。家康に仕えた松平正綱もこのスケジュールに従って行動していたと考えられる。とすると慶長6年当時、正綱の居宅は伏見にあったはずである。
慶長6[1601]年末、家康は川越方面に鷹狩りに出ており、大河内久綱・松平正綱兄弟が会したのはこのときと推察される。
慶長7[1602]年10月2日、正綱、山城国 久世郡・綴喜郡等のうちにて500石を宛われるむねの黒印をたまわる。(『寛政重修諸家譜』…以降『寛政譜』と略す)
久世郡・綴喜郡いずれも、明治以降に併合したりされたりで形状が変わっているが、正綱が領有したころは京都市伏見区から宇治市にかけての一帯で、伏見城から近い。このことからも、正綱の活動拠点が関西にあったことをうかがわせる。
都合780石を、金20枚に換算して受け取っていたという。(『論集幕藩体制史4巻「天領と支配形態」』)
慶長8[1603]年2月12日、家康は京都で征夷大将軍に任ぜられる。
慶長8[1603]年3月25日、松平正綱が従五位下右衛門佐に叙任される。(この書面は千葉の大多喜城址に建つ千葉県立総南博物館に展示されている)
この日、正綱、家康の参内の行列に従う。(『当代記』)
慶長6年から慶長9年にいたるまで、長四郎少年の居場所については不詳。
伊奈町の記録によれば、亀千代(=長四郎)が小室(現・埼玉県北足立郡伊奈町)にいたのは六歳までなので、正綱につれられて伏見にいったものか?
『大河内家譜』の信綱の条には、慶長8[1603]年9月3日秀忠に拝謁、正綱につれられて11月15日伏見で家康に謁すとあるが、11月15日の時点で家康は江戸にいるのである。
正綱の養子になった時期について、慶長8[1603]年説もあるが、信頼できる史料にあらわれないこと、正綱の行動スケジュール的にやや疑問が残る。
慶長9[1604]年6月23日、伊奈忠次、"大 金兵衛"(大河内金兵衛秀綱)らに宛てた文書で、"宇都宮御造営"につき、材木の調達についての指示を出す。(『伊奈忠次文書集成』)
これより先の慶長6[1601]年8月に、蒲生秀行が宇都宮から会津に移り、大河内秀綱が宇都宮を預かっている。鹿沼に代官所が設けられ、秀綱が赴任している。(『栃木県史』『鹿沼市史』) 慶長6年12月には奥平家が宇都宮に入封するが、秀綱は引き続き慶長8年8月まで駐在する。(『宇都宮市史』) 慶長13年の記事も参照。
慶長9[1604]年7月17日、徳川秀忠に次男・竹千代が誕生すると、長四郎も小姓として召し出された。
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