7月25日、松平長四郎、竹千代(家光)の小姓となり、月俸三口を給される。
11月16日、母方の祖父・深井藤右衛門好秀、没。
2月3日、長四郎、二口加増される。
4月16日、徳川秀忠が二代将軍に就任。
4月9日、松平正綱・秋元泰朝の連名で年貢米の売却代金受取状を発給。
慶長11[1606]年6月1日、将軍秀忠と正妻お江与の間に家光の弟・国松(忠長)誕生。
12月8日、大河内金七郎某(大河内久綱の弟)が国松(忠長)の傅役に任ぜられる。(『徳川実紀』…以降『実紀』と略す)
3月14日、伊奈忠次、"大 孫十郎"(大河内久綱
か?)らにあてた文書で、太井郷内善正寺 新田についての報告を求める。(『伊奈忠次文書集成』)
慶長13年、鹿沼の今宮再建棟札に"当所代官所大河内金兵衛秀綱"と記される。(『鹿沼市史』)
このころは父・秀綱が「金兵衛」、子・久綱が「孫十郎」を称していたものか。後に久綱も通称を「金兵衛」と名乗っている。
2月28日、松平正綱・秋元泰朝・板倉重昌、駿府にて近習出頭人となる。(「秋元家譜」)
5月8日、徳川義直、徳川頼宣を接待する。正綱ら、配膳にあたる。(『当代記』)
1月1日、正綱の養父・松平甚右衛門正次、死去。(大河内家譜 別録巻第一)
文禄3[1594]年3月16日死去の説もある。『神奈川県史 通史編』に、天正18年から慶長2年まで植木村・岡本村・等(鎌倉市内)が松平正次の預り地となっていたとの記事があるため、ひとまずここに挙げることとする。
2月3日、長四郎、袖を塞ぐ。(※成人の儀式の一環で、振袖→小袖と衣装を変えること)
10月9日、駿府城火災。
10月14日、先の火災において松平正綱の消防の指揮がよかったということで、三千石加増される。大塚・友国・富田・荻原・酒井・善明・小牧・中野、の八ヶ村。(『大日本史料』)
10月、長四郎の実父・大河内久綱が家康に仕える。(『実紀』)
慶長15,6年頃、長四郎は体調を崩し、一時勤めを退いた。
12月25日、阿部忠秋が小姓となる。(『藩翰譜』)
12月、阿部正次、鹿沼で加増を受ける。寛永諸家系図伝には年のみ記載されている。大河内秀綱が鹿沼を去ったのはこの頃であろうか?秀綱が引退した正確な時期は不明。
2月11日、長四郎の母方の曾祖父・深井対馬守景吉、没(80歳)。
5月7日、将軍秀忠の四男・保科正之、誕生。
8月2日、松平正綱、徳川義直・頼宣・頼房の供として藤堂高虎邸へ。(『駿府記』)
9月27日、正綱、家康の供として藤堂高虎邸へ。(『駿府記』)
10月6日、正綱、家康に従って駿府から江戸に向かう。
10月20日、秀忠から家康の供達(本多正純・大久保長安・松平正綱など)に料理がふるまわれる。(『駿府記』)
10月25日、家康から供の者に鶴の料理などふるまいあり。(『駿府記』)
11月13日、家康・秀忠父子、川越で落ち合う。秀忠から家康の供達(正綱を含む)に黄金、馬、服など贈り物あり。(『駿府記』)
11月15日、長四郎、元服して前髪を取り、"正永"を名乗る。
11月23日、正綱、家康にしたがって駿府へ戻る。
慶長16〜17年にかけて、松平正綱と井上正就の間に行き来あり。
井上正就は秀忠の乳兄弟にあたる。通称を半九郎と言い、後に主計頭を称した。
この当時、
駿府 大御所・徳川家康 松平正綱が仕える
江戸 将 軍・徳川秀忠 井上正就が仕える
という状況である。
当時の井上正就の石高ははっきりしないが、『寛政重修諸家譜』によると、大坂冬の陣後の元和元[1615]年1月27日(正確には改元前なので慶長20年)一万石になっている。慶長17〜18年の時点では松平正綱とそれほどかわらない3000〜6000石くらいか?
3月13日、井上正就、秀忠の供で駿府に向かう。17日駿府着。家康に気に入られた。
4月10日、秀忠・正就、江戸へ戻る。
7月26日、大河内久綱が家康の許に赴き、久綱の実弟である正綱が取り次ぐ。久綱、この年の関東の田畑収穫について報告。
"忍代官(中略)大河内孫十郎来府之由" (『駿府記』)
このころから、武蔵国広瀬村(埼玉県狭山市内)を大河内金兵衛が領する。この「金兵衛」が秀綱と久綱のいずれを指しているのかははっきりしない。(『新編武蔵風土記稿』)
1月28日、長四郎、井上正就の長女を娶る。
4月26日、伊達政宗の書状文案で、宛名に松平正綱の名が見える。(『仙台市史』)
8月15日、報土寺に家康が渡御。正綱、供をする。(『駿府記』)
9月、正綱、家康に従って駿府から江戸に向かう。
10月19日、正綱、江戸城で料理をふるまわれる。
10月27日、正綱、岩付(岩槻)で白鳥をとる。(『駿府記』)
慶長18年頃、正綱、正妻の山口左馬助弘定女を離縁。(事語継志餘録)
1月1日、正綱、江戸城において正月の祝いの席に列なる。
2月25日、梅津政景、運上銀を家康に披露するため駿府城に出頭。(『梅津政景日記』)
2月28日、前日受領した運上銀受け取りの黒印状に正綱の判がないことを問い合わせる。(『梅津政景日記』)
大坂冬の陣。
10月1日、「大坂に変事あり」の報が駿府に達する。
伝えられるところでは、正綱はこの日能舞台の準備を命ぜられていたという。大事になっているとは知らず、家康が諸将を集めているところに能の準備ができた報告にまかり出たので、家康が「大坂に能見物をしにいく訳ではない」と言ったとか。(『実紀』)
10月11日、家康、出陣。"御書院御小姓之支配"として松平正綱、従う。(『相馬藩世紀』)
12月2日、正綱、大坂城の周囲を見廻る。(『駿府記』)
12月24日夜、茶臼山で近臣の小屋五六軒焼失。"松平右衛門太夫正綱・板倉内膳正重昌・加賀爪民部少輔直澄堅ク御陣営ノ四門ヲ守ル"。(「板倉家御歴代略記」)
大坂夏の陣。
松平正綱、参陣。
5月6日、松平正綱のもとの舅・山口左馬助弘定、若江で井伊直孝配下の八田金十郎に討たれる。山口左馬助は木村長門守重成の妹婿であり、この日も木村重成の手に加わっていた。正綱、家康に請い山口の首をもらい受け弔う。(『大日本史料』『御当家紀年録』)
(木村重成の年齢がこの時点で二十代前半とすると、「重成の妹(山口弘定の妻)」と「松平正綱の正妻(山口弘定の女)」はほぼ同年配であろう。)
慶長20[1615]年7月13日、元和と改元される。
この年、大河内又兵衛重綱(信綱の姉の子)、生まれる。
9月29日、大御所・家康、駿府を発ち江戸に向かう。正綱、供をする。(『実紀』)
11月11日、大河内久綱より古宮村年貢割付状が発給される。(『加須市史』に収録)
11月、正綱、家康の鷹狩りに供をする。"別而出頭にて候" (『本光国師日記』)
家康、この頃「群書治要」の出版を企図し、駿府城三之丸能舞台が作業場に充てられる。
2月23日、「群書治要」の作業を進めるため、本多正純・松平正綱・板倉重昌・秋元泰朝の連名で作業場に用のない者の出入りを禁じる。家康の病状が思わしくないため、作業を急いだともいう。(『静岡市史』)
3月21日、正綱、大坂の陣の軍功により、吉田・荻原・寺津・巨海、で七百八十石を加増される。
4月3日、水野忠清、駿府で家康と対面。土井利勝、本多正純、松平正綱、秋元泰朝が同座。(『寛永諸家系図伝』水野忠清の項)
4月17日、徳川家康が死去。(75歳)
夜、遺体を久能山に移す。本多正純・松平正綱・板倉重昌・秋元泰朝が従う。
4月19日、正綱、他の老臣とともに久能山の仮殿で一拝する。(『梵舜日記』)
10月、駿府城の蔵を改めるため、松平正綱・板倉重昌・秋元泰朝が駿府に出張する。12月下旬に帰府。(「板倉家御歴代略記」)
12月1日、大河内久綱より稲荷台村年貢割付状が発給される。当時の署名は「大河内孫十郎」となっている。(『加須市史』)
1月、正綱、所領の寺津で、十人組・キリシタン取締り・竹林育成などからなる禁令を発布。(寺津八幡宮旧記) 煎本増夫『江戸幕府と譜代藩』を参照。
3月15日、家康の霊柩を久能山より日光に移す。松平正綱らが従う。
4月4日、日光着。
8月26日、方広寺大仏殿で、松平正綱・伊丹康勝、朝鮮通信使を接待する。(『実紀』)
12月29日、近年、この日に発行された、松平正綱の花押のある年貢割符が発見される。(『吉良町史』)
この頃既に津平村が正綱の領するところであったことが知られる。『吉良町史』は、これをもってこの頃既に二万石余を領していたとするが、数回に分けて加増された・または村替えなども考えられるので、ここでは断定を避けたい。後考を待つ。
閏3月7日、崇伝、秀忠より八木(=米)二百俵拝領。安藤重信・土井利勝・松平正綱・伊丹康勝の連名による切手の案が日記中に記されている。(『国師日記』)
9月13日、信綱の祖父・大河内秀綱が死去。
"松平右衛門殿親父被果候由…"(10月15日付 細川忠興書状)
11月10日、富田吉右衛門へ新知充行につき連署書付に正綱が署名。(『東村山市史』)
3月22日朝、正綱の数寄(茶会)に佐竹義宣が招かれる。(『梅津政景日記』)
6月4日、"御年寄衆四人"と伊丹喜之助康勝、松平正綱の連判状をもって、将軍秀忠から佐竹義宣へ扶持米二千俵が下される。(『梅津政景日記』)
8月4日、水野日向守勝成、備後国に封ぜられる。"五味金右衛門 大久保六右衛門 伊丹喜之助 松平右衛門 右四人相越引渡申候" (『広島県史』所収「水野記」)
11月17日、談山神社より松平正綱と伊丹康勝へ、正遷宮が15日にあったことを報ずる。(談山神社文書)
この年、大河内長兵衛某の女(後に久綱の養女)、誕生。
1月20日、信綱、采地五百石を賜う。
5月4日、家光の妹・
和子が入内のため、土井利勝・松平正綱が先行して上洛。(『実紀』)
5月28日、和子、京に到着。酒井忠世・土井利勝・松平正綱・他の大名が付き従う。(『梵舜日記』)
6月6日、正綱、京都で佐竹家の家臣・梅津政景の訪問を受ける。正綱は留守で、高村伝兵衛という者が進物を預かる。(『梅津政景日記』)
6月10日、正綱より梅津政景に返信あり。
6月18日、和子、入内。正綱が土井利勝などとともに行列に付き従う。(『実紀』)
『寛政重修諸家譜』の松平正綱の項に元和七年とあるのは誤記。(大日本史料にも同様の注釈あり)
8月5日、信綱の嫡子輝綱、誕生。
長女の千万姫は慶長19[1614]年から元和5[1619]年までの間のどこかの生まれということになるが、家譜の記述(正保4年26歳没)から逆算すると元和8年生まれとなり、計算が合わない。
その後正妻との間に五男四女が誕生している。
千万 | ?-1647.7.16 | 酒井摂津守忠当(ただまさ)に嫁ぐ。 |
輝綱 | 1620.8.1-1671.12.12 | 家督を継いで川越藩主となる。 |
吉綱 | 1623-1650.6.4 | 井上正利の女と婚約するが、当人の死去により果たされず。『榎本弥左衛門覚書』に「分別よきお人」と記される。 |
亀 | 1626-1683.閏5.14 | 土井利隆に嫁ぐが、離婚。 |
伊織 | ?-1633.7.24 | 寛永諸家系図伝には登場せず。編纂時にはすでに夭折していたからか。 |
信定 | 1627.11.15-1716.12.8 | 分家して旗本に。 |
信興 | 1630.8.11-1691.閏8.12 | 分家して旗本から大名に。若年寄、大坂城代、京都所司代を歴任。 |
多阿 | 1634-1693.6.12 | 病身のため、嫁がず。亀姫とともに谷中下屋敷に居住。 |
久満 | 1631-1650.5.30 | 秋元隼人正忠朝に嫁ぐが早世。 |
〜正妻死去〜 |
堅綱 | 1641.1.12-1665.6.26 | 分家して旗本に。 |
百 | 1653-1675.1.30 | 松浦(まつら)家に嫁ぐ。 |
八 | 1653-1657.6.23 | 夭折。百とは双子の可能性もあるが、確証はない。 |
12月末、養父・正綱に実子・左門(利綱)が誕生し、別家の志をたて、正永から"信綱"と改名。
この年、信綱の実弟・信清誕生。宝永5[1708]年6月19日89歳で死去しているので、逆算して元和6年生ということになる。
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